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俺にはあなたが刻まれている

「わたくし達の婚約は破棄しましょう」

 静かではあるが強い意志が籠った声がしんとした屋敷に響いた。提案の口調ではあるが、おいそれ覆すことができない雰囲気を醸し出している。婚約破棄を言い渡した彼女はブリジット・ド・フルール、子爵家のご令嬢。そして、侯爵家の若き当主、エドモン・ド・パスィヤーンスの婚約者である。

「…………理由を聞いてもいいかな」

 自分の屋敷で幼い頃からの婚約者に婚約間近で破棄を言い渡されたエドモンは苦い顔をして、ブリジットの固い顔を見つめた。エドモンは士官学校を卒業したら、つまり、ひと月後にブリジットと結婚をする気満々だったのだ。ブリジットに婚約は破棄しましょうなんて言われてエドモンは頭から冷や水を掛けられた心地だった。

「理由は3つあります」

 大きな衝撃を受けているエドモンに気付かないブリジットは淡々と話を進めた。

 ブリジットは婚約破棄をエドモンにつつがなく了承してもらえるよう事前準備をしていた。エドモンのことだから確実に理由を聞かれると思い、3つも理由を用意するほどの周到さである。その他に、ブリジットは自分とエドモンの親に話を通す根回し、絶対婚約破棄をするという固い意志、そしてエドモンに負けないという強い心!!!を準備していた。準備を怠るとエドモンに負けてしまうのだ。

 ブリジットはいつも歯痒く思っていた。何かを提案すると、大抵のことは聞いてくれるが、重要な局面に限っては、気がついたらエドモンに押し負けてしまうのだ。直近では、ブリジットの父が戦死に、母と一緒に修道院に入ろうと思った時のことだ。エドモンに理由は何か、本当にそんなことでいいのか、俺を置いて行くのかなどなど言われて、結局、ブリジットは修道院に行くことをやめた。エドモンに押し負けたのだ。

 ブリジットのかけがえのない友人はそれが惚れた弱みねなんて揶揄ってくるが、断じてそれは違う、違うのだ!とブリジットは頭を抱え、いつか勝ってみせると闘志を燃やしていた。

「一つ目、わたくしよりアンヌさんを尊重されていること」

 ブリジットはツンと澄ました顔で人差し指を立てた。勝負の始まりである。

「そんなことはないよ。あなたより大事な人なんていやしない」

 エドモンは不服そうに腕を組んだ。

「あら、さようですか。ですが、婚約者(わたくし)がそう思ってしまうこと自体が問題です。それとも、わたくしを勘違い女に仕立て上げるおつもりですか」

「そういうわけではない……。あれはたしかあなたへの誕生日プレゼントの相談をしていたんだ」

「あなたにとってはそうでもアンヌさんは違ったようですね。エドモン様と接点を持てたと恋した乙女の顔でわたくしに自慢してきました。鬱陶しい限りでしたのよ……。婚約者がいるにも関わらず隙を作ったあなたがいけないのです」

 アンヌとはブリジットのかる~い顔見知りである。スペックの高い男性に擦り寄る習性があり、異性から見ると可愛らしいカスミソウ、同性から見るとただ鬱陶しい小蝿という風評だ。ブリジットはアンヌのことを自分の見た目をよく生かしているなぁ、()()()()にはできないことだとただただ感心していた。

「次はない。だから、許してほしい」

 エドモンは真摯な顔でブリジットを見つめた。エドモンの次はないは真実なのだ。これまでの実績が物語っている。エドモンは誠実な男なのだが、だから何だ、許してはダメだとブリジットは心を強く持った。

「プレゼントは置き時計を買ってみたんだ。彼女のアドバイスはよくわからなかったから、俺の独断で選んだよ。あとであなたの趣味かどうか確認してほしい」

「……そうですか」

 そういえば以前に置き時計がほしいとエドモンに話したことがあったなとブリジットは思い出した。嬉しくなるな、嬉しくなるなとブリジットは自分に言い聞かせ、エドモンが話を変えようとしているのではないかと警戒心を高めた。

「二つ目、わたくしとあなたは不釣り合いであること」

 ブリジットは人差し指に加えて中指を立てた。

「これからもっと精進するから許してほしい!」

 エドモンは焦ったように拳を握りしめた。

「違います。わたくしがあなたに不釣り合いと申し上げたのです」

「……ありえない」

「あなたは家柄・容姿・頭脳、おまけに魔法の腕も完璧。たかが落ちぶれてゆく子爵家の面白みのない堅物女に釣り合うような相手ではない。これが巷の評判です」

 ブリジットは自嘲気味に笑った。噂はすべて事実だが、まあそんなお堅い性格でもいいだろうとブリジットは思っている。それに、陰で落ちぶれ女だとか生真面目過ぎて夫となる人が可哀想だとか悪口を叩く人間より美しい性格をしているはずとブリジットは気にもとめていなかった。ただ、エドモンの不貞を責め、ブリジットの不徳を認めれば何かいい感じに話が進むのではないかという作戦の一環であった。

「誰がそんな噂をあなたの耳に?」

「わたくしをどなたかに聞かなければ時勢もわからぬ愚昧とでも思っていらっしゃるのかしら……」

「違うよ。誰があなたにそんな嘘を垂れ流したか知りたいんだ」

「あながち間違いではないと思いますけれどね」

「俺は、あなた以上に努力家で品格と知性と教養がある人をしらない!」

「たくさんいますよ」

 それは嘘くさいとブリジットは呆れた。

「惚れた欲目かな。……でも、あなたの存在が俺の原動力なんだ」

「……そうですか」

 あなたのような立派な婚約者にふさわしくなれるように努力した時期もあったなとブリジットは思い出した。婚約破棄しようとすると今までのことが走馬灯のように蘇ってくる。嬉しくなるな嬉しくなるなとブリジットは心の中で繰り返した。

「それで、さっきのは誰に言われたんだ」

「さぁ、忘れてしまいました」

「アンヌ嬢だな」

 馬鹿だなとブリジットは笑みが漏れた。噂になるということは言い触らしている人間はアンヌだけではない。もっといろんな人がエドモンという男を注目し、魅せられている。ブリジットはそのことを誰よりもしっていた。よりどりみどりならば一番いいものを選ぶべきだ。少なくともそれは自分ではないという確信がブリジットにあった。

「三つ目、あなたが戦争に行かれること」

 ブリジットは人差し指・中指に加えて薬指を力強く立てた。正直、最初の二つの理由は大した問題ではない。この三つ目の理由がブリジットにとって一番大事だった。

「行くなと言いたいのか」

 エドモンは目を瞑って息を吐いた。

「いいえ、あなたのお父上は一つの師団を背負って亡くなられた御方です。ですから、あなたも士官学校を卒業すれば、戦地に赴かなければなりません」

「うん」

「ですが、わたくしはあなたが死ぬかもしれぬと思って待つのは、……嫌なのよ」

 ブリジットは真っ直ぐエドモンを見つめた。

 フルール子爵家当主であったブリジットの父もおよそ一年前に戦死した。前線部隊に所属し、遺体も帰って来なかった。それから、母は修道院で祈りを捧げ続け、俗世には目も向けない。きっと今も母は父のために祈り続けているのだろう。

 家に残されたのは、輝くような美貌も心を掴むような愛嬌も人を手玉に取れるような知性もない一人娘のブリジット。父の死の悲しみに浸るほど感情的ではなく、将来有望な侯爵