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風の迷い道

リンクの先に

作者: 月夜
掲載日:2025/09/28

 この作品は2023年4〜5月にかけて書いた作品です。

 ちょっぴり気弱で虚弱体質な陽太と友達になった遥の二人をメインに、陽太の秘密と架空の地域の伝承をテーマにしました。当時好きだった作品やモチーフがいくつか散りばめられており、懐かしい気持ちになります。

 さて、いくつか注意点があります。

 誤字脱字、また、表現についての苦情は受け付けません。

 また、今作はフィクションです。現実の団体や地域、人物は一切関係ありません。

 ページを変えられたら良かったですが、変えられずにとても読みにくくなっています。ご了承ください。

 なにはともあれ、ちょっぴり不思議な彼らの日常へ行ってらっしゃいませ。

 ぐるぐるする視界で陽太はぎゅうっと目を閉じた。今、自分が立っているのか座っているのかも分からない。耳に入る音はマイクを通した声よりも、自分の近くの期待と不安を詰め込んだ声の方が大きい。

 ぎゅうっと身体を縮こまらせて陽太は意識して息を吐く。しかし、これ以上はだめだ。よろよろと座り込んだ陽太はそのまま耳をおさえた。

「大丈夫か?」

 そっと肩に手が置かれる。相手が分からない不安から陽太は小さく肩を震わせたが、それを振り払うほどの元気はなかった。

 明らかに様子がおかしいことに気付いたのか、その人物は陽太をそっと抱き上げた。急な浮遊感に驚くも目を開ける余裕はない。せめて落ちないようにと自分を抱き上げた人物のシャツを掴んだ。あまり指に力が入らず、弱々しく握るような形になってしまったことには陽太すら気付かなかった。

「もうすぐ保健室に着くからな」

 陽太はその声を聞いて少し安堵した。彼の声は陽太の耳を刺激しない。ちゃんと心から心配していることが分かった。

 ガラッと戸の開く音がする。陽太を抱き上げた人物と保健医と思われる人物の声がする。しかし、陽太は既に限界だったのか、そのまま意識が落ちていった。



 小さな頃から二つの声が聞こえた。一つはお喋りの声。ちゃんと声帯を震わせて、他の人も聞ける声。嘘だって言うしお世辞だって言う。みんなが聞ける声だ。

 そしてもう一つはーー。



「んっ……」

 ゆっくりとまぶたを持ち上げた陽太は白い天井に自分のいる場所が保健室だろうとあたりをつける。これまでにも何度も倒れて保健室に運ばれたことがあるので見覚えのあるものだった。

 進学しても保健室だけは大きく変わらなかった。小さなシミでも目立つ白い天井、薄い色のカーテン、ちょっとだけ硬いベッド、ふわりと香る消毒液の匂い。

 周囲の様子を観察しながら陽太は起き上がる。しかし、すぐにベッドに逆戻りしてしまった。やはりまだ調子は戻っていないようだ。ぐるぐるしていた視界はおさまり、周囲の色も見える。いや、単純に今いる場所が白いから視界がクリアなように感じるだけかもしれない。

 はあっ、とため息をついた。せめて入学式はちゃんと出たかった。お守りはポケットの中で眠っている。大丈夫と言ってくれた陽太の母はそれでもやはり不安そうだった。

 そんなときシャッとカーテンが開く。顔を見せたのは四十代くらいの女性だった。目尻に寄ったシワが女性の人柄の良さを示しているようだった。

「あら、起きたの?気分はどう?」

 声もそれほど大きくない。ふんわりと優しい声は保健医と言われて納得するものだった。

「へ、いきです」

 小さな声で陽太がそう言えば女性はくすくすと笑った。平気って顔じゃないわと言ってもう少し寝ていた方が良さそう、と続ける。陽太は困ったように笑った。昔から保健医には陽太の嘘がバレてしまうのだった。

 女性は手元のバインダーに挟んだ紙にペンを走らせる。サラサラと音がして心地よい。

「次に起きたときに気分が良くなっていたら話を聞いても良いかしら?」

「はい」

 陽太はそっと目を閉じる。この人も陽太のことを心配しているのがよく分かる。きっとそういう人なのだろう。ほうっと息を吐いて寝返りをうった。

 次に起きたときにはきっとよくなっている。そう思った。


 目覚めた陽太は女性ーー梨木美帆ーーから色々と質問をされた。学年、年齢、名前はもちろんのこと、倒れた場所、状況などを事細かに説明した。

 美帆が持病について聞いたとき、陽太は元々貧血気味なのだと言った。陽太の冷えきった手と未だ戻らない顔色に不安そうだったが、いつでも保健室に来て良いと言ってくれた。

「本当に大丈夫なの?」

 陽太はうなずいた。今日中に寮に行かないといけない。寮の部屋分けは終わっているらしいが、まだ荷物を運んでいなかった。

「何かあったら連絡しなさい。これ、私の携帯電話の番号よ」

「でもーー」

「私、この大学の近くに住んでいるの。深夜でも全然大丈夫!佐倉くんの方が大事よ」

 小さな付箋を渡される。陽太はそれを手帳に貼った。そこならばなくすことはないだろう。

「気をつけて帰りなさい。温かくして寝るのよ」

「はい」

 美帆に見送られて陽太は保健室を後にする。あらかじめ保健室の場所と大学の寮の場所だけは把握していた。おかげで迷うことなく寮まで辿り着いた。

 扉を開ければ仁王立ちの青年と目が合った。陽太はびくっとして背を伸ばす。たぶん、門限を過ぎているのだろう。

「こんな時間までどこに行っていたんですか!」

 陽太は震えながら入学式で倒れたことと今まで保健室で休んでいたことを話した。青年は陽太の顔色を見て慌てて陽太を中に招いた。

 温かい室内で青年はお茶を淹れてくれた。ほうっと息を吐く。温かいお茶は身体に染みた。

「さっきは怒って悪かったです……。俺は寮長の畑中悠木です」

「一年生の佐倉陽太です……。ごめんなさい、連絡、できなくて」

「あぁ、気にしないでください、俺も悪かったので。門限を破るやつが多くて……。てっきりそうなのかとーー」

 恥ずかしそうにうつむいて悠木はそう言った。陽太は悪い人ではなさそうだと思った。

「一年生、ということは部屋を知りたいですよね。ちょっと待っていてください」

 悠木は棚に近付く。そこから一つのファイルを取り出すと紙を繰っていった。

「あったあった。佐倉陽太くんですね?」

「はい」

「うん、二人部屋です。ルームメイトは佐々倉遥。ーーそう言えば荷物が届いていたから部屋に置いておきました」

「ありがとうございます」

 陽太はうなずいた。陽太の母が必要なものを後から送ると言っていた。どうやらそれは届いたようだ。

「これはルームキーです。佐々倉くんも持っていますよ」

「あ、はい」

「寮のルールは佐々倉くんに聞いてみてください。分からないことがあれば連絡してくださいね。これ、俺の携帯電話の番号です」

「ありがとうございます」

 小さな紙を手帳に挟む。とりあえず寮の部屋を目指すことにして、陽太は悠木と別れた。

 階段を上がりながらルームメイトはどんな人だろうと考えていた。できるだけ優しい人が良い。それも素直で裏表のない人。陽太にとって表面上の優しさは嬉しくなかった。

 ルームキーと共にかけられた部屋の番号を探せば案外すぐに見つかった。角部屋だ。しかも階段が近い。

 陽太は何度か深呼吸した後、ルームキーを使って鍵を開けた。ガチャッと音がして扉を開ければ、中にはガタイの良い青年がいた。

「きみーー」

「は、初めまして!佐倉陽太です!」

「あ、佐々倉遥っす。よろしく」

 握手を求めて手を差し出した遥の手をおずおずと取った。陽太が中に入れば扉は閉まった。

「ベッドはそこな」

「は、はいーー」

 遥はスポーツをやっていたのかガタイが良く、陽太よりも身長が高い。長時間顔を見て話そうと思えば首が痛くなりそうだった。顔立ちはシュッとしていて目つきが鋭い。ツリ目だった。

「ルールはゆっくり覚えていけば良いって。とりあえず、朝食と夕食の時間だけ覚える?」

 遥はそう言って壁に貼られた紙を見た。朝食は六時半から八時の間。夕食は七時から九時。かなり幅がある。

「風呂は部屋の使えってさ」

「そうですか」

 陽太はびくりと肩を跳ねさせる。遥は怪訝な顔をした。陽太は慌てる。

「僕、お風呂っ!」

 バッと駆けていき、あっという間に洗面所に消えた。遥は自分の見た目で恐怖を与えてしまったようだとため息をついた。

「はぁ〜」

 陽太は湯船に浸かって息を吐く。今日は色々な意味で疲れた。地元と違って人が多い都会の大学。どこからこんなに現れたと思うほどいて、陽太は人ごみに酔ってもいた。その上に負担がかかれば倒れてしまうのも仕方のないことだった。

 ふと入学式で自分を助けてくれた相手のことが気になった。陽太はその相手にお礼を言っていない。

 入学式にいたということは陽太と同じ新入生だろう。近くには同じ学部の人が座っていたはずだ。ということは、明日の新入生オリエンテーションで会うかもしれない。

 ちゃんとお礼を言わなくちゃと思いながら陽太はもう一度息を吐いた。ちゃぷん、と水面が揺れた。

 お風呂からあがればドライヤーが置かれていた。髪を乾かせということのようだ。

 コンセントをさしてスイッチをいれる。カチカチッと風力を上げて風を浴びる。髪を切ることが億劫で伸ばしたままにしているため、たしかにドライヤーで乾かした方が良いだろう。有り難いがあまりドライヤーを使ったことがないから、使い方が分からない。

 少しうなりながらなんとか冷風を浴びせることに成功した。ドライヤーはまだ熱を持っていたのでそのまま置き、一応くしでとかした。

 そっと共用スペースに行くと遥は分厚い本を読んでいた。暗い青色の表紙はシックで格好良い。

「何を読んでいるんですか?」

「ん?あぁ、源氏物語だよ」

 読んでみるかと聞かれて遥がひらいていたページを見せられる。陽太はそれをチラッと見て目を丸くした。現代語訳がない。今まで読んできたものは現代語訳がついていた。

 遥は苦笑を浮かべた。

「俺もあんま読めない。でも慣れとこうって思ってさ」

 ほら、文学部だしと遥は続ける。陽太はそうか、文学部かと思う。たしかに文学部に合格したが文学部だからと言って勉強したことは一つもない。古典文法なんて陽太は大の苦手だ。

「大丈夫だって。俺、苦手だからさ」

「僕も苦手なんです……」

 泣きそうになりながら陽太は言う。たしかに古典だって扱うだろう。どうして思いつかなかったのだろう。

「ふっ……。あはは……」

 見れば遥が笑っていた。なにか笑うところがあっただろうかと陽太は首をかしげる。

「おんなじだな、俺たち」

 そのときに、陽太はそんなことで笑えるんだと思った。こんな小さな『同じ』があっただけで笑って、そして楽しくなるんだ。

「ふふっ……、そうだね」

 陽太も笑い出した。遥は笑えば鋭い目つきがほわんと柔らかくなって怖くなくなる。そのギャップにも笑みがこぼれた。

 陽太の笑顔を見た遥はどこか赤い顔で陽太の頭をぐしゃぐしゃとかきまわした。ちょっと乱暴で視界がぐわんとしたが、これぐらいならば大丈夫だ。陽太はなおも笑う。ころころと笑う様は幼い顔立ちをさらに幼くさせる。

「はーっ、笑った笑った!」

 遥はしばらく笑った後、目元に浮かんだ涙を拭った。陽太も目元を拭う。涙が出るまで笑ったのは久しぶりだった。

「陽太さぁ……、あっ、陽太って呼んでへーき?」

「うん」

「敬語、とって良いから。俺ら同い歳じゃん?」

「敬語……。うん、分かった」

 笑い始めてから敬語が取れていたのだが、陽太は気付かなかった。遥は気付いていたが、あえて伏せていた。

「ねっ、俺のことも名前で呼んで」

「えぇっ?!えっとーー」

 うろっと目線が宙をさ迷う。遥の名前をまだ覚えていないらしい。遥は笑いながら自分の名前を言う。

「うっ……。は、はる、か……」

 陽太は少し照れくさそうに笑いながらそう言った。しかし、すぐに遥くん、と言い直す。呼び捨ては難しいようだ。遥は少し肩をすくめたが、陽太は気付かなかった。

「ん、陽太の呼びやすい呼び名で良いよ」

「ありがとう」

 陽太はほうっと息を吐いた。ルームメイトが良い人で安心すると同時に眠気が襲ってきた。遥はそれに気付くと時計を見た。

「やべ、そろそろ寝ないと」

 壁にかけられた時計は十時を指していた。たしかに明日は九時からオリエンテーションなので早く寝た方が良い。特に陽太に関してはまだ本調子でないため、今すぐ休んだ方が良い。

「ほら、寝よ?」

「……うん」

 遥は陽太の様子を見てベッドに陽太を押し込む。ベッドは部屋の端にあった。それも両方壁際で両極端の位置だった。

 布団をかけてあげれば陽太は微かに笑った。どうやらもう夢の中らしい。遥はそっと自分も端のベッドにもぐりこんで目を閉じる。

 遥はそっと陽太のいる方を向いた。たぶん、このときにはナニカがおこることを遥は予見していたのかもしれない。



 翌日、陽太が目覚めたとき、遥は既に起きていた。

「おはよ。そろそろ朝食を食べに行かないか?」

 陽太は起き上がると時計を見てうなずいた。それから五分で着替えて顔を洗うと遥の隣に並んだ。

「あ、これ、献立ね。朝食は日替わり。偶数日は和食、奇数日は洋食だって」

「今日は偶数日だから和食だね」

「おう」

 遥と共に食堂に行くとかなりたくさんの人がいた。陽太は見覚えのない人ばかりだったが、何人かは遥に話しかけていたので同じ一年生だろう。

「おばちゃん、ご飯多めに盛って!」

「あいよ」

「ぼ、僕は少なめで……」

 お盆に味噌汁と漬け物を乗せながらそう言った。今日の朝食のメインは焼き鮭だった。陽太はできるだけ小さな鮭を選んだ。隣に座った遥は大盛りなのに陽太は全てが並盛りよりも少ない。遥は目をみはる。

