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第9話:将軍の怒り、公然の愛

翌朝、砦の中は、昨日とは全く違う、異様な空気に満たされていた。いつもの朝の活気に満ちた訓練場も、どこか静まり返っている。兵士たちは、リリエルとユージンのきらびやかな服装に、好奇と警戒の入り混じった視線を向けていた。彼らの存在が、私がようやく見つけた安らぎの地を、少しずつ侵食していくような気がして、胸がざわつく。昨夜の満天の星空の下で感じた安堵が、すでに遠い記憶のようだ。


食堂へ向かう足取りは、鉛のように重かった。朝食の準備をする食堂からは、温かい薬草スープと、焼きたてのパンの香りが漂ってくる。王都の朝食は、甘いジャムと、とろけるようなバターの匂いがした。しかし、辺境の朝食は、泥臭く、生の、土の匂いがする。それが、私の心を落ち着かせてくれるはずだった。だが、リリエルが身につけている、甘ったるい香水の匂いが、その素朴な香りを台無しにした。その香りは、私を、かつての、残酷な社交界の記憶へと引き戻した。


重苦しい沈黙の中で、朝食が始まった。木製の長テーブルには、朝の油ランプがぼんやりとした光を投げかけている。その光は、王都のシャンデリアのように華やかではなく、ただ、そこにあるものを照らすだけだった。私は、スプーンを手に取り、薬草の香りがするスープをすする。兵士たちの間からは、カチャカチャとスプーンが器に当たる音や、パンを噛み締める音だけが聞こえてくる。普段なら、聞こえてくるはずの、活気のある会話や、笑い声は、どこにもなかった。


そんな中、リリエルが、わざとらしく明るい声で、ユージンに話しかける。その声は、社交界で完璧な令嬢を演じるために鍛えられた、甘く、そして、偽りばかりの声だった。


「ユージン様、辺境の食事は、王都と違って、素朴で素敵ですわね。でも、わたくし、少しだけ胸焼けがしてしまって……。王都の食事に慣れていると、こういったものは、なかなか……」


彼女は、そう言って、私の方をちらりと見た。その瞳には、私を貶める意図が隠されているのがわかった。私の心臓が、ズキリ、と痛む。私は、何も言わずに、ただ黙ってスープを飲んだ。スープは、温かく、心に染み渡るものだったが、彼女の言葉が、その温かさを台無しにした。彼女の言葉は、まるで鋭いナイフのように、私の心を刺した。


ユージンは、そんなリリエルの言葉に、興味なさげに相槌を打った。彼の視線は、ずっとレオンハルトに向けられていた。彼の表情は完璧な笑みを保っているが、その瞳の奥には、冷たい支配欲が宿っているのがわかった。そして、彼は、ついに、本題を切り出した。


「将軍殿、そろそろ、元婚約者の件について、お話をさせていただきたいのですが。我々の家は、彼女を王都に戻すつもりです」


その言葉は、命令だった。彼は、私を、まるで彼らの所有物のように扱い、レオンハルトに、私を引き渡せと要求しているのだ。その瞬間、兵士たちの間で、ざわめきが広がった。そのざわめきには、驚きと、ユージンの傲慢な態度に対する、静かな怒りが含まれていた。彼らは、昨夜、私がどれだけ苦しんでいたかを知っている。そして、レオンハルトが、私をどれだけ大切に扱ってくれたかを知っている。彼らの怒りは、私に対する侮辱を、自分たちへの侮辱だと感じているようだった。


レオンハルトは、何も言わずに、ただ静かに、ユージンを見つめていた。彼の瞳は、夜空の星のように、冷たく光っていた。だが、その瞳の奥には、私への侮辱を許さない、静かな怒りが宿っているのがわかった。彼の纏う空気が、一変した。まるで、凍てついた氷が砕け散るような、鋭い音が聞こえるような錯覚に陥る。食堂の油ランプの光が、その緊張した空気を照らし、彼の影を不気味なほどに引き伸ばした。


彼は、ゆっくりと、ユージンに視線を向けたまま、口を開いた。彼の声は、低く、そして、氷のように冷たかった。


「…私の領地で、私の客人に対し、無礼な振る舞いは許さん」


彼の声には、冷たい怒りが込められており、食堂の空気が、一瞬で凍りついた。ユージンは、その言葉に、わずかに眉をひそめた。彼の完璧な笑顔が、初めて崩れ去った。


「将軍殿、私は、ただ、元婚約者を保護してくださったことに対し、感謝の意を述べ……」


「感謝? 感謝の言葉に、侮蔑の意が込められているようだが?」


レオンハルトは、ユージンの言葉を遮り、さらに冷たい声で続けた。彼の瞳は、もはや冷たい光ではなく、燃え盛る炎のように、ユージンを射抜いていた。ユージンの顔から、完璧な笑顔が消え去り、僅かな恐怖の色が浮かんだ。彼の視線が、私の隣に座るレオンハルトから、私へと向けられた。まるで、彼が私に何かを要求するかのように。


だが、レオンハルトは、その視線を遮るように、私の手を取り、ユージンに、そして食堂にいるすべての者たちに聞こえるように、静かに、そして、力強く言った。


「彼女は、私の客ではない。私の、家族だ」


その瞬間、食堂全体が、一瞬、静まり返った。兵士たちの驚き、そして安堵の空気が、私を包み込む。彼らは、私たちの関係を公に認めてくれたことに、安堵の表情を見せていた。リリエルは、その言葉に、顔を青ざめ、ユージンは、驚愕に目を見開いていた。彼らは、まさか、レオンハルトが、私を「家族」と呼ぶとは、想像もしていなかったのだろう。彼らが私を「所有物」として扱ったのに対し、レオンハルトは、私を「家族」という、彼にとって最も大切な存在として、公然と認めてくれたのだ。


私は、その言葉に、胸の奥が、熱くなるのを感じた。レオンハルトは、私を、もう「追放された令嬢」としてではなく、一人の人間として、そして、彼にとって大切な「家族」として、公然と認めてくれたのだ。


レオンハルトは、私の手を取り、立ち上がった。彼のゴツゴツとした、温かい手が、私の心を深く満たしていく。彼は、私をユージンとリリエルから引き離し、ゆっくりと食堂を出て行った。彼の背中は、まるで、私を守ってくれる、巨大な壁のようだった。嵐の中にいる私を、その背中で、嵐から守ってくれる、揺るぎない壁。


---


砦の中庭を、彼と二人で歩いていた。私は、彼の後ろを、ただ黙ってついていった。彼の手は、私の手を、決して離そうとしない。その温かさが、私の心を深く満たしていく。


「…将軍様、なぜ……」


私がそう尋ねると、彼は、歩みを止め、私を振り返った。彼の瞳は、夜空の星のように、冷たく光っていた。だが、その瞳の奥には、私を心配する、温かい光が宿っているように見えた。


「…お前は、ここにいればいい」


彼はそう言って、私の肩に、そっと手を置いた。彼の声は、低く、無骨だった。だが、その言葉は、私の心を深く満たしてくれた。


(私は、ここにいればいい……)


彼の言葉が、私の心に、深く染み込んでいく。リリエルとユージンは、私を王都に引き戻そうとしている。だが、レオンハルトは、その嵐から、私を守ってくれる存在だ。私は、安らぎと過去の影の板挟みで、心が大きく揺れた。だが、もう迷うことはない。私は、この辺境で、この男と一緒に生きていく。それが、私の選んだ道だ。

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