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第7話:嵐の予感、届いた手紙

辺境での生活は、私の心を深く満たしていた。王都での日々が遠い過去の出来事のように感じられ、私はようやく、心から安らげる場所を見つけたと信じていた。早朝、鳥のさえずりで目を覚まし、薬草の香りに包まれながら一日を過ごす。夜は、満天の星空の下、焚き火のそばで温かい食事をとる。贅沢なドレスも、高価な装飾品も、ここにはない。だが、私の心は、王都にいた時よりもずっと満たされていた。


私は、薬草の知識を活かし、砦の兵士たちの手伝いをすることになった。怪我をした兵士の傷に、薬草をすり潰して塗ってやる。熱を出した兵士に、薬湯を煎じて飲ませてやる。慣れない作業に戸惑うこともあったが、兵士たちは、そんな私を笑うこともなく、辛抱強く教えてくれた。私の特技が、誰かの役に立っている。私の存在が、誰かにとって、価値のあるものになっている。その事実に、私は、初めて、自分の価値を認めてもらえた気がした。


そんな、穏やかな生活が、一通の手紙で、音を立てて崩れ去った。


夕食後、レオンハルトが、私の前に、小さな封筒を置いた。封筒は、王都の貴族が使う上質な羅紗紙でできており、甘い香水の匂いがした。封蝋には、見覚えのある紋章が刻印されている。私の実家の、そして、妹リリエルの紋章だ。


私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。手が震え、その封筒に触れることができない。封蝋の冷たさが、私の指先に伝わってくる。私は、その冷たさが、まるで、夜会の冷たい視線のようだと感じた。


「…王都から、だ」


レオンハルトは、そう短く言うと、何も言わずに、私の隣に座った。彼は、私の表情の変化に気づいているようだった。私は、その封筒を、まるで熱い石にでも触れたかのように、恐る恐る手に取った。開けたくない。いや、開けなければならない。その葛藤が、私の心の中で嵐のように渦を巻く。


(これを読めば、きっとまた、あの日の痛みを思い出す。でも、読まなければ、この不安から解放されない……。一体、リリエルは何を言いたいのだろう。私を嘲笑うため? それとも、何か、別の目的が……?)


私は、震える手で封蝋を壊し、封筒を開けた。中から出てきたのは、何枚もの便箋だった。便箋には、リリエルの、優雅で、完璧な筆跡で、言葉が書き連ねられていた。


「お姉様、辺境での暮らしはいかが? こちらはユージン様と幸せに暮らしていますわ。社交界も毎日が舞踏会みたいで、本当に楽しい」


便箋を読み進めるにつれ、私の心は、過去の苦い記憶に引き戻されていく。夜会のまばゆい光、耳元で聞こえたユージンの冷たい言葉、そして、リリエルとユージンが並び立つ、完璧な光景。


「お姉様は、社交界では地味で不器用でしたから、辺境の方がお似合いかもしれませんね。ああ、そうそう、ユージン様も、お姉様のことを心配して……」


私の指先が、便箋のざらざらとした感触を過剰に感じ取る。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような、痛みが走った。この手紙は、私を、まだ「笑い者」として扱っている。私は、この安らぎの地でも、過去の影から逃れることはできないのだと、悟った。


私は、手紙を握り潰した。そして、顔を上げると、レオンハルトが、じっと私を見つめていた。彼の瞳は、夜空の星のように、冷たく光っていた。だが、その瞳の奥には、私を心配する、温かい光が宿っているように見えた。


「…お前は、ここにいればいい」


レオンハルトは、そう言って、私の肩にそっと手を置いた。彼の声は、低く、無骨だった。だが、その言葉は、私の心を深く満たしてくれた。


(私は、ここにいればいい……)


彼の言葉が、私の心に、深く染み込んでいく。この手紙は、私を王都の過去に引き戻そうとしている。だが、私は、もう、王都には戻りたくない。この辺境で、レオンハルトと一緒に生きたい。私は、安らぎと過去の影の板挟みで、心が大きく揺れた。


---


レオンハルトが差し出した小さな封筒は、私の手のひらに乗せられた瞬間、過去の重さそのものに感じられた。喉が乾き、呼吸が浅くなる。指先には、じんわりと嫌な汗がにじみ、封筒の羅紗紙の、滑らかな感触を過剰に感じ取っていた。


(どうして……。どうして、今になって……?)