「足りるか?」

「うん、少食なんだ」

 陽太はそう言って手を合わせた。いただきますと呟く様はお行儀が良い。遥もいただきますと言って食べ始めた。

「お、遥。おはよ。隣のきみもおはよ」

「おはよ、榊原」

 顔を上げた陽太の前に儚げな美青年が立っていた。ふんわりと笑った顔は病弱そうで、守ってあげないと、と思ってしまう。

 アイロンのかけられた水色のシャツにカーディガンを羽織っている。茶色の髪はふわふわしていて動く度に揺れた。

「あ、榊原。こっちは陽太」

「佐倉陽太です。よろしくお願いします」

「よろしく。おれは榊原正人。遥とは高校生のときから付き合いがあって」

「けっこう頻繁に会ってたよな」

「そうそう」

 くすくすと笑いながら正人は遥の前に座った。陽太はどこを見たら良いか分からず、必死に箸を動かして食べることだけに集中した。

「サークル、どうするの?」

「え?うーん、あんま気乗りしない」

「そっか。うん、それで良いかもよ?」

「え?なんで?」

「いや、ここだけの話だけどさ」

 ずいっと身を乗り出した正人に合わせて遥も身を乗り出す。キスするかのような距離まで顔を近付けてひそひそと話している。

 陽太はその隣で味噌汁を飲み干すとほうっと息を吐いた。今日は普段よりもご飯が食べられた。そんなちょっとした達成感に浸っていた。

「そっか。じゃあ、そのサークルは諦めるかな」

「そうしときなよ。あ、でも文化系のサークルは良いかも。悪い評判はないし」

「あーー、そっか」

「ごちそうさまでした。遥くん、僕、先に行くね」

「あっ、オッケ。分かった」

 陽太はお盆を持って立ち上がるとお盆を戻して部屋に一度戻ってリュックを背負って寮を出た。

 怖いぐらい心臓が脈打っていた。自分にはまだ、遥しか仲良くなった人がいないのに遥は高校生のときから付き合いがある人がいて、陽太よりもずっと親しみやすい顔をしていた。

 目つきが鋭いとかきっと関係ない。遥は優しい人だ。だから見た目の怖さなんて簡単にこえて友だちができる。

「陽太!」

 ぐいっと肩をつかまれて聞こえたギュインと大きな声に陽太は顔をしかめた。

 ーーいっしょに行きたかったのに。

 えーー?

「遥!陽太くん、いた?」

「おぉ。ありがと、榊原」

 陽太がそちらを見れば正人と遥がいた。陽太は恐る恐る言葉を乗せた。

「僕と一緒に行きたかったの?」

「当たり前じゃん!一緒の方が楽しいだろ?」

「それに、今日の集合場所を知らないんじゃないかって遥が言ってて。同じ学部だし、場所一緒だからさ」

 一緒に行った方が良くない?

 陽太はうなずいた。そう言えば集合場所を知らなかったことに今気付いたのだ。

「それに、おれ、陽太くんと仲良くなりたいし」

 にこっと正人は笑った。儚げな美青年は笑うと一気に華やかになる。陽太はくいっと正人と遥の服の裾を掴んだ。

「一緒に行こ……?」

「もちろん!」

「やったね」

 二人は顔を見合わせて笑いながら歩き出す。なんとなく、正人とも仲良くなれそうな気がした。

 三人は教室に入って空いている席に座った。まだオリエンテーションは始まらないらしい。ぐわんぐわんといらぬ音まで入ってきて、陽太はゆらゆらと頭を揺らす。

「大丈夫か?」

「う、うんーー」

 遥が陽太の肩を抱く。陽太は目を閉じた。リュックに手を入れてイヤホンを探す。とりあえず応急処置をしようと思った。

 しかし、見付けるより先にガラッと戸が開いて先生が入ってきた。陽太は目を開けて遥に預けていた身体を離した。

「それでは早速プリントを配る。明後日からの新入生合宿の日程と部屋割だ。準備をしておくように」

 まわされたプリントを一枚とって後ろにまわす。プリントの中身を見ようとしたとき、陽太は目眩を覚えるほどの歓喜の声に押し潰された。

「……っ、」

「陽太?」

 ーーやったぁ!授業はない!

 ーーはやく行きたいな。景色良さそうだし!

 ーーハイキング楽しみだな〜。

 ーー恋バナできっかも!

 ーー早く友だち作らなくちゃ!

 ぐちゃぐちゃな声を防ぎたくて陽太は身体を丸めて耳をふさいだ。自分にとっては嬉しくもないイベントなのに、強引に気分が上向きにされる。

 やばい……、リンクだーー。

 ポタッと冷や汗が陽太のズボンに染みた。犬のように荒い呼気に気付いた遥が素早く手を上げた。

「どうした、……えっと」

「佐々倉です。すみません、佐倉が体調悪いみたいで」

「苦しそうなんで保健室に行っても良いですか?」

 正人が遥の言葉を引き継ぐ。先生が陽太に近付く。伏せられた顔を上げさせれば、真っ青な顔色と虚ろな目を真正面から見てしまった。

 行ってこいと先生は言った。

 その目は人形のようだった。何も感情をうつしやしない硝子玉。

 遥と正人はうなずくと正人が陽太のリュックを持ち、遥が陽太をおんぶした。

 ゆらゆらと揺れる遥の背で陽太は静かに泣いていた。

 本当に嫌になるーー。


 ガラッと戸を開けて保健室に入った二人は保健医の美帆にベッドまで案内してもらった。美帆は嗚咽すら漏らさず静かに泣く陽太に驚いた後、それでも布団をかけてできるだけ優しい声で休みなさいと言った。

 陽太は静かにその指示に従った。ゆっくりと目が閉じられ、呼吸が安定するまで見守った美帆はカーテンを閉めた。昨日より酷い顔色だった。

「先生、陽太はーー」

 美帆はおや、と思う。昨日の入学式で陽太を運んでくれた学生がいたのだから少し驚きであった。どういう関係なのかはまだ分からないが、彼が味方になってくれると有り難い。

 美帆は陽太が来てくれないと分からないが、彼の近くにいる人ならば陽太の様子を確認してもらうこともできると思った。

「寝ているわよ」

 どこを見ているか分からない虚ろな目は、昨日より症状が酷いことを物語っていた。受け答えもハッキリせず、どこか人形のようだった。けれど美帆は知っている。

 ーーあの子は、人形じゃない。

「……さて、事情を聞いてもいいかしら?」

「はい」

 美帆は遥と正人を椅子に座らせ、名前を聞いた。二人は名乗った後、陽太と同じ学部であることを告げた。遥に関してはルームメイトであることまで教えた。

「そっか……」

「陽太くん、そんなに悪いんですか?」

「悪いっていうか……」

 美帆は言葉を濁す。陽太のことはまだ分からなかった。まだ入学式から一日しか経っていない。それなのに二回も保健室に運ばれる学生なんて初めてだった。

「部屋での様子はどうだったの?」

「え?普通、でしたよ?顔色も悪くなかったし」

「朝食は少なかったですけど」

「あれは少食なんだって……」

 美帆はパソコンに向かう。在学する学生の情報を検索するためだった。入学時に持病などを申請してもらったのだ。昨日は忙しくて確認できなかったが、確認するならば今だと思った。

 カチッとマウスから音がする。見れば持病の欄には貧血気味と書かれていた。やはりこれ以上の情報は明かす気がないらしい。

「あの、明後日から合宿があって」

 美帆は思い出す。たしかに文学部は新入生合宿がある。内容としてはいたって普通の合宿で、勉強よりも同じ学部の者同士、仲を深めることを目的としている。そのせいかハイキングだったりグループディスカッションが多い。

「行くつもり?」

「分からないです」

 正人はそう言った。陽太の様子を見る限り、合宿は難しそうだ。ハイキングなんてもってのほかだ。

「私は引率で行くけど不安ね……」

 美帆は付き添いの形で行くことが決定していた。陽太を気にかけることはできるが、彼ひとりにかまうわけにもいかない。学生ひとりを優先するわけにはいかないのだ。

「起きたら聞いてみるわ。……ほら、戻りなさい」

「はい」

 二人が保健室を出ていく。戸が閉まる音を確認した美帆はパソコンに向き直ってため息をついた。

「保護者とお話が必要かしら」

 保護者の欄を見れば佐倉唯愛と書かれていた。これでいちか、と読むらしい。ずいぶん珍しい名前だ。美帆は聞き馴染みがあるような気がした。しかしそれが何故なのかは思い出せなかった。

「まずは電話してみましょう」

 そう言ってふと時計を見た美帆は慌てる。そう言えばあと五分で会議が始まるのだった。会議と言ってもオンライン上で参加するものだから平気なのだが、学生が休んでいるのだから音は出せない。

 会議の準備を終えた美帆はそっと陽太の様子を見た。顔色は相変わらず悪い。このまま消えてしまいそうだった。

 起きたときに困らないようにベッド脇の机にペットボトルとコップとメモを置いた。メモには会議に出ています、と書いた。

 準備は完了した。美帆はカーテンを閉めると陽太のいるベッドがカメラに映らないことを確認して、マウスを動かして会議に参加した。


 陽太が目覚めたとき、一番はじめに思ったことは話し声が聞こえる、だった。なのに相手の声は聞こえない。通話なのかと思いながら陽太は身体を起こす。少し視界が揺れたがなんとか耐える。昨日と違って感情がリンクしそうになったせいか、やはりまだ頭が重いような気がした。

 昨日ぶりの景色に陽太は倒れたのかと思う。ふとベッド脇の机に目をやるとメモとペットボトルとコップが置かれていた。

「これ……」

 声が掠れていた。ペットボトルに手を伸ばし、フタをあける。どうやらあいているものを置いてくれたらしい。それは有り難い。

 とぷとぷとコップに水を注ぎ陽太はそれを飲んだ。かさついた喉に水は染み渡った。

「はぁっ……」

 ゆっくり息を吐けばやっと落ち着いたような気がする。コップを置いて再びベッドに背を預ける。聞こえる声は一つだけで、陽太にとって聖域だった。ほうっと息を吐けばまぶたが重くなる。

 やはりまだ調子が良くないのだ。だったら寝てしまおう。久しぶりにリンクしかけたのだ、身体は休息を求めている。

 陽太は目を閉じて静かに深呼吸をした。乱れた布団もそのままに意識が落ちていった。


 会議が終わった美帆はそっとカーテンを開けた。見ればかけ布団が乱れていた。コップを覗けば中に水があることから飲んだ後、そのまま寝てしまったようだ。かけ布団をかけながらそっと顔色を確認すれば、運ばれてきたときよりは良くなっていた。

「よいしょっと……」

 メモを回収してカーテンをひく。もうすぐ昼食の時間だった。美帆に関してはお弁当があるため気にしなくても良いが、陽太はどうだろう。お弁当を持っているわけではなさそうだったので買いに行かねばならない。

「どうしようかしら……」

 ーーひとりにはしたくないもの。

 今にも消えてしまうのではないか、という不安はまだ美帆の心に巣食っていた。

 そこへガラッと戸が開く。美帆が目を向ければ正人と遥がいた。正人の手には購買の袋が握られていた。じゃっかん透けているそれを見ればサンドイッチやおにぎり、弁当などが見えた。

