第1話 あなたより先に、妊娠しました
妊娠検査薬の小さな窓に、はっきりと二本線が浮かんでいた。
震える指で、何度もこすって確認する。
消えない。
本当に、二本だ。
「……できた」
声がうまく出ない。喉がひくりと鳴った。
三年間の不妊治療。
排卵誘発剤。
タイミング法。
人工授精。
病院の待合室で、何度も目を逸らした妊婦さんのお腹。
医師には言われていた。
『ご主人の精子運動率はかなり低いですね。自然妊娠は、正直、簡単ではありません』
それでも諦めなかった。
だからこれは、奇跡だ。
私は思わずお腹に手を当てた。
「ありがとう……」
まだ何も変わらない、平らなお腹なのに。
今夜、帰ってきたら伝えよう。
きっと彼は泣く。
あんなに子どもを欲しがっていたんだから。
私はスマホを手に取った。
産婦人科の予約アプリを開こうとして——
通知が表示された。
里奈がストーリーを更新しました。
高校時代からの親友。
今も頻繁にうちのカフェに来てくれる、大切な人。
何気なくタップする。
次の瞬間、呼吸が止まった。
画面いっぱいに映る、エコー写真。
その上に、可愛らしい文字。
『新しい命ができました♡』
え。
思考が固まる。
次の投稿。
『ずっと欲しかった宝物。やっと授かれた』
背景に見覚えのある診察室の壁。
白いカーテン。
あの産婦人科。
私と、夫が通っている——あの病院。
鼓動が早くなる。
偶然だよね。
そう言い聞かせながら、私は投稿を何度も見直した。
ハッシュタグ。
#感謝
#奇跡
#彼に報告したら泣いてた
彼?
……彼?
喉がひりつく。
震える指で夫にメッセージを打とうとした、そのとき。
玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
いつも通りの声。
私は急いで検査薬を握りしめ、リビングへ向かった。
「おかえり」
言わなきゃ。
今言わなきゃ。
私は検査薬を差し出した。
「……赤ちゃん、できた」
沈黙。
数秒。
彼はそれを見つめ、そして——
笑わなかった。
「え……?」
困惑。
驚きよりも、焦りに近い顔。
「本当か?」
「うん。今日検査して……」
言い終わる前に、彼のスマホが鳴った。
画面が一瞬見えた。
里奈
胸が、ぎゅっと潰れる。
彼は私から視線を逸らし、通話を取った。
「……ああ」
低い声。
いつもより柔らかい。
「うん。落ち着いて。俺がいるから」
心臓が、音を立てて落ちた。
通話を終えた彼は、ゆっくりと私を見た。
そして言った。
「……里奈も、妊娠した」
世界の音が消える。
「え……」
「今日、分かったって」
彼は目を伏せた。
「週数は……お前より、少し早い」
指先から血の気が引いていく。
「それって……どういうこと?」
聞きたくない。
でも、聞かなきゃいけない。
彼は、息を吸った。
「……あの子の子ども、俺の子なんだ」
カチリ、と何かが壊れた音がした。
頭が真っ白になる。
私はまだ、検査薬を握っている。
奇跡の二本線。
ずっと欲しかった命。
なのに。
どうして。
どうして今日なの。
彼は続けた。
「ずっと言えなかった。でも……俺、本当に欲しかったんだよ。自分の子ども」
それは。
まるで。
私では無理だったと言われたみたいで。
足元が崩れ落ちる。
お腹を無意識に抱きしめる。
この子は?
この子は、何?
涙が落ちる。
彼は、私ではなく、スマホを見つめていた。
その画面に映っているのはきっと——
親友の名前。
私はその瞬間、理解した。
今日という日は、奇跡の日じゃない。
全部が壊れた日だ。
でもまだ、このときの私は知らなかった。
本当に壊れるのは、
私じゃない。
——壊れるのは、あの二人のほうだと。
(続く)