脳裏に、王都での日々がフラッシュバックする。きらびやかなシャンデリア、甘い香水の匂い、そして、私を嘲笑うかのような、冷たい視線。私は、まるで時が巻き戻されたかのように、再びあの夜会に立たされているような錯覚に陥った。心臓がドクンドクンと大きく鳴り、その音は、まるで私に警告を発しているようだった。開けてはいけない。この封筒の中には、私を再び奈落の底に突き落とす、残酷な言葉が詰まっている。そう頭ではわかっているのに、指は、勝手に封蝋に触れていた。


---


豪奢な夜会を彩るシャンデリアの光が、ダイヤモンドのように輝き、その光の下、ユージン様とリリエルが寄り添い、優雅に談笑していた。私の視界には、その二人しか映っていなかった。私が着ていたドレスは、リリエルのものに比べて、地味で、重く感じられた。ドレスの裾が、大理石の床に擦れるたびに、私は、自分の存在が、この華やかな夜会にそぐわないことを、嫌というほど思い知らされた。


「お姉様、ユージン様も、お姉様と話したいことがあるそうですよ?」


リリエルの甘い声が、私の耳元で囁く。その声には、僅かな嘲笑が混じっていた。ユージン様は、私を一瞥すると、冷たい声で、こう言った。


「君との婚約は、父が決めたことだ。だが、私は、君のような地味で退屈な女には、興味がない」


私の胸が、ナイフで抉られたように痛んだ。周囲からは、くすくすという、嘲笑のざわめきが聞こえてくる。私は、その場から逃げ出したかった。でも、足がすくんで、動くことができない。ユージン様とリリエルは、そんな私の様子を、まるで、劇場で上演されている悲劇を見ているかのように、冷たい目で眺めていた。


---


便箋の文字は、流れるように優雅で、完璧な美しさだった。しかし、その言葉一つ一つに、鋭い棘が隠されている。


「お姉様、辺境での暮らしはいかが? ユージン様と私は、毎日が舞踏会みたいで、本当に楽しい日々を過ごしていますわ。お姉様は、社交界では少し、いえ、かなり地味で不器用でしたから、もしかしたら、辺境の方がお似合いなのかもしれませんね。ああ、そうそう、ユージン様も、お姉様のことを心配して、『彼女は、もう二度と社交界に戻ってくることはないだろう』とおっしゃっていましたわ。もちろん、良い意味で、ですわよ。お姉様が、辺境で幸せに暮らしていることを、心から願っていますわ」


一見、私を心配しているように聞こえるが、その言葉の裏には、「お前は社交界にはふさわしくない」という、残酷な嘲笑が隠されている。特に、「良い意味で、ですわよ」という言葉が、私の心を深く抉った。それは、リリエルが私を完全に下に見ている証拠だった。私は、この手紙を読んだ瞬間、安らぎの地に逃れてきたはずの自分が、まだ、彼女たちの手のひらの上で踊らされているのだと、悟った。


---


便箋の文字が、私の視界の中で揺らぎ始める。頭がくらくらとして、吐き気がこみ上げてきた。耳の奥では、キィィンという耳鳴りが響き、周囲の音が遠のいていく。私は、今、自分がどこにいるのか、わからなくなった。ここは、王都の夜会か?それとも、辺境の砦か?


(ここはどこ?私は誰……?また、あの、地獄に戻ってしまったの……?)


私の身体は、手紙の言葉に過剰に反応していた。心臓が早鐘のように鳴り、全身から血の気が引いていく。私は、まるで、水のない場所で溺れているかのような苦しさを感じていた。手紙の言葉は、私の心を、そして身体を、じわじわと蝕んでいく毒のようだった。


---


私は、手紙を握り潰した。そして、顔を上げると、レオンハルトが、じっと私を見つめていた。彼の表情は、相変わらず無表情だった。だが、彼の瞳の奥には、私が今、どれほど苦しんでいるのかを理解している、温かい光が宿っているように見えた。


パチッ……パチッ……


焚き火のはぜる音が、静かな夜に響く。レオンハルトの沈黙は、私にとって、何よりも深く、心地よいものだった。彼は、何も言わず、ただ、私のそばにいてくれる。その不器用な優しさが、私の心を深く満たしていく。彼のゴツゴツとした、分厚い手が、私の肩にそっと置かれた。その手は、冷たいはずなのに、私の心を温めてくれる。


(私は嵐の中にいる。でも、この人は、私を守ってくれる、揺るぎない壁……)


リリエルの手紙は、私を過去の嵐の中に引きずり込もうとしている。だが、レオンハルトは、その嵐から、私を守ってくれる存在だ。彼の言葉は、私の心を深く満たしてくれた。「お前は、ここにいればいい」。その一言が、私の心を、過去の鎖から解き放ってくれた。私は、もう、王都には戻らない。この辺境で、この男と一緒に生きていく。それが、私の選んだ道だ。

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