「それ……」

「陽太と食べたくて。起きました?」

「一回、起きたみたいだけど今は寝ているわ」

「そうですか……」

 正人がそう言って目を伏せた。やはり優しい。この二人ならば陽太のことを見てもらうこともできるだろう。

「あの、陽太の様子とか、見られます?」

「ええ、大丈夫よ」

 ついさっき見たとき、ぐっすり寝ていたから起きることはないだろう。美帆はカーテンを少しひいた。

「お昼も食べたらどうかしら?お腹空いちゃうわよ」

「はい。ありがとうございます」

 二人はカーテンを閉めると丸椅子に座った。そっとビニール袋の中から弁当を取り出した。

「ほら、遥の分」

「サンキュ。榊原は何を食べるんだ?」

「えぇ〜?おにぎりかな」

 袋からおにぎりを取り出した正人はペリペリッと包みをあけていく。遥も弁当の蓋をあけた。

「ん、美味しいな」

「そうだね。美味しい」

「購買は安くて良いよね」

「大学生は金欠だもんな」

 遥はそっと陽太の顔を見る。すうすうと寝息が聞こえる。

「なぁ、遥」

 正人は真っ直ぐ遥を見た。遥はうなずく。

「陽太くん、しばらく見とこうね」

「まあな。見とかないと消えそうだもんな」

 おにぎりを食べ終えた正人は次のおにぎりへと手を伸ばす。陽太はまだ起きない。

「サークルさ、おれはもう決めた」

「へえ。どこ?」

 ふっと正人が笑った。遥は箸を置いた。

「漫研」

「榊原、絵、描けんの?」

「もちろん」

 正人はそう言ってゆらゆらと揺れた。おにぎりも食べ終えて暇そうだ。

「サークルって絶対だっけ」

「たしか」

「あーー。どこに入っかな」

「陽太くんはなにか言っていた?」

「んにゃ。聞いてない」

 遥の言葉に正人はそっかと言った。ふと陽太を見ればゆっくりと目を開けていた。

「おはよ。平気?」

「……おはよう」

 陽太はゆっくりと身体を起こした。正人が美帆を呼びに行った。

「とりあえずご飯食べちゃいなさい。食べながら話を聞かせてね」

 陽太はきゅっとシーツを握った。たぶん、言いたくないのだろう。

「サンドイッチとか菓子パンがあるぞ」

「遥くんたちが買ってきたの?お金……」

「良いって。正人のおごりだし」

「そうそう。お腹空いたら何もできないからさ。お金は気にしないで」

「あ、ありがとう……」

 陽太はサンドイッチを受け取るとペリペリとあけていった。はむっと口にしてもぐもぐと動かす。その様はリスみたいでかわいらしい。

「美味しい?」

「うん。これ、どこの?」

「購買のだよ」

 陽太は目を丸くした。それからサンドイッチにもう一度かぶりつく。

「食欲はありそうね。よかった」

「はい、ありがとうございます」

 陽太はごくんとサンドイッチを飲み込んでからそう言った。美帆はバインダーに挟んだ紙を見る。

「どうして倒れたかは分かる?」

「……貧血なんです」

 陽太は顔を少しだけ伏せた。

「あんまりご飯も食べられないし、貧血気味だし……。しょっちゅう倒れていて」

「そう……」

 美帆は少し考え込むような顔をした。陽太はサンドイッチを食べきるとコップに水をいれて飲んだ。

「どういうときに倒れちゃうのか分かる?」

「……人が多いところです」

 人が多いところは高確率で倒れる。陽太の言い方をすればリンクしやすいのだ。

「ところで新入生合宿には行く予定かしら?」

「えっと、今のところ……」

「先生、大丈夫です。俺たちが陽太の様子を見ておきます」

「先生も行くみたいですし、大丈夫ですよ」

 遥と正人がそう言う。陽太は美帆を見た。美帆は陽太の意志を尊重したいと思った。美帆の役割は学生の健康を守ることであり、学生の意志を無視することではなかった。

「じゃあ、任せても大丈夫かしら?」

「はい」

 パアッと二人は顔を輝かせた。陽太はどうやら決まったようだと思った。合宿には行けるらしい。

「佐倉くん」

 無理はしないことよと美帆は言う。陽太は大きくうなずいた。

「さ、今日はもう帰りなさい」

 まだお昼なのに寮に帰れるのか不安だったが、そんな心配は必要なかった。談話室には寮長の悠木がいて、陽太たちを温かく迎えてくれた。

 悠木は四年生だと言う。四年生ならば就職活動で忙しいはずなのに、どうしてこんなにものんびりしているのだろう。不思議に思った正人がたずねた。

「寮長は進路決まっているんですか?」

「まあそうですね。この寮の管理人ですよ」

「寮の管理人?」

 不思議そうな顔をした陽太に向かって悠木はうなずいた。

「ここ、俺のばあちゃんがやっていたんです。でも、腰を痛めてできなくなって……。俺、ばあちゃんにたくさん世話になったから継ぐって言ったんです」

 四年生の一年間はずっと管理人見習いとして修行をするんですよ、と笑った。眉を下げて笑う様は、どこか困っているようにも見えた。しかし楽しい気持ちが隠せていない。

 ーー俺が、ずっと残しとくんです。

「大丈夫ですよ」

 陽太は小さく笑った。ばあちゃんが好きでその意志を継ぎたいと思う悠木ならば、その願いは叶う。陽太は本気でそう思った。

 悠木は少しだけ嬉しそうな顔をした。賛同されたのが嬉しかったようだ。陽太はこっそり悠木を応援しようと決めた。



 合宿の出発日。バスに乗り込んで陽太は目を閉じた。今日はイヤホンをしていた。

「おはよ。隣、良い?」

「遥くん、おはよう。良いよ」

 片方だけイヤホンを外して陽太は笑う。遥は陽太の隣に座った。わいわいと少しうるさい車内。しかしリンクしてしまうほどではなかった。

「辛かったら言ってくれよ?」

「うん、分かっている」

 遥と正人は美帆と共謀して陽太の健康観察係になった。保健医が学生と連絡先を交換することはあまり推奨されていなかったが、入学してたった二日で保健室に二回も訪れた学生の陽太と、その周囲の学生は特例として認められた。

 もちろんその存在は陽太には伏せられた。知っているのは教員と美帆と遥と正人と陽太の母の唯愛だけだった。唯愛にだけは知らせた方が良いと言って、陽太のルームメイトや学友が陽太の体調を注視することになったと告げた。

 バスが出発した。陽太はぼうっと窓の外を眺めていた。ビルばかりだった景色が田畑がメインに変わるまでそれほどかからなかったと思うが、実際にはだいぶ時間がかかっていた。

「眠いなら寝ちゃえば?」

 ガラスに写った遥は眠そうだった。陽太がそう言えば遥は目を丸くした後、大丈夫と言った。陽太はそう、と返して再び田畑に目を向けた。

 のどかな風景を見れば懐かしさが胸を埋め尽くした。陽太の地元は田畑が多いところだった。車道と歩道の区別もない広い道を歩いていれば、風が陽太の脇をぬっていった。蝉と蛙の声が聞こえる、そんな田舎だった。

 あそこには今は亡き父、裕との思い出がたくさんある。陽太が小学校二年生の頃に亡くなるまで、休日には川で釣りをしたり、空き地でキャッチボールをしたりした。人の多い観光地にも行けない陽太のために、人の少ない穴場スポットを探してくれた。

 幼稚園で、小学校で、陽太がリンクしても大丈夫だ、と言って笑ってくれた。リンクして暴走して壊したりしたときは、一緒に謝ってくれた。

「陽太、行こう。着いたぞ」

 ゆるりと目を開けた陽太は目の前に差し出された手を不思議そうに見た。

「……ほら、行こう」

「うん」

 遥の手をとってバスをおりる。目の前にある大きな建物には見覚えがあるような気がした。

「部屋割りはしおりに書いてある通りだ。荷物を置いたら大広間に集合」

 バタバタと人が動いていく。陽太はぼんやりとそれを見ながら隣に立つ遥と正人を見た。

 陽太の部屋は四人部屋だった。遥と陽太と正人ともう一人、大樹という学生が一緒だった。怪我人がいるため部屋は一階でエレベーターが近い。とても便利なところだった。

「よろしく」

 ふわりと笑った大樹は、足に白い包帯を巻いていた。どうやら骨折したらしい。陽太たちと同じ部屋の学生だ。遥と正人の役割は陽太と大樹の世話を焼くことだった。

「それじゃ、ここに荷物を置いとくね」

「ありがとう、榊原くん」

「荷物置いたね?それじゃあ行こうか」

 陽太は扉をおさえる。大樹が松葉杖をつきながら歩き出す。部屋を出てすぐのところに大広間はある。ちなみにお風呂は最上階だ。

 コツンコツン、と松葉杖の音がする。陽太たちの靴が床の上を滑るような音が響く。大広間には一番乗りしてしまった。

 大広間の隅の方にパイプ椅子を設けて大樹が座る。その隣に正人、陽太、遥の順で座っていた。ちょっとした特別扱いだ。

 やがて人が増える。陽太は顔を伏せて耳をおさえた。少しずつ声がまざり始めていた。

「辛いか?」

「……っ、平気……」

 深呼吸をして落ち着かせる。この前にリンクしかけたとき、陽太は再び線引きをした。自分と他の人の感情の間に線を引いてハッキリとさせた。これまで以上にハッキリとした線は、きっと揺らぐことがないだろう。

「なにか飲むか?」

「大丈夫」

 飲み物を飲んだところで治らないことは分かっている。ポケットから耳栓を取り出した。それを耳に入れてぐっと下唇を噛んだ。

 しばらくして学生が全員そろったらしい。陽太はマイクのスイッチが入った音と共に耳栓を抜いてポケットにしまった。

「えーー、これよりこの合宿中のグループディスカッションのグループ分けを発表する。今日発表したグループは今日限定だ。明日の朝には別のグループになる。ではスライドにうつすからそこに移動しろ」

 パッと画面に学生の名前が表示される。陽太たちは全員バラバラになってしまった。グループはあえてバラけさせて様子を見る予定なのだ。

「じゃあ、行ってくるね」

 陽太は立ち上がってグループの位置まで行く。グループのメンバーは初対面の陽太を快く受け入れてくれた。

「よろしく〜」

 ニッと笑った学生に陽太は笑い返す。そこからは自己紹介と今日のテーマについて話し合った。その日のテーマは文学部で学ぶことはなにか、だった。

 正解はないから自由に答えてくれと言われてグループのメンバーがそれぞれ意見を出す。

 陽太のグループで一番多かった意見は古典だった。文学部といえば、という印象だった。しかし、少数意見ではあるが民俗学や言語学などもあげられた。

 その二つの言葉を知らなかった陽太は隣に座っていたおとなしめの女子学生に聞いた。彼女は優しく説明してくれて、陽太はその二つを理解した。

 民俗学は民間伝承・風習・祭礼などの研究から民衆の生活文化を研究する学問で、言語学は人類の言語の構造・変遷・系統・分布・相互関係などを研究する科学のことだ。具体例をあげれば民俗学ではお祭りや民話やトイレの花子さんなどの怪談、言語学では方言や若者言葉や文法などだ。

 そういえば文学部って卑怯だと思う、と別の女子学生が言った。陽太は顔を上げた。

「だって、そうじゃない?医学部って言えばお医者さんになるのって言われるけれど文学部ですって言ったところで何をやっているかなんて人それぞれでしょう?」

 類型化できないから毎回説明しないといけないじゃない、なんて不満そうだ。

「でも、類型化できないってことはそれだけ印象に残りやすいってことだと思う」

 気付けば陽太はそう言っていた。メンバーの視線が突き刺さる。

「例えば医学部って言ったときにお医者さんになるのって言われちゃうでしょ?でも、文学部って言ったら何やっているのってなる。そこで若者言葉を調べてるとか、トイレの花子さんを調べてるって言えば、珍しいから覚えてもらえる。それって特権だと、思う」

 陽太はうつむいた。少し喋りすぎた気がすると陽太は思った。自分はそんなキャラじゃないのに何を思ったんだろう。

「そうだよな。研究のテーマとかアプローチの仕方で自分の個性が出せるよな」

 陽太は弾かれたように顔を上げた。そんな風に言われるとは思っていなかった。言った学生はニカッと笑った。陽太は良い奴だと思った。彼の心も矛盾なく肯定している。

 あぁ、都会の人は冷たいって言うけれどそんなことはないじゃないかーー。

 陽太は安堵の息を吐いた。ここでなら上手くやれるような気がした。

 グループディスカッションの結果を発表するとき、陽太はその発表者になってしまった。くじ引きだ。運が悪かった。

 発表者の列に並べば嫌だなという声ばかり聞こえた。陽太自身の感情としては不安の方が多く、嫌という感情はなかった。

「僕たちのグループでは、文学部で学ぶことは古典ではないか、という意見が一番多かったです。ですが、民俗学や言語学も少数意見ながらあげられました」

 真っ直ぐに陽太は言った後、

「文学部で学ぶことは僕個人としては多様性だと思います。古典でも、方言でも、民話でも、風習でも、ここでは学べます。同じテーマでも僕と皆さんでは違うところに興味を持って、違う方法で調べるでしょう。そうすれば違うことが分かります。……文学部はそういう学問を扱う学部だと、僕は思います」

 肩から力が抜けた。言い切った、そう思った。小さな拍手が次第に広がっていく。あぁ、やりきったんだと思う。

 その瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。強い感情が陽太の耳を刺激して頭をかき回した。耐えられなくなった陽太は自身の耳をおさえる。ガクリと足から力が抜ける。

「佐倉!!」

「陽太!!」

 なんとか膝をついて座り込むまで耐えたが、吐き気が酷い。陽太は床を見た。

「佐倉、佐倉!」

 同じグループの学生だろうか、陽太は肩をつかまれて顔を上げさせられる。あまり焦点の定まっていない目がなんとかピントを合わせる。

「大丈夫か?」

「問題ないよ、貧血だろうから」

 ひょいっと陽太を抱き上げたのは遥だった。陽太は寒いのか自身をかき抱いた。

「おれの着てたのでごめんね」

 ふわりと正人の上着がかけられる。陽太は目を閉じて遥に身を預けた。

「部屋に運んで」

 美帆の指示に従い、遥が大広間を出て部屋に戻る。正人は残ることになった。

 部屋のベッドに横にならせた陽太は気を失っていた。遥は正人の上着を丁寧に畳んだ後、かけ布団をかけた。

「佐々倉くんは戻りなさい。私が見ておくわ」

「はい」

 遥の居なくなった部屋で、美帆は陽太の寝顔を確認する。

 ーーあぁ、やはり見覚えがある。いや、似ている。

 美帆の脳裏にかわいらしい少女とふわりとした髪の女性が浮かぶ。かわいらしい少女は女性の幼少期だ。

 ーーやっぱり唯愛の子どもなんだ……。



 美帆が唯愛と出会ったのは幼稚園のときだった。その頃の唯愛は明るくて元気な子どもだった。同い歳で仲が良かった美帆と唯愛は、互いの家に頻繁に遊びに行っていた。二人の生まれた村では、同じ歳の子どもは珍しかった。

 しかし、美帆は小学校にあがる前に引っ越した。父親の転勤だった。それから美帆が唯愛と再会するまで、実に十年以上の月日が必要となる。

 美帆が唯愛と再会したのは、大学だった。はじめは全く気付かなかった。しかし、学部をまたいだ講義で幼少期の話で盛り上がったときにお互いに思い出した。

 美帆は印象の変わった唯愛に驚いたものの、昔と変わらない態度で接した。美帆にとっては唯愛と再会できたことは嬉しかった。

 唯愛は美帆と楽しそうに話したり笑ったりすることが多かったが、他の人を交えると一気に顔色が悪くなることがあった。多くの人がいるところでは、倒れることも多かった。そしてその度に唯愛は美帆に謝った。

