第8話:妹の来訪、そして醜悪な真実
手紙を握り潰した夜から、数日が経った。私の心は、まだ完全に落ち着いたわけではなかったが、レオンハルトの「ここにいればいい」という言葉が、心の支えとなっていた。私は、彼が隣にいる限り、過去の影に怯える必要はないのだと、自分に言い聞かせた。辺境の砦での生活は、私に、安らぎと、そして、少しの自信を与えてくれた。私は、薬草の知識を活かし、兵士たちの手伝いをすることに、喜びを感じていた。
しかし、その穏やかな日々は、突如として破られた。
その日、砦は朝から妙な緊張感に包まれていた。いつもは活気に満ちた訓練場も、どこか静まり返っている。兵士たちが、ソワソワと落ち着きなく、何度も門の方に視線を向けていた。乾いた土の匂いに混じって、どこか甘ったるい、嫌な匂いが漂ってくる。私は、胸騒ぎを覚え、自分の部屋の窓から、門の方をじっと見つめていた。
(この匂いは……)
甘く、人を惑わすような、王都の貴族が使う香水の匂い。私は、その匂いを嗅いだ瞬間、吐き気がこみ上げてきた。それは、私がかつていた、偽りの世界の匂いだった。
馬車の車輪が、ごつごつした未舗装の道を軋ませながら近づいてくる。ガタガタ、ガタガタ、と不協和音を奏でるその音は、まるで、私の安らぎを壊しに来る、不吉な知らせのようだった。遠くで、馬の蹄音が、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ向かってくる。
「おお……貴族の馬車だ」
兵士たちの間で、ざわめきが広がっていく。彼らのざわめきは、次第に大きくなり、それは、まるで、見慣れない珍しいものに対する、警戒と好奇心の入り混じった声だった。彼らは、王都の華やかさを知らなかった。だからこそ、そのきらびやかさが、彼らの日常を侵食していくように見えた。
やがて、土煙の中から、一台の豪華な馬車が姿を現した。それは、王都でも一握りの貴族しか持てないような、絢爛豪華な装飾が施されていた。馬車の扉が開き、降りてきたのは、まばゆいドレスを身にまとった、一人の女性。
私の妹、リリエルだった。
彼女の隣には、元婚約者のユージンが、相変わらずの完璧な笑顔で立っていた。彼らの周囲には、甘ったるい香水の匂いが漂い、辺境の澄んだ空気を汚していく。私は、その匂いを嗅いだ瞬間、吐き気がこみ上げてきた。それは、私がかつていた、偽りの世界の匂いだった。
(…あんなに、華やかだったっけ……?)
リリエルのドレスは、真紅のシルクでできていて、胸元には、大きなダイヤモンドのブローチが輝いている。その輝きは、まるで、私を嘲笑うかのように、私の目に突き刺さった。彼女の足元は、白いレースの靴を履いており、その一歩一歩が、辺境の土を踏みしめるたびに、私の心をざわつかせた。
「お姉様! お久しぶりですわ!」
リリエルは、私を見つけると、満面の笑みで駆け寄ってきた。その笑顔は、かつて私を奈落の底に突き落とした、あの夜会の笑顔と同じだった。彼女の瞳には、私への愛情など、微塵も感じられない。あるのは、勝利者の嘲笑と、優越感だけだった。
(この笑顔……。いや、違う。この笑顔は、あの夜会の……)
私の脳裏に、夜会の光景がフラッシュバックする。きらびやかなシャンデリア、甘い香水の匂い、そして、私を嘲笑うかのような、冷たい視線。私は、まるで時が巻き戻されたかのように、再びあの夜会に立たされているような錯覚に陥った。心臓がドクンドクンと大きく鳴り、その音は、まるで私に警告を発しているようだった。
「辺境での暮らしはいかが? わたくし、お姉様のことが心配で、ユージン様にお願いして、わざわざここまできたんですよ?」
リリエルの言葉は、一見、私を気遣っているように聞こえる。だが、その声には、冷たい棘が隠されている。彼女は、私を「可哀想な姉」として演じ、自分の優しさを周囲に見せつけているのだ。
ユージンは、私を一瞥すると、まるで私が見るに値しないもののように、すぐに視線を逸らした。そして、彼は、私の隣に立つレオンハルトに、冷たい視線を向けた。
「あなたが、この辺境の将軍殿か? 話は聞いている。私の元婚約者を保護してくださっているそうで、感謝します」
ユージンの言葉は、丁寧だった。だが、その言葉の裏には、「私の元婚約者」という言葉で、私を自分の所有物のように扱い、レオンハルトを下に見て、優位に立とうとする、彼の傲慢さが隠されていた。
レオンハルトは、何も言わずに、ただ静かに、ユージンを見つめていた。彼の瞳は、夜空の星のように、冷たく光っていた。だが、その瞳の奥には、私への侮辱を許さない、静かな怒りが宿っているように見えた。
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リリエルとユージンは、砦に数日間滞在することになった。私は、彼らと顔を合わせるたびに、心が締め付けられた。彼らは、わざと私の目の前で、親しげに談笑し、私の過去の傷をえぐるような言葉を囁いた。
「お姉様、辺境は不便でしょう? でも、ご安心ください。わたくしが、将軍様にお願いして、お姉様を王都にお連れできるように、手配しておきましたから」
リリエルは、そう言って、私に微笑んだ。彼女の言葉は、私を助けようとしているように聞こえる。だが、その裏には、「お姉様は、将軍様のお荷物」という、残酷な嘲笑が隠されている。彼女は、私を王都に連れ戻し、再び、社交界で笑い者にしようとしているのだ。
私は、その言葉に、どうすることもできなかった。私は、この安らぎの地を、彼らに壊されたくない。しかし、私は、彼らに逆らうだけの力を持っていなかった。
その夜、私は、レオンハルトと二人で、焚き火を囲んでいた。彼は、何も言わずに、火の番をしていた。その姿は、まるで、孤独を愛する狼のようだった。
「…リリエルは、私を王都に連れ戻そうとしています。私は、もう、王都には戻りたくない……」
私がそう言うと、彼は、何も言わずに、私の肩に、そっと手を置いた。彼の瞳は、夜空の星のように、冷たく光っていた。だが、その瞳の奥には、私を心配する、温かい光が宿っているように見えた。
「…お前は、ここにいればいい」
レオンハルトは、そう言って、私の肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。彼の声は、低く、無骨だった。だが、その言葉は、私の心を深く満たしてくれた。
(私は、ここにいればいい……)
彼の言葉が、私の心に、深く染み込んでいく。リリエルは、私を王都に引き戻そうとしている。だが、レオンハルトは、その嵐から、私を守ってくれる存在だ。私は、安らぎと過去の影の板挟みで、心が大きく揺れた。