 ごめんねと謝る唯愛は決して理由を明かさなかった。しかし彼女は理由を分かっている。そう思った。美帆は言及できなかった。唯愛は実に見事に話題をすり替えるのだから、いつしか聞くことを諦めた。

 そして卒業を迎えた。美帆は唯愛と連絡先を交換しなかった。言えなかった。あのとき言えば良かったと今さらだが後悔している。それから唯愛は子どもを産んで、夫を亡くし、現在に至るようだ。

 陽太は本当によく似ている、大学時代の唯愛に。いや、当時の唯愛よりもひどいかもしれない。あの頃の唯愛はしょっちゅう倒れていたけれど、十日に一回のペースだったはずだ。もちろん、美帆が知らない分もあるだろうが、それほど誤差はないと思う。なのにどうして陽太はーー。



 ふっと意識が浮上する。美帆の目の前で陽太が身体を起こしていた。どうやら気付いたらしい。

「体調はどうかしら?」

 美帆がそっと笑めば陽太は美帆を見た後、へにゃっと笑った。それは唯愛がよくやっていた誤魔化す笑みだった。

「もう大丈夫です」

 ーー嘘。そんな顔色じゃあ、きっとまた倒れてしまう。

 美帆は陽太の肩を押す。陽太は重力に逆らわずにベッドに戻った。とろりとした目はまだ眠たそうにしている。

「寝ちゃいなさい」

 陽太はうなずいて眠りについた。美帆はぎゅっと握り拳を作った。

 全ての鍵は今は水底に沈んだ二人の生まれた村にある。

 これはただの憶測だ。しかし、確証のある憶測だ。同じ村に生まれた子どもなのに片方は苦しみ、片方は何もなく暮らしている。なにかが二人の運命を変えたのだ。ではそれは一体なんだろう。

 村を離れた年齢か。それともなにか儀式のようなものか。そんなことは分からない。けれどその鍵は大学生だった唯愛が持っていた。

 唯愛はどこの学部で何をやっているの、と聞いたとき、唯愛は言っていた。私は文学部で地域の伝承について調べているの、と。

 保健医を目指していた美帆には真新しい言葉で、印象に残っていた。しかし、覚えていて良かった。

 これらのことをヒントに美帆は調べ始めた。その結果はまだ、出ていない。



 二日目のハイキングを陽太と大樹は見送った。陽太の顔色が悪いことが理由だった。大樹に関しては元からハイキングには参加する予定ではなかった。怪我の影響は思ったより大きかった。代わりに二人と教員二名で合宿所の案内を作ることになった。

 大樹は絵がとても上手だった。陽太はあまり絵は得意ではなかったが、教わって簡単な絵を描いた。

 お風呂は男女をそれぞれ描いて女性用、男性用、と書いておいた。大広間は食事と集合の場だから人とご飯を描いた。トイレ、各フロア、教員用の部屋、保健医のいる部屋。たくさん描いて全て二人で貼るために合宿所の中を回った。

 階をまたぐ移動は全てエレベーターだったので陽太は一度として階段は使わなかった。これは寮に戻ってからが怖いなと思った。もうすっかり運動をしていない。

 ペタリとセロハンテープで壁に貼りながらふと思い出したことを陽太は口にする。

「大樹くんは、サークル決めたの?」

「うん。漫研だよ」

「そっかぁ。絵、上手だもんね」

 陽太はうつむく。自分はまだサークルを決められなかった。一人でも活動が成り立つならば喜んで入るが、それは芸術関係のサークルばかりで陽太は頭を抱えていた。

「佐倉くんはどうなの?」

「え?……うーん、悩んでる」

「そっか。うん、いっぱい悩めば良いよ」

 大樹はふわりと笑う。ついさっきまでペンを握って楽しそうに描いていた人と同じ人とは思えない。

「佐倉くんの気が済むまで悩んで、それでも決まらなかったら言ってよ。サークル見学会でもやろう」

「……うん」

 大樹は良い奴だ。昨日、倒れた後に目覚めた陽太に向かって大樹は何も言わなかった。聞きたいこともあっただろう。けれど顔色の悪い陽太に合わせて部屋で食べると告げた大樹は、陽太の少ない量の食事を見て驚いていた。

 もっと食べなよと言って大樹の分のからあげを一つだけ陽太の皿に乗せてくれた。陽太はそのからあげを食べた。それを見ながら大樹はゆっくりと自分の分を食べ始めたのだった。

 さて、夕方ぐらいになってハイキングから学生たちが戻ってきた。陽太は大樹と共に部屋にいた。たくさんの疲労が陽太を押し潰そうとすることが目に見えていたからだ。

 もちろんそれは大樹には言わなかった。いや、言えなかった。言ったら気味悪がられる。そんな経験ばかりしてきたのだから。

 それから少しして部屋に戻ってきた遥と正人は大樹から今日は陽太が倒れていないと聞いて少しだけ安心していた。毎日倒れている陽太が倒れなかったという小さなことだけど、二人は嬉しかった。やはり人数が関係しているようだと彼らは思った。

 それからお風呂の時間になった。陽太たちは大樹の介助の役割もあるため、一番遅い時間が割り振られていた。

 けれどその日は違った。お風呂の時間が遅くなったのだ。そうなると一番遅い時間に入ることになっている陽太たちが遅くまで起きていることになる。それを危惧した教員がシャワーだけで良いなら入れると言ってくれたのだった。

 四人でエレベーターに乗ってお風呂に行く。脱衣場で服を脱いで大樹の包帯を巻いた足に袋を被せて遥が抱き上げる。

 シャワーコックをひねってお湯を出す。それぞれで洗った後、遥は大樹を再び抱き上げて脱衣場に戻る。正人と陽太はそれぞれ身体を拭いて服を着た。

 この間実に十五分。四人は再びエレベーターに乗って部屋に戻った。誰ともすれ違わず、誰にも知られず。いや、教員は知っていたが。でも、彼らにとっては小さな冒険だった。



 合宿が終わった。授業が普通に始まってから、陽太は倒れることが少なくなった。授業以外で他の人と関わることがなければ、多くの人がいるところに行かなければ。それゆえイヤホンも許された。授業中は耳栓をすることも許された。

 そうやって少しずつ予防した結果、陽太が倒れる回数は週に一回程度に減少したものの、学友を作れずに孤立することが多かった。今はまだ遥や正人と関わりがあるが、進級すればそうもいかなくなる。なんとか友だちを作ろうとすれば人の多いところに行かねばならず、ずしりと気が重くなる。その結果、陽太は学友を作ることを諦めていた。

 そうこうするうちにテストも終わって夏がやって来た。寮は夏の間、点検などで閉じることが決定していたため、陽太は帰省を余儀なくされた。

 夏休み前の最後の日、俺の地元に遊びに来ないかと遥に誘われ、陽太は夏休み中には行くことを告げた。遥の地元は陽太の地元の隣の県だった。

 遥の実家の住所の書かれたメモを手に新幹線に乗った陽太は、そのまま実家に帰った。

「おかえりなさい」

 ふわりと笑った母、唯愛は陽太を迎えると陽太の持っていた荷物を持った。寮では洗濯もできるが、ここ数日ほど忙しくてできなかった。

「大学はどう?」

 洗濯物を洗濯機にかけながら唯愛はたずねた。

「うん……。友だちができたよ」

「そう、良かった」

「そうだ、友だちに遊びに来ないかって言われて」

「良いわね。どこ?」

「隣の県。住所はもらったよ」

「じゃあ調べてみるわ」

 陽太からメモを受け取ると住所を調べ始めた。陽太はその間に自身の部屋に向かう。これからの時期の服を補充するのも目的だった。

「この住所は旅館ね」

「へぇ、そうなんだ」

「大丈夫?人が多いかもしれないわよ?」

「大丈夫だよ。耳栓もイヤホンも持っていくし、遊びに行くだけだもの」

「……分かったわ。いつから行くの?」

 陽太はカレンダーを見る。本当は唯愛と長く一緒にいたい。しかし、陽太にとって地元は生きにくいところだった。

 陽太は一度として引っ越していない。もちろん周りもそうだ。そうなると必然的に全員が知り合いの小さなコミュニティに属することになる。そこは陽太を排除するコミュニティだ。そんな場所に居場所はない。息苦しいだけだ。

 けれど、引っ越せるほどのお金はなかった。父、裕が死んでからはもはや頼れる場所はないに等しかった。仕方なくそのコミュニティで生きてきた。お金があれば、きっと引っ越していただろう。

「来週には」

「そう。分かった」

 唯愛は少しだけ残念そうな顔をしたけれど、陽太にとって生きにくい場所に長居させたいわけではなかった。寮の都合で閉まらなければ帰省などしなくても良いよ、と言うつもりだった。

 陽太もそれを分かっていた。同じ能力を持つ、いや、持っていた唯愛が陽太のためにそう言うことも、本当は帰ってきてほしいことも。

 その日の夜は久しぶりに唯愛の手料理を食べてぐっすり眠った。寮や学校ではいつあの声が聞こえるか分からないせいか、肩に力が入って気が抜けない。陽太はほっと息を吐きながら温かくて優しい布団にくるまって朝を迎えた。



 陽太は生まれつき、二つの声を聞いた。

 一つは普通の声。声帯を震わせて、嘘もお世辞も言う声だ。

 そしてもう一つはその人の心の声。その人がどう思っているかが分かる。それは普通の声と同じように聞こえたから、陽太には判断できないことがあった。

 幼い陽太は嫌いと声に乗せられて泣いた。突然泣いた陽太に対して嫌いだと声に乗せた相手も先生もすっ飛んできて、陽太を慰めた。けれど、陽太は激しく泣いてその二人を追いやった。理由は簡単。先生は面倒だと声に乗せたからだ。陽太は悲しいやら悔しいやらでその日は早退した。

 そしてもう一つ。陽太がリンクと呼ぶ現象がある。これは周囲の感情に押し流され、同調、いわゆるリンクさせられる。自分の感情でないことがポイントであり、負担が大きいことだった。

 リンクは陽太の感情を無視するため、陽太の目は光を失う。それが虚ろな目の理由だった。

 そして陽太のそれらは遺伝だった。母親の唯愛が持っていた能力が陽太へと遺伝した。しかも濃度が濃くなったせいで、陽太は唯愛よりもずっと倒れやすく、感情のコントロールの苦手な子ども、というレッテルを貼られてしまった。

 そんな陽太でも安心してそばにいられたのは、父と母だった。唯愛は幼稚園を早退した陽太を抱き上げながら教えてくれた。陽太のことが大好きな人の心の声は聞こえないのよ、と。そしてその通り、陽太は一度として二人の心の声を聞かなかった。

 父、裕に関しては死ぬその瞬間になっても心の声は聞こえなかった。陽太のことを愛し抜いたのだ。

 陽太はそれ以降、同級生や見知らぬ人の醜い心の声を聞き続けてきた。

 そうして倒れることが普通になった頃、陽太は一度だけ海に身を投げた。けれど何故か助かってしまった。たぶん、死ぬには早かったのだろう。病院の先生はそう言ったが、陽太の噂は病院にまで轟いていたのか、どこか面倒くさそうだった。

 そうして何度も季節は巡った。



 目覚めた陽太は見慣れぬ天井に驚く。しかし、身体にかけられたタオルケットからはこの四ヶ月ほどでかぎなれた匂いがした。身体を起こせば、隣でぐうすか寝る遥がいた。

 ここは遥の実家の旅館。

 陽太は宣言通り、一週間ほど自分の実家に滞在した後、遥の実家の旅館にやって来た。忙しい遥の家族の手伝いとして庭の掃除や宿泊客の案内などをした。

 遥の家族は全員そろって背が高く、少しツリ目がちだった。しかし陽太は小さくて華奢、大きなタレ目とふんわりと柔らかな髪の愛らしい見た目をしていた。遥の家族と従業員にとっては、癒やし以外の何ものでもなかった。

「あっはっはっ、遥が連れてきた子、かわいいねぇ!」

 そう言ったのは遥と六つほど歳の離れた姉の紗夜だった。現在は若女将として修行中らしい。

 陽太の顔色が悪くなれば体調不良を心配され、従業員用の仮眠室に押し込まれた。それでも陽太が手伝いをしたいと言えば体調が良くなってからで良いよ、と言われた。申し訳ないなと思いながら陽太は眠ったことを覚えている。

 ふっと時計を見れば三時だった。もう少しすれば外が明るくなるのだろうか、カーテンの向こうは少しだけ明るい。

 陽太はそっとタオルケットから抜け出して窓に近寄った。ふっと手を伸ばしてカーテンを開けようとする。しかし、陽太はカーテンを開けられなかった。

「ようたぁ?」

 見れば遥が目を擦りながら身体を起こしていた。どうやら起きてしまったらしい。

「ねれない?」

 まだ薄暗い部屋の中。互いの表情なんて見えない。それなのに陽太は遥が少し硬い表情をしていることが分かった。それが分かるとイタズラを咎められた子どものような気分になった。

「ちょっと目が覚めちゃって」

「そっか。うん、寝れるまで俺も起きてるよ」

「それはちょっと……」

 ほら、戻っておいで。遥はそう言ってぽふぽふと布団を叩いた。陽太は遥の布団に潜り込む。ぱさっとタオルケットがかけられた。

「勝手にどこかへ行くなよ」

「もう……、僕は子どもじゃないよ」

「知ってるけどさ……。こわいんだ」

 いなくなっちゃうんじゃないかって。ときどき思うんだ。

 遥の腕が伸びる。それは陽太をつかまえて閉じ込める。とくとくと遥の心音が聞こえる。

「寝れそ?」

「まあ……」

 暑いけど、とこぼせば遥が笑った。ついさっきまでの表情はどこにもない。陽太のよく知る遥だった。

「良いじゃん、れーぼーついてるし」

「良いけどさ」

 陽太もくふくふと笑った。温かくてまぶたがおりてくる。少しすれば陽太から寝息が聞こえてきた。遥は陽太の髪を撫でた。

「そっちには行くなよ」

 そこはもう、こっちじゃないから。

 遥の声は静かに溶けた。けれど聞く者はなかった。


 ふっと意識が浮上する。陽太は周囲を見て驚いた。そこは旅館のロビーで、自分はついさっきまで寝ていたらしい。お客さん用のソファーに座り、ぼんやりと庭を眺めていたのが最後の記憶だった。

「おっ、起きた?」

 ニッと笑った紗夜は陽太の前にしゃがみこんだ。大きい身体を小さくしているからか窮屈そうだった。

「寝顔もかわいーね、陽太くん」

「かわいくないですよ」

 仕事をしなくちゃ、とソファーから立とうとしたが、紗夜に止められた。見れば膝に小さな子どもが座って寝ていた。すよすよと聞こえる寝息は落ち着いている。

「今日お泊りの朝倉さんのお子さん。旅疲れで寝ちゃってさ」

「なるほど」

 子どもは小さいと言ってもそれなりに重い。陽太はこの子どもを抱えて動くことはできなかった。

「悪いけどそのままでいて」

 暇なら歌ってても良いからさ。紗夜はそう言って陽太に手を振って行ってしまった。まだ仕事があったらしい。話し相手がいなくなった陽太は天井を眺めた。それもすぐに飽きたから紗夜のすすめ通りに歌うことにした。

「仕方ないなぁ……」

 陽太は目を閉じて歌い出した。小学校で習うような歌は、変声期を終えた男には出しにくい音域もある。しかし陽太は変声期を終えても声は大して変わらなかった。それがまた、からかわれる原因にもなったが、今はもう気にしていない。

 歌う、歌う。いくつも歌った後、陽太は目を開けた。途端、声が途切れる。だって目の前に人がいたのだから。

 あ、と小さくこぼれた声は恐怖に歪んでいた。陽太の頭を埋め尽くしたのは罵詈雑言だった。男のくせに、という言葉が脳内でこだまする。しょっちゅう倒れて、身長も低くて、筋力もなくて、顔はかわいらしい部類で、声まで高いままで。ホントに男かよ、と言われて陽太はーー。

「おいっ、大丈夫か?!」

 ガッと肩をつかまれて陽太は顔を上げる。眉を寄せた遥と目が合った。丸い目をさらに丸くした陽太の目尻から雫が溢れる。遥はパッと手を離した。

「やっ……!」

 陽太が慌てて遥の手を掴む。ぐいっと二人の距離が近付いた。しかしお互いに何も言わない。何を言えば良いのか分からないようだった。

「お兄ちゃん、お歌じょうずだねぇ~」

 不意に幼い声がして、そこを見れば陽太の膝を占領していた子どもが目をキラキラさせていた。陽太は目を丸くした。

「じょうず?僕の歌?」

「うん!とってもじょうず!」

 真っ直ぐ褒められた陽太は少し照れくさそうに笑った。その子どもから聞こえる声は嘘偽りのないものだった。心の声もまた、陽太をたたえていた。

「陽太、ちょっと手伝ってくれないか?」

 ふと遥がそう言った。陽太はうなずいた。膝に乗っていた子どもをおろし、手を振る。子どももバイバイ、と言って手を振り返してくれた。その様子は本当はかわいらしい。

 遥に手を引かれて台所に案内された。そこでは板前さんたちが女将、遥の母親と何やら話していた。聞けば、料理に時間がかかるらしい。その間をもたせる方法がないか、はたまた早く作れないのかという相談だった。

 遥が陽太を連れてきた理由がなんとなく分かったような気がした。

「陽太、歌うまいじゃん?歌ってくれたら良いのに」

「そんなっ……!僕は別に、うまくなんか……」

 声がどんどん小さくなっていく。自信なんかない。歌うのだって本当はストレス発散でやっていただけだった。歌っている姿さえ見られなければ陽太だと分からないから。

「いーじゃん、減るもんじゃないし。アタシは陽太くんの歌、好きだよ」

「ねーちゃん!」

 声のしたところには紗夜がいた。陽太は困ったような顔をした。

「頼むよ、陽太。どうしても必要なんだ」

「アタシからもお願い」

 陽太は沈黙した。歌っても、良い。でも、一番防がねばいけないことは自分が特定されることだった。

「変装は許されますか?」

「もちろん」

「ならーー」

 陽太はうなずいた。パッと彼らの顔が輝いた。

「ありがとう!」

「それじゃあ今すぐ準備するよ!」

 紗夜が陽太の手を引いて駆け出す。陽太は慌てて足を動かす。

 二人の姿が見えなくなってから遥の母は遥を見た。すがるような目だった。

「ねぇ、やっぱり……」

「大丈夫さ」

 大丈夫なんだよ。遥はそう言った。そう言うことしかできなかった。



 昔むかし、小さな村があったそうです。村の人々は農業をして生計を立てていました。

 その村には小さな祠があって神様が祀られていました。村の人々は人生の節目に神様に挨拶をする風習を律儀に守っていました。その村では子どもは十二歳で成人とみなされ、それ以降の挨拶は自分で行くことになるそうです。

 けれど、ある少女がある年、それを怠りました。その結果、その少女は突然身体が弱くなり、年寄りがどんどん亡くなり、ついにはその村はダム底に沈み、村の人々は散り散りになりました。

 その村を出ていった人々の中に旅館を建てた者もいます、漁師になった者もいます、農家を続けた者もいます、林業を始めた者もいます。様々な人が他所へ行ってもそこに馴染みました。

 けれど渦中の少女はそこを離れて今はどうなったか分かっていません。身体が弱くなったのだから、きっと亡くなった年寄りたちを追いかけるように召されただろう、と言われています。



 美しい黄色の着物をまとった長い黒髪の少女が歌う。かわいらしい顔立ちのその少女は化粧などしていなくてもかわいらしい。

 くりんと上を向いたまつ毛は長く、頬へと薄く影を落とす。程よく潤った唇は薄くピンクに色付いている。頬は恥ずかしさからか紅く染まり、大きなタレ目はじゃっかん伏せられていた。指先のピンクの爪も、ほっそりとした指もかわいらしい。

 ほうっと誰かの感嘆の息が漏れた。今、その場を支配しているのは紛れもなくその少女だった。

 少女は二曲ほど歌うと小さくお辞儀をしてそこから出ていく。タイミングよく料理が運ばれてきた。それをかげから見ていた遥は少女を追いかけた。

「陽太!」

 従業員用の通路で少女に追いついた遥が声をかければ少女は振り返った。パッチリとした目に安堵が広がる。

「遥くん」

 ふわりと言葉が声に乗る。遥は陽太の隣に並んだ。着物を着ているせいか動きにくそうな陽太に手を貸しながらいつも寝ている母屋の部屋に入った。

「脱ぐか?」

「うん」

 陽太が遥に背を向ける。帯をほどいてほしいようだ。遥は帯をほどいた。胸を締め付けていたそれがなくなると陽太は息を吐いた。ほっとしたようだった。

 着物を脱いだ陽太はそれを丁寧にかけた。そうするとタンクトップとハーフパンツのみになる。さすがに寒そうということで遥が服を投げた。陽太はそれを着ると母屋を出た。今のうちに客室の布団を敷くのだ。

 全ての部屋をまわり終えた頃には、陽太はくたくたでもはや寝そうだった。そんな陽太を抱えて遥は母屋に向かう。母屋で夕食を食べるからだ。

 お客さんに出した料理の余りだったり、使わなかった物を利用して簡単な丼を作る。これが美味しくて遥は手伝いを喜んで引き受けていた。

「お疲れ。陽太くんは寝ちゃった?」

「起きてます……」

 少しだけ目を開けた陽太を見ながら紗夜は笑った。小さな子どもみたいでかわいいと思っているのだろう。

「起きてるね。もう少し頑張って。ご飯食べたら寝ちゃってもいーからさ」

「ふぁ……、い」

 かろうじて返事をした陽太に紗夜は手を振って先に行ってしまった。遥は歩くペースを速めた。眠い陽太のために早く終えたいと思ったのだ。

 そこからが大変だった。寝そうになる陽太を起こしつつご飯を食べさせて着替えさせた。お風呂と歯磨きに関しては今日は諦めた。どちらも明日でも良いはずだ。

 そうやって陽太を布団におろした頃には遥も疲れきっていた。その疲労度は陽太の隣に布団を敷くことすら面倒だと感じるほどだった。

 仕方ない、と思って自分の布団を敷くことは諦めて少し行儀が悪いが、ゴロゴロ転がってタオルケットを手に取ると、同じようにゴロゴロと転がって陽太のそばに戻った。タオルケットを陽太にかけた後、これまたゴロゴロ転がって冷房のリモコンを取って温度調整をした。ついでに切れる時間も設定した。

 これでやることはもうないと思って戻ろうとしたが、電気が点いたままだった。電気のリモコンを取って最小電灯にすると陽太のそばまで転がって戻った。

 陽太にかけたタオルケットを自身にもかけて陽太を抱きしめる。既に寝てしまった陽太の穏やかな寝息が小さく聞こえる。

 ーーねれそう。

 ふと遥はそう思った。暗闇に目が慣れる前にさっさと目を閉じた。明日は二人で朝からお風呂に入ろう。普段よりも早起きになるだろうが、陽太は応じてくれるだろう。

 ふあ、とあくびをこぼして遥はゆっくり息をした。それからすぐに寝入ってしまった。


 夏休みが終わる少し前に二人は寮に戻った。正人は談話室でのんびりとしていたが、遥と陽太の姿を見付けて駆け寄った。

「夏休みどうだった?おれ、すごく楽しくて。海に行ったりキャンプしたり……。遥たちは?」

 にこにこと楽しそうに笑った正人は少し日焼けしているようだった。それも少しだからほとんど分からないぐらい。

「俺は旅館の手伝いしてた」

「僕も遥くんのところに遊びに行ったんだ」

「えぇっ、ずるくない?!なんでおれは誘ってくれなかったの?」

「いや、榊原の実家は遠いだろ」

「高校時代は祖父母の家に居たんでしょ?実家は遠いって遥くん、言ってたよ?」

 正人は泣きそうな顔をした。初対面のときに感じた儚げな美青年というのもこういうときに役に立つ。遥たちが悪いことをしているかのように感じた。

「おれだって行ったのに!」

「ごめんって」

 遥はそう言って謝る。正人は次こそ行くからねと言ってこの話は終わった。

「そう言えばオリエンテーションに参加する?」

「そりゃそうでしょ」

「参加しないっていう選択肢はあるのか?」

「ほら、アルバイトとかで予定があるとか」

「大学生は意外と忙しいからね」

 正人はそう言いながらお土産を二人にすすめた。美味しそうなお菓子に遥の手が伸びる。陽太はそれに手を伸ばそうとして……、やめた。

「どうした?」

「あ……。なんでもない。ごめん、今、お腹いっぱいで」

「そう?じゃあ、後ででも良いよ」

 正人はそう言いながら陽太の様子をうかがった。顔色が少し悪かった。けれど、倒れるほどではなさそうだと判断した。それでも念のために部屋でも様子をうかがうよう遥を視線だけで促した。

 遥は陽太の手に正人のお土産を握らせた。部屋で食べる分だった。陽太はお土産の包みを見ながら少しだけ悲しそうな顔をした。

「そろそろ部屋に戻るか」

「うん。それじゃあ、またね」

「うん、また」

 遥が陽太の手を引いて階段を上がった。部屋に着くと陽太はベッドの端に座った。

「シャワー、浴びちゃう?」

「ううん、僕は後で大丈夫。遥くん、先に浴びちゃいなよ。汗、かいたでしょ?」

「ん。じゃあ浴びてくる」

 遥が風呂場に向かう。陽太はその背を見送りながら自身の手の中にある包みを見た。

 まだ陽太がそれほどコミュニティから弾かれていない頃、近所の人がお土産を持ってきた。お土産は美味しそうな饅頭だった。個別包装だった。陽太は躊躇いなく袋をあけて、食べようとして饅頭の真ん中を割ったとき、指の腹を怪我した。

 饅頭の中から針が出てきたのだ。小さな針だったが、陽太の心の奥深くに突き刺さった。幸い、怪我は軽かったし、お土産をくれた人に悪意があったわけではないと陽太は思っている。けれど、どうしても嫌だった、怖かった。だからお土産で個別包装の物を見ると思い出してしまう。

「あがったよ~って、あれ?大丈夫?」

 遥が戻ってきたのは陽太が秒針の音を聞き始めてから二十分ほど経った頃だった。陽太はハッとして遥を見る。

「お風呂どうする?」

「はいってくるよ」

 陽太は着替えを持ってお風呂場に向かった。遥はそれを見送った後、陽太に持たせたお土産を確認する。どうやらあけていないようだった。

 ーーもしかしたら、トラウマがあるのかも。

 ふとそう思った。正人がお土産を見せたときの陽太の顔はまさにそれだった。どんなトラウマかは分からないが、陽太の心を占めていることは分かる。

「……しくったなー」

 できるだけ陽太のことを気遣ったつもりだった。けれど二人はまだ出会って五ヶ月程度。遥は陽太のことを分かりきっているわけではない。

 お風呂場からふんふんと小さな鼻歌が聞こえる。どうやら気分を上げようと歌っているらしい。遥は小さく笑うと棚に近付いた。

 陽太と実家で話していた作品の原文が載っている本がそこにはあった。読みたいと言って目を輝かせていた陽太に寮に着いたら貸すよと遥は返した。嬉しそうに笑った陽太は、春に古典が苦手だと話した青年と同一人物には思えなかった。

「懐かしい。これ、こんな話だったっけ」

 ペラッと少し茶色くなった紙を繰れば、一気にその世界へと案内される。春学期の授業のおかげか、遥も古典が好きになった。まだ文法は得意ではないが、それでも大まかな内容の把握はできるようになった。

「ふっ……」

 懐かしい話だ。まだ遥が小さい頃、母親が寝る前に読み物として読んでくれたのがこの古典作品だった。もちろん現代語訳してくれたのだが、今思えばどうやって訳していたのか気になるくらいだ。

 ふと、脳裏をかすめたのは実家の近くにあるダムだった。そのダム底には母方の実家がある。いや、親戚たちの住んでいた村がある。

 その村はある出来事をきっかけに全てが変わった。遥は寝物語にそればかり聞かされた。たぶん姉である紗夜も聞いていたと思う。遥は昔むかし、で始まる短いその話があまり好きではなかった。

 とある少女が伝統を怠ったがために招いた悲劇の数々。伝承を語る者は亡くなり、村自体もなくなった。件の少女は病弱になり、現在の居場所は不明。全ての鍵を握る祠も行方不明。

 おまけにこの話の結末は白紙だった。なにせこれはまだ、途中なのだから。母親は続いている物語だとは言わなかった。けれど不自然な話の終わり方に幼いながらに遥はそう思った。

 ふとした時に遥は思う。その村に昔から語られてきた伝承の結末はなんだったのだろうと。

 昔話はこんな目に遭うよ、こんな状態になるよと言って逸脱しないようにするのだ。ならば誰かが知っているはずだ。伝統を怠ったらどうなるか。

 幼い頃の遥はそれが分からなかった。結果として病弱になって村が破滅の一途を辿ることしか分からない。親戚の中には少女がそれをはたらいたと言う者もいた。しかし遥はその少女が村をダム底に沈めたとも、伝承を語る者を殺したとも思えなかった。

 そんな謎を抱えて進学した先で遥は陽太に出会った。彼は突然倒れることがあった。人が多ければ多いほどそうなることは多かった。

 病弱だな、とはじめは思った。守らなきゃ、とも思った。けれど長く一緒にいるにつれ、遥は一つの仮説を立てた。それが陽太が居場所が不明とされる件の少女の親族という突拍子もないことだった。

「遥くん?」

 ハッとして顔を上げた遥の目の前で陽太が首をかしげる。なんでもないよ、と返せばそっか、と返される。

 ドライヤーをした髪はふわふわしている。肩につくほどの長さだが、似合っていないわけではない。むしろ似合いすぎていて困る。

「そろそろ夕食行くか」

「うん」

 靴を履いて部屋を出る。階段をおりて向かえば、落ち込んだ様子の悠木に出会った。

「こんばんは」

「こんばんは……」

 心なしかいつもより声が小さい。落ち込んでいるらしい。

「寮長、どうしたんですか?」

「……いや、あの」

 悠木は言いにくそうにしている。陽太は悠木の手を取るとにこっと笑った。

「一緒にご飯、食べませんか?」

 悠木は少し戸惑ったような顔をした後、小さくうなずいた。陽太はパッと顔を輝かせるとぐいぐいと悠木の手を引いた。悠木は少し困ったような顔をして遥を見たが、遥は陽太に従うよう促した。

「……それで、落ち込んでしまって」

 悠木の話をまとめるとこうだ。夏休み中は点検とリフォームをしていたが、苦情が殺到したのだ、主に寮生の家族から。

 夏休みに帰省しないといけないほど長く寮を点検する必要があるのか。再試期間に大学に行かなければいけないから交通費が馬鹿にならない。帰ってきた我が子の愚痴が多い、など。

 悠木はそれら一つひとつに対応しながらリフォームの様子を見たりしていた。

 睡眠時間を削っていたらなにやら計算を間違えてしまったらしい。方々に謝って正しいものと交換したが、それ以降もミスが続いているらしい。

「こうなると自分なんかに務まるのかって思っちゃいまして」

 寮の管理人なんてできないかもしれません。それが、すごく怖いんです。

 悠木はそうこぼした。陽太は悠木の手を握った。

「大丈夫です。良いことだってありますから」

「たとえば?」

「そうですね……。お土産がもらえるとか」

 悠木はくすっと笑う。遥と正人がお土産を差し出した。

「他には……」

 陽太は立ち上がって悠木の頭を撫でた。悠木が目を丸くする。

「いつも寮のことをやってくれてありがとうございます。おかげで僕たちは安心して過ごせます」

「寮の治安が守られているのは先輩のおかげですし!」

「そうですよ!先輩がいないとこの寮はまわりませんよ!」

 口々にそう言えば、悠木の顔にいつもの笑みが戻ってきた。

「先輩にしかできないことですよ」

 信じられないぐらい綺麗に笑った陽太は、それこそ神様のようだった。悠木はサッと陽太を拝んだ。陽太が慌てる。

 けれど、遥には悠木の気持ちが分かった。たしかにそうしたくなるほど陽太はときおり神々しい。

「ま、そういうわけで諦めちゃだめですよ」

 正人はそう言ってデザートのゼリーを食べた。ツルンとした食感が残暑の時期にちょうど良い。遥は既に食べ終えていたが、陽太はまだだった。ゼリーが好きなことを知ったのはつい最近のことだった。

 陽太がゼリーを食べ終える前に悠木は仕事に戻っていった。悠木がいなくなると正人が遥に顔を寄せた。

「陽太くん、変わった?」

「うーん、少し?」

 なにが原因なのかは遥にだって分からなかった。けれど、明らかに夏休み前とは違う。夏休みの間、会っていなかった正人が言うならば間違いないだろう。

「美味しー」

 ゼリーを食べて喜んでいる陽太は変わらないように見える。けれどそれは本当に?

 遥は机の下でぐっと握り拳を作った。



 夏休みがあけた。学生がまばらな構内を陽太は急いでいた。今日は遥に誘われてランチに行く予定があった。直前の講義は違うものを選んでいたため、校門で待ち合わせをすることになったのだ。

 暑い、と呟きながら陽太は顎を伝う汗を拭う。たまたま講義が長引いた。遥たちはもう、着いているだろうか。

 遥が陽太を誘ったとき、近くには正人や大樹もいた。話を聞いた彼らも一緒に行くことになり、陽太は嬉しくなった。大樹とは新入生合宿以降も交流があり、同じ講義をとっていた場合には近くに座ることもあった。

 友だちとランチ。それは陽太の憧れでもあった。だからこそ、少しだけ浮かれていた。

 ダンッと大きな音がしてそちらを見れば、気弱そうな男子をチンピラのような長身が囲んでいた。見るからに絡まれている。

 じわじわと陽太の足元から恐怖が伝染する。気弱そうな男子はこれが初めてではないらしい。これまでの記憶のせいか、より恐怖を感じている。

 ぞわりと陽太は嫌な予感を感じた。慌てて見ないようにしようとしたが間に合わなかった。バサッと持っていたメモ帳が落ちる。陽太の手にもう力は入っていない。

 足から陽太を絡め取った恐怖は陽太の首元までやって来てガブリと噛み付いた。陽太の目から光が消える。膝から崩れ落ちた陽太の呼吸は荒い。ぎゅうっと震える身体を抱きしめて陽太は目を閉じた。

 陽太が春に引いた周囲の感情との境界線を消された気分だった。立っていられないほどの恐怖。それは陽太の記憶からトラウマを引っ張るには充分だった。

「陽太っ!」

 声が聞こえる。陽太のことを心配する声だ。けれど陽太は顔を上げることも目を開けることもできない。ぐるぐると陽太の頭を巡るのはチンピラのような長身と恐怖し動けない気弱そうな男子の心の声だった。

「陽太っ!陽太っ!」

 肩に手が置かれる。陽太は自身のことを必死に呼ぶ声に目を開けたくとも視界は暗いままだった。ついにはガクッと力が抜け、記憶も声も途切れていく。

 ーー覚えておくことはないさ。

 聞き馴染みのない声が陽太の耳に残った。



 昔から村は彼の庇護下にあった。他の村が干ばつや豪雨で大変なときも、この村だけは無事だった。それもこれも彼のおかげ。

 ずっと昔、彼との約束の節目の挨拶を怠った者がいた。その者と家には不幸が襲った。作物が食い荒らされ、崖崩れで家が潰れ、引っ越しを余儀なくされた。

 その者は引っ越す前に言った、信じてないくせに、と。それが何に対してかは分からなかった。けれど村の人々は恐ろしいと思った。だってそれはずっと思っていたことだったから。

 それから村ではよりその挨拶を大事にした。彼が村の長老の夢枕に立ち、次はない、と言ったのだ。

 それから何年、何百年と経ち、ついに怠る者が出た。彼は今度こそ本気で怒り、その村は沈んだ。彼との約束を語る者も亡くなった。

 それからずっと機会を伺い続けた。次があった場合、どうするとずっと昔に破られたときに告げていた。

 その者が三十歳までに子どもがいればその子どもを、いなければその者を連れて行く。残念ながらそれは伝わっていなかったが。

 今回、その者は女性で三十歳までに子どもを産んだ。だからその子どもを連れて行くことにした。しかし彼の力は村の周辺にしか及ばなかった。村が沈んでから隣の県に越した女性と子どもを手元に呼ぶ術はなかった。

 しかし、よく考えた。どうにか成人してしまう前に連れて行く方法はないかと。子どもの方が扱いやすいし、記憶などの操作もしやすい。

 それに子どもが消えたところであっという間に忘れられていく。子どもがいなくなっても神隠しだと言われるだけだ。だから子どものうちが良い。

 子どもが十八になり、あと二年と差し迫った頃、村を沈めたダムの近くにあの村の人の子孫を見付けた。都会の大学に行くらしい。関係ないと思った。だって隣の県の子どもと出会う確率は低い。あの子どもも都会の大学に行くかは分からなかった。

 それから少しして夏がやって来た。あの子孫は実家に帰ってきた。どこか浮かれている様子が見てとれた。しかしなんで浮かれているのか分からなかった。

「友だちが来るんだ」

 そう言って笑った。その友だちは誰なんだろう。あの子どもでなければ意味がないからあまり興味はなかった。

 それが全て吹っ飛んだのはその友だちが来たときだった。あの子どもだ。あの不幸者の子どもだ。

 ーーあぁ、やっと見付けた。

 くすりと笑った。あの子どもを連れて行かなければ。だってそのために産まれたのだから。

 それでそっと夜に連れて行こうとすれば、隣で寝ていたあの子孫に邪魔をされた。

 何度やっても阻まれる。それもこれもあの子孫だった。その家族も阻止する動きを見せていたが、その子孫がダントツで阻止していた。まるでこちらの動きを読めるかのようだった。

 腹立たしい。けれど、ヤキモキしながらも連れて行こうとし続けた。

 結果は惨敗。夏休みが終わる少し前に子孫と子どもは寮に行った。県を出たせいで手出しはできなかった。

 けれど連れて行くという目標に比べれば小さなことは達成した。それは、あの子どもの中に欠片を入れること。これで少しは干渉ができる。だから倒れたその時に覚えておくことはないさ、と言った。あの子どもにも伝わっているだろう。



 ハッと目覚めた陽太は次の瞬間、ドクドクと心臓が激しく脈打った。陽太はぐっと胸をおさえた。呼吸が苦しい。

「佐倉くん?!落ち着いて、大丈夫ーー」

 パッと陽太に手を伸ばした美帆は陽太の背をさすった。陽太はうつむき、その目から涙がこぼれた。

 次第に陽太の呼吸が落ち着いてくる。ぐったりと力の抜かれた身体を支えながら美帆は陽太を横にならせた。

 ぼんやりと天井を眺める目はどこか遠いところを見ているようだ。美帆は陽太にはまだ休息が必要だと思った。

「さあ、寝ちゃいなさい」

 陽太は美帆を見た後、小さくうなずいて目を閉じた。少し待てば寝息が聞こえてきた。

 美帆は時計を見た。夕方の六時をまわっていた。本当は用事がなければ帰るべき時間だ。けれど、この状態の陽太を帰せない。ここは寮長に連絡を入れるべきだろう。

 美帆は子機を取ると陽太の寮に電話をかけた。とったのは悠木だった。美帆が事情を説明すれば分かりました、と返ってきた。もしかしたら遥たちから聞いたのかもしれない。

 今日の昼頃、陽太を担いでやって来たのは新入生合宿で同じ部屋だった彼らだった。正人、大樹、遥。陽太と定期的に相談会を開けば彼らの話題が頻繁に上がった。どうやら仲が良いらしい。

 陽太をベッドに寝かせ、様々なことを聞けば、陽太の近くでカツアゲがあったらしい。陽太は特に何かをされたわけでもないのに倒れたらしく、周囲は一時騒然としたらしい。

 カツアゲされていた学生とその関係者は職員に聴取され、遥たちは陽太を保健室に連れて行く役目を仰せつかったわけだった。

 美帆と話をした後、正人、遥、大樹にできることはなくなり、遥と正人は寮に、大樹は家に帰ることになった。

 今日は陽太は帰らないかもしれないと美帆に告げられ、遥は初めて二人部屋を一人で使った。陽太のいない部屋は広かったし寂しかった。布団を頭から被って、陽太の無事を願った。

 翌日、遥と正人は大樹と共に保健室に向かった。陽太が今日とっている講義の教科書を持った遥は不安そうな顔をしていた。しかし、陽太が起きていたこと、コンビニで買ったらしいチーズ蒸しパンを食べていたところを見た三人は安堵で足元から崩れ落ちた。

 それを見て美帆や陽太は驚いていたが、美帆は彼らの気持ちも分かるような気がした。昨日、陽太は寮に帰らなかった。それだけ起きなかったということは……、と最悪の想像がよぎったことだろう。

「心配したんだよ!」

「ほんとうにごめん……」

 陽太の使っているベッドの近くに丸椅子を持ち寄って三人と陽太が話している。チーズ蒸しパンを食べながら陽太はうなだれた。

「起きて良かったよ」

「うん、ほんとうにごめん」

 わいわいがやがやと少し騒がしい。美帆はふっと笑った。保健室にあるまじきことかもしれない。けれどそれでも良い。

 美帆は昨夜のことを思い出していた。陽太と夕食を食べた後、事情を聞いてみた。陽太はカツアゲの恐怖で動けなくなってしまったことを話した後、少し沈黙した。

「どうしたの?」

 美帆がたずねれば、陽太は不安そうな目を美帆に向けた。

「記憶がないんです」

 陽太が口にしたそれは美帆にとっても衝撃的なことだった。

「それじゃあ、行ってきます」

「気をつけて」

 四人を見送って美帆はノートに向かい合う。そこには小さな字が白を埋め尽くしていた。美帆の字だ。

「何かが足りない……」

 様々な資料を見ても、結末だけが分からなかった。村に昔から伝わる挨拶、怠ったことによる悲劇、そして二度目ーー。美帆には二回目に怠ったときの罰が分からなかった。対象を病弱にさせ、伝承を語る者も村も消えた。ではその先は?

 まさかそれだけで終わるわけがないだろう。神様は人ではない。人でないのだから、自分たちとは感覚が違う。神隠し、なんて言葉があるくらいだ、人を連れ去ったりすることは得意なのだろう。そんなことが得意であってほしくはないが。

 美帆はノートを閉じる。美帆はまだ、答えに辿り着けていない。



 ハロウィンの時期が来た。大学構内でも仮装をしている人が見られる。中庭はわいわいと騒がしく、陽太はそこを通らないようにして過ごしていた。

「それでさ、そのときにーー」

 次の講義は四人が同じものを取っていた。席も指定なし。四人で近くに座るため、いつの間にか四人分だけ席があいていた。

 席に座って教科書とノートを開く。もう少しで講義が始まる。

「そういや、ハロウィンはなにかする?」

「んにゃ。お菓子も買わない予定だよ」

「えー、やろうよ、お菓子パーティー」

 正人が不満そうな顔をしてそう言った。陽太は例年のハロウィンを思い出す。いつだって陽太には関係のないイベントとして位置していたのが、ハロウィンとクリスマスだった。

「陽太くんは?」

「え?僕?」

「そうそう。お菓子を持ち寄ってパーティーするんだ。楽しそうでしょ?」

「楽しそうだね」

「でしょ?やろうよ、一緒に」

 一緒にと正人に言われ、陽太は目を丸くする。けれど次の瞬間、嬉しそうに笑った。

「やった、約束だよ」

 ふんわりと目尻を垂れさせ、頬をうっすらと色付かせた姿は歳下のように見える。

 誰かがなにかを言う前にチャイムが鳴って教員が入ってきた。陽太は前を向いてしまった。同じ講義を取っていた者たちは顔を赤らめながら必死に教員の話に集中していた。そうでもしていないと思い出してしまいそうだった。

 それから着々とお菓子パーティーの準備は進められた。ハロウィンの日は四人ともが同じ講義を取っていたので空きコマも同じだった。

 持ち物はお菓子。個別包装の方が良いが、ポテチなどでも良いという決まりで一人二つ。

 陽太は早速買いに行こうとスーパーに足を向けた。しかしここで彼が直面したのはお菓子の種類の多さだった。あまりお菓子を食べてこなかった陽太には、パッケージだけでは何が美味しいのか、どんな味なのか分からず選べなかった。なんとか馴染みのあったふ菓子とラムネにしたが、陽太は一人でスーパーのお菓子売り場に行ったことを後悔した。

 そんな小さな冒険を無事に終えた陽太はハロウィンの日、ウキウキした面持ちで大学に向かった。遥は寄りたい場所があると言って先に行った。正人とも会わなかったので、陽太は一人だった。

 大学への道を歩きながらハラハラと舞う葉を眺めた。葉は絨毯を敷くかのように道路の隙間を埋めていく。まるで磁石でもついているかのようだった。

 ねぇ、と不意に声をかけられた。振り返れば陽太の胸ぐらいまでの身長の少年が立っていた。

 その少年はハロウィンにしては珍しい和装をしていた。白い羽織り袴と紫と黄色の組紐の巻きつけられた帯は神々しい。顔は丸く、長いまつ毛が目を縁取っていた。目尻に朱を塗り、髪は綺麗におかっぱに切り揃えられていた。裸足かと思えば草履を履いているらしく、手の込んだ珍しい仮装だった。

「さくらようたくん?」

 陽太は名前を言われて瞬時に警戒する。こんな小さい子ども相手に大人気ないとは思いつつも、母である唯愛に言われたことだった。

「にらまないでよ」

 少年はそう言って陽太の手を握った。小さな手はどこか冷たかった。

「いこう」

「待って、どこに?」

「おしえたらきてくれる?」

 陽太は言葉に詰まる。その場所が分かっても行くかは分からない。聞いてはいけない、ついて行ってもいけない。なんとかしてこの少年から離れないと。

 しかし一歩遅かった。少年は黙ったままの陽太の手を引いて歩き出す。陽太は半ば引きずられるままについていくことしかできなかった。

「ま、待って」

「もう待てないよ」

 幼い声があっという間に低くなる。ゾクリと寒気がしたがもう遅い。あっという間に景色は大学の近くからどこかの林に変わっていた。少年に手を引かれるまま、ついに陽太は辿り着いた。

 小さな祠。それは崩れかけのようにも新しいようにも見えた。けれど、周囲も含めて手入れはされていないらしい。ぼうぼうの草が祠の半分を隠している。

「ようやく会えたね、陽太」

 少年はニイッと笑った。わけも分からず、陽太は震え上がる。少年の目が紅く光った。それを最後に陽太の記憶は綺麗さっぱり消えてしまった。



 大学生が行方不明になった。

 それは瞬く間に世間に広がっていった。警察は顔写真を公開し、広く情報提供をよびかけた。それだけでなく、大学と実家の周辺を捜した。けれど陽太は見つからなかった。

 荒れたのは遥だった。陽太を搜そうと空きコマ全てを費やし、寮の部屋で陽太を待ち続けた。何度もメッセージを送り、電話もした。けれど陽太は返事をしなかった。

 はじめは大々的に報道していたメディアも、たかが大学生一人がいなくなったことをいつまでも報道するわけもなく、いつしか報道されなくなった。と同時に警察の捜索も規模が小さくなった。

 遥はそれを見て休学届を出した。なんとか大学一年生の単位はとったものの、しばらく休学することにしたのだ。それもこれも全て陽太のためだった。

 大学の教員はそこまでしなくても、と遥を止めた。けれど遥は譲らなかった。それだけ遥にとって重要なことだった。

 桜舞う四月。遥は寮の管理人になった悠木に陽太が戻ってきたら連絡するように言って陽太を捜しに出かけた。

 寮を出た遥は真っ先に実家に戻った。陽太が消えたのだからあの村が関係しているに決まっている。今も行方不明になっている祠。それがきっと鍵だ。

「お帰りなさい」

 母親に迎えられた遥は母屋の先、蔵に入ると一番奥に置かれていた巻物を手に取った。あの村の挨拶の風習について残された唯一の資料だった。これが発見されたのは昨年の大晦日のことだが、ここではあえてその詳細は記さない。

 さてその巻物を見ながら遥は情報を頭の中に叩き込んでいく。取り戻せるならば取り戻す。世間は陽太を忘れても母親である唯愛や、陽太のことを見守ってきた美帆、心配している正人や大樹などは忘れられない。陽太のいなくなった日はきっと忘れることなどできやしない。

 遥は下唇を噛んだ。自分は無力だ。どれだけ頑張ってもただの人間にできることは限られている。陽太を取り戻すどころか遥自身が死んでしまうかもしれない。けれど遥はそれでも良かった。

「遥」

 蔵に紗夜がやって来た。遥は巻物をしまった。

「ほんとに行くの?」

「うん」

「陽太くんのこと、好き?」

「……うん」

「そっか」

 紗夜は遥のそばに来るとその背をスパーンと叩いた。遥は驚いて振り返った。

「だったら取り戻しな。まあ、無理だとしても向こうで一緒になんなよ」

 紗夜の顔を見ればどこか泣きそうにも見えた。遥は悟る。本当は帰ってきてほしいこと。欲を言えば行かないでほしいこと。

 遥は心の中だけで謝罪する。たとえ紗夜の思いを踏みにじる行為だとしてもやるしかなかった。

「行っておいで」

 ニッと笑った紗夜は普段通りの紗夜だった。遥はうなずいて準備を始めた。

 時は少し遡り、遥が休学届を出して実家に向かう前。遥はテスト期間中に保健室に呼ばれた。テスト期間と言えど、遥の試験がない日を狙って呼び出されれば、遥は応じるしかなかった。

「来たわね」

 美帆はそう言った。その隣には陽太に似た女性が立っていた。遥はハッと息を飲んだ。陽太に似ているということは、陽太の親族ということだろう。

「初めまして。佐倉唯愛です」

 女性はそう挨拶した。遥は慌てて佐々倉遥です、と挨拶をした。

「そう……。あなたが陽太のーー」

 唯愛は微笑んだ。綺麗な笑顔だった。少女のように無垢でかわいらしく愛らしい。パッと見た限りでは三十代に見えるのだが、もう少し上の年齢だろう。若く見られることは羨ましい限りだ。

「唯愛は私と同い歳なの。佐倉くんをきっかけに親交が戻って」

「陽太を取り戻そうとしているの?」

 唯愛の一言に美帆はかたまった。けれど、遥はかたまらなかった。

「もちろんです」

「そう」

 唯愛は沈黙するとカバンから分厚い書類を出した。遥は不思議そうな顔をしてそれを見た。

「これは私の卒業論文よ。あの村の挨拶の風習をまとめたの」

 遥は書類を手に取った。

「もし、陽太が伝承通りに連れて行かれたのならばそれは全て私のせい。そのときは私が命をかけるしかないわ」

「なんで!?」

「私が罰をうけなくてはいけなかった。けれど三十歳までに産んでしまった。陽太はそのせいで連れて行かれたの」

「そうだとしても!だからって唯愛が命をかける以外にもあるはずでしょ!」

 美帆は唯愛の肩に手を置いた。唯愛はうつむく。

「あの、情報の整理をしましょう」

 遥はそう言って一つずつ確認していった。

 唯愛や陽太が持っている力、あの村の挨拶の伝承、破ったときの罰、祠の場所……。

「祠はたぶん、変わらずあると思うわ。私はもう、行けないと思うけれど……」

 遥は俺が行くと言った。

「佐々倉くん」

 陽太のこと、お願いします。

 小さく震えている唯愛は小動物のようでかわいらしい。きっと、心の中では陽太のことも遥のことも案じている。けれど陽太を取り戻したいから。無茶なことだと分かっていても遥に頼むしかない。

「全力を尽くします」

 必ず取り戻すとは言えなかった。けれど唯愛も美帆も分かっているのか、少しだけ晴れやかな顔をしていた。



 遥は前を見据える。大きな林だ。ダムの近くにあるそこは、観光客やダムで働く人すら訪れないほど暗い場所だった。けれど遥は一切の躊躇もなく中に入った。

 林の中は日光がないからかとても暗い。足元すらおぼつかないが遥はとにかく前進した。一刻も早く陽太を取り戻したかった。

 そんな思いだけで進んでいれば、古びた祠に辿り着いた。唯愛の話の通りだった。遥はそっと近付こうとした。しかし目の前にいつの間にか少年が立っていた。

「なんの用?」

 低い声は見た目からは想像もつかない。遥は直感する、彼が神様だ。

「陽太と話をさせてくれ」

「陽太?誰、それ?ここにはいないよ」

 少年はそう言って首をかしげた。

「俺の友だちなんだけどさ」

「知らないってば」

 少年は譲らない。遥が祠に近付くことを妨害している。祠の中を調べられると都合が悪いのだろう。そこにいるというのだろうか。

「そういうきみはなんでここにいるんだ?ここは暮らしていくには不便だろう?」

「ふん、不便なもんか」

 少年は腕を組んで遥を見る。まるで遥の方がおかしいとでも言いたげだ。

 しかし普通の人間ならばこんなところで生きていけない。だって食べ物がない。景色だって大して変わらない。話し相手だって少ない。退屈だろう。

「ここにいれば歳はとらない。煩わしい関係にも悩まされない」

 それは良いことじゃないの?

 少年の無垢な目がそうたずねる。それはたしかに陽太にとっては良いことだろう。

 傷付き、どうしようもないと諦めてきた陽太にとって自分が自分のままでいられる場所。遥だって陽太の力に関する幸せだけを考えればこの形でも良いとは思う。でも。

「陽太にとっての居場所はここじゃない」

 ーー陽太は独りじゃない。心配して、不安を感じてくれる人がいる。

「陽太に会わせてくれよ」

「だから、陽太なんていないってば!」

 そのとき、キイッと祠の扉が開いた。中からそっと顔を出したのは陽太によく似た青年だった。しかし、その目はどこか虚ろで遥をとらえない。

 白い羽織り袴と紫の帯をした青年はかわいらしい顔立ちのせいもあってか若く見える。少年も愛らしい顔立ちなので兄弟のようだ。

「あぁ、もう!中にいてって言ったでしょ?」

 青年は何も言わない。不安そうな顔をして少年を見た後、初めて会ったかのような顔で遥を見た。そこにはなんの感情もない。

 記憶がない。遥はそれを察知した。それは取り戻すのが難しいと示していた。けれど遥には一発逆転の方法があった。

「ほら、中にいて」

 少年に促された青年が戻ろうとするのを遥は止めた。その腕に触れた。ぴくりと青年が反応する。

「なぁ、陽太。帰ろう。唯愛さんが待ってるぞ」

 ーーいちかさん?

 真っ直ぐ目を見てやれば、その目が少し揺らぐ。虚ろな目のままだが、少しは感情が戻ったように見えた。たぶん、記憶がないんじゃなくて封じ込められただけだ。それなら戻すべきだ。その上で彼自身が決める。

「大学では大樹が待ってる。美帆さんも、榊原も待ってる。もちろん、俺だって」

 遥は青年の腕を掴んだまま必死に取り戻そうと心を砕いた。少年は遥のやりたいことが分かったのか、強引に青年の腕を引いた。遥の手が離れる。

 ーー気付かれたか。

 陽太に記憶がなくて遥を認識できない場合、陽太のもう一つの力であるリンクを利用するように唯愛に言われていた。大きな感情に引っ張られるリンクは、遥の取り戻したいという思いに呼応するはず。そうなれば記憶のフタをこじ開けられるだろう、と言われた。

 ーー聞いてみたい、外の話。

 ぽうっと青年の胸元の帯が光る。青年の意思疎通はそうやって行うらしい。

 少年は嫌そうな顔をした。どうやら少年は感情を隠さなくなったようだ。

「……少しだけだよ」

 少年は渋々折れてくれた。たぶん、青年の機嫌を損ねたくないのだろう。

「何が聞きたい?」

 ーーなんでもいいよ。

 青年はその場に座った。白い羽織り袴は汚れないのだろうか。遥には分からなかったが、少年が止めないということでそのままにしておいた。遥もその隣にどっかりと座った。

 遥は少し考えた後、俺の友だちの話でも良いか、と聞いた。青年はうなずいた。

「そいつは陽太って言うんだ。かわいくて身体が弱くて……。しょっちゅう倒れてた」

 遥はその度に陽太とかわりたいと思った。だって倒れた陽太の顔色は悪く、指先は冷えていたから。そのまま消えちゃうんじゃないかと思ったことは一度や二度じゃない。

「でもさ、少しずつ対策をして倒れる回数が減った。笑うことも増えた。俺はたぶん、嬉しかったんだ」

 陽太にとって自分が(ほだし)になれれば良い。この世界にいてくれれば、それで良いと思った。けれど今、それが脅かされている。

「だからいなくなっちゃって寂しいんだ。……いや、なんだろう、違和感が大きい?分かんないけどさ、大切なんだよ」

 一言じゃ表せない。遥はそう言い切った。青年は少しだけ目を細めた。

 ーー良いなあ、その人。そんなに想われて。

 遥はくすりと笑う。記憶がなくても陽太は陽太だった。どこか幼くてかわいらしい。根底は変わっていなかった。

「もしかしたらここにいるかと思ったんだが」

 ーー僕じゃないからなぁ。あの子じゃないの?

「違うなぁ」

 青年は少し考え込んだ。遥はそっと陽太に手を伸ばす。伝われ、伝われ。俺は、佐倉陽太を迎えに来たんだ。一緒に帰らないならば俺はここに残る。だからーー。

「もう良いだろ」

 少年は遥の手から青年の手をかっさらった。遥は少し残念そうな顔をした。青年はゆっくりと瞬きをした。まだ聞きたそうだったが、少年に従うらしい。

「ほら、もう帰って」

 それで二度と来ないでね。

 少年はそう言って青年を立たせた。その背に向かって遥は口走る。

「なぁ、知っているか。異界のものを食べたらその世界の住人になってしまうらしい」

 ぴくりと少年の動きが止まった。少年もその話を知っているらしい。

「神話ではある女神の娘が冥界でザクロを食べた。結局地上に帰れることになったが娘はザクロを食べてしまった分を冥界で過ごすことになった」

 青年が遥を見る。青年は記憶がないからか知らないだろう。

「その女神は娘の不在の間、嘆いて過ごした。そのせいで冬が生まれたとされている」

 遥は青年に向かって笑った。青年は目を丸くする。そこにたしかに感情があった。

「帰れると良いな、求めている人がいるところに」

 遥はそっとその場をあとにした。青年は遥の背に手を伸ばす。けれどその手は遥まで届かなかった。

「行こう」

 ゆっくりと少年が青年の背を押した。ふわりと風が吹いて青年は祠の中に入った。少年の姿も消えた。


 遥は林を抜けてダムを見下ろした。ドバドバと流れる水を見てみればうっすらと虹が見えた。透明な水もその上辺は白い泡で埋め尽くされている。大きな音には癒やし効果があるのか、陽太を取り戻せなかったにも関わらず、遥は安堵していた。

 陽太の無事は確認できた。自分たちといるよりも幸せそうだった。きっと陽太にとって倒れない環境の方が安心だろう。

 強引に連れ戻すことは、陽太のためにもやりたくない。それでは同じになってしまう。

「あーあ」

 きっとしこたま怒られるんだろうな。なんて無責任なんだ、と罵られるかもしれない。

 正人も大樹も陽太を取り戻したかった。行けるものなら行っていただろう。けれど、遥に任せると言って断念したのだ。必ず取り戻せと言っていた。彼らにとって陽太はもう、大切な友人だった。

 そんなことは分かっている。分かっていてもーー。

「いたっ!」

 振り返って見ればそこに青年が立っていた。先ほど別れたときの白い羽織り袴のまま、肩で息をしていた。走って来たらしい。それにも関わらず衣服は少しも汚れていない。

「どうしたんだ?」

 頑張って優しく声をかけた。身長差もあって怖がられるかもしれないと思ったからだった。

「僕、きみと行きたい」

 拙い言葉だったと思う。けれど、記憶のない青年のたくさんの希望がこめられた声に、遥は胸がいっぱいになった。

 選んでくれたのだ、他でもない遥たちのことを。

 遥は青年の手を取った。この喜びを青年と共有したかった。

 ぱちりと青年が目を丸くする。その目がどんどん光を取り戻していく。

 ーーリンクだ。

 遥はそう思った。今までのリンクは陽太自身が望まぬ負のリンクだったが、今回は彼自身がそれを望んだ。だからポジティブなアクションなのだ。

 ぽうっと青年の指先が光る。それが次第に少年の姿を作った。それは遥を見て喋り出す。

「契約だ。一年の四分の一を分割したりしてこっちで過ごさせる。それ以外はそっちで過ごせ」

 これ以上は譲歩しない。契約を反故にするなら陽太の記憶も存在も戻さない。

 遥はうなずいた。一年の四分の一、つまり三ヶ月だ。それならば夏休みと春季休みを費やせばお釣りが来るぐらいだ。ゴールデンウイークなどを使えばもっとお釣りが来る。それで良い。それで陽太が戻るなら良い。

「分かった」

「ならば戻してやる。契約は違えるなよ」

 少年はそれだけ言うと消えた。それと同時に青年がふらりと倒れた。遥は慌ててその身体を支える。急に体調が悪くなったかもしれない。慌てて口元に耳を寄せた。

 すうすうと小さな寝息が聞こえる。遥は安堵の息を吐いた。

「……帰るか」

 遥は青年を抱え直した。首筋に青年の寝息がかかる。あぁ生きているなと遥は安堵した。

 遥は実家に向かって歩き出した。背負った陽太は意外と軽くてやっぱり少し寂しくなった。

 実家に着く頃にはいつの間にか夕方になっていた。オレンジの空ではカラスが鳴いていた。早く帰れと言われているようだった。

 母屋の扉を開け、玄関で靴を脱いだ。青年は裸足だったので気にせず背負ったまま上がった。

 そのまま夏に来ていたときに使っていた部屋に入る。布団は敷きっぱなしだったのでそこに青年を寝かせる。

 長くなった前髪が目にかかっている。遥はそれをそっとはらってやる。寝顔は変わらない。どんなに服装が変わっても陽太は陽太だった。

「陽太、おかえり……」

 遥は目を閉じる。本当はお風呂に入るべきだろう。着替えてさっぱりするべきだ。けれど遥はもう限界だった。疲れて仕方がない。指一本、動かせない。あとはもう、寝るだけしかできない。

 遥の意識はゆっくりと落ちていく。起きたらやる、なんて未来の自分に任せて遥は眠った。陽太がいなくなってから見始めた悪夢は一度も見なかった。



 それからが大変だった。

 遥は翌日の朝、警察に連絡をして陽太を保護してもらった。陽太は一度、病院で検査をして少しの栄養失調とだけ診断された。点滴で栄養をとりながら、警察からの聴取に応じた。

 しかし、陽太に記憶はなかった。どこにいて何をしていたのか。陽太は何も証言することができなかった。

 警察は陽太に記憶がない以上、これ以上の捜査もできず、捜査本部はなくなった。陽太の行方不明に関しては原因不明ということで終了したらしい。誘拐ではない、ということは母親の唯愛には伝えられた。

 陽太はそれから実家に一度顔を出したらしい。唯愛は陽太を抱きしめ、事の顛末を聞いた。一年の四分の一を祠で過ごすことになったことはあらかじめ遥から聞いていたが、陽太もそれは知っていたらしい。

 ごめんなさい、と言って切り出した陽太に対して、唯愛は怒ることもなく、苦しませてごめんなさいと返した。元はと言えば唯愛が怠ったことが原因だから責任を感じているのだろう。陽太は唯愛を責めることなく大丈夫だと笑った。

 唯愛には陽太が大きく成長したように見えたらしい。少しだけ涙ぐんでいた。

 一方、遥は寮に戻り、陽太とはそこで再会することにした。警察に陽太を預けた後、大学に連絡を入れて休学期間を二ヶ月に短縮してもらった。事前に時間割りは見ていたので、講義自体は選んでいた。出席簿に遥の名前がないだけで、一応、とってはいたのだ。

 さて、そういうわけで遥は寮に戻ると講義の教師に提出するレポートを作った。その提出によって欠席していた分を補うのだ。

 気まぐれでとった民俗学の教師からは休学中にしていたことを書くよう言われた。たぶん、陽太を捜すことではなく、少年とのことが知りたいのだろう。民俗学のにおいがするのだろうか、遥にはよく分からなかった。

 そうこうしているうちに陽太が寮に帰ってきた。その日、寮は大騒ぎだった。陽太と同じ講義をとっていた学生が陽太の無事を喜び、正人や悠木は泣いていた。陽太はそれを見て困ったような顔をしていた。しかし遥は陽太をその中心に押しやった。

 心配されていれば良い。そうやってこっちにいる理由を作れば良い。

 散々もみくちゃにされた陽太は少し疲れた表情で遥と部屋に戻った。陽太の記憶にある部屋と少しも変わらない家具の配置に安堵したようだった。

「お風呂、はいってくる」

「あぁ」

 あれ以来二人は会っていなかった。そのせいか遥と陽太の間にはどこか気まずい空気が流れている。陽太は逃げるようにお風呂へ行ってしまった。

 かくいう遥もベッドに乗って頭を抱えていた。陽太と上手く話せない。それは遥の中に罪悪感があるからか、それとも別の感情があるからか。それは分からなかった。

 しばらくジタバタとベッドで暴れていた遥だが、いい加減腹をくくったのか、ベッドに座るとぐっと手を握った。

 ドライヤーの音がする。ずいぶん手慣れたものだ。一年以上前では考えられないものだった。遥が思い出し笑いをしていると陽太がやって来た。

「あがったよ」

 遥がそちらを見れば陽太が目を細めていた。お風呂は気持ち良かったらしい。

「なぁ、陽太」

 なあに、と言葉が返ってくる。こてんと首をかしげて問われると遥はどう切り出せばいいものかと少し悩んだ。けれどストレートにいくしかないと思い、真っ直ぐ言った。

「陽太は俺の心の声、聞けこえないの?」

 陽太は目を丸くした。どうして遥がそれを知っているのか分からなかった。けれどよく考えれば答えは簡単だ。陽太が唯愛にこぼしていたことを唯愛が遥に伝えたのだ。

「き、聞こえないけど……」

 陽太は少し戸惑いながらそう返した。

「良かったぁ〜。俺、結構いろいろ考えているからさ。聞かれてたら苦しめちゃうと思ってた!」

 陽太を苦しめていたわけじゃないんだな。良かった良かった。

 ニッと遥は笑った。それがずっと気になっていた。唯愛がこぼしていた言葉が本当か確かめたかった。だって、本当に遥の心の声が陽太に聞こえていないのか分からないから。

「陽太が苦しかったら考え事しないようにしないといけないなって思ってて!」

 でも、なんで聞こえないんだろうな?

 遥がそう言った後、陽太の顔を見たときの衝撃を忘れられない。陽太は熱でもあるかのようなほど潤んだ目と真っ赤に染め上げた頬でどこかぼうっとしていた。

 ーーあ、かわいい。

 陽太は遥に顔を見られないように腕でガードする。遥はもったいないと思いながら手を伸ばす。陽太のガードなんて子どもでも崩せるほどだったので遥にとっては簡単なことだった。

「やっ……!」

「なんで?」

 遥が素直に聞けば、陽太はさらに真っ赤になって遥の腕から逃れようと暴れる。遥には陽太がどうして逃げようとするのか分からなかった。

 熱があるなら風邪を疑わないといけない。薬が必要かもしれない。美帆に連絡をしないといけない。心配しているだけなのに。

「とっ、とにかく!今日は疲れたから寝るね!おやすみ!」

 陽太は遥の一瞬の隙をついて抜け出すとベッドにもぐりこんだ。遥はしばしそれを見ていたが、やがてお風呂に入ろうと準備を始めた。

 陽太はベッドの中で冷めない顔の熱をなんとか下げたかった。だって唯愛の言葉がずっと陽太の頭にあるのだから。

 陽太のことが大好きな人の心の声は聞こえないのよ。

 父と母である裕と唯愛の心の声を陽太は聞いたことがない。二人が陽太のことが大好きだと分かっていた。では、遥は?

 遥の心の声が聞こえない理由をそれに当てはめて考えれば答えは一つだ。遥は陽太のことが大好きなのだ。

 陽太はぶんぶんと頭を左右に振る。そんなことはない。遥が陽太のことが好きだなんてーー。


 この鈍感な二人が今後どうなっていくのかはまた別の話である。

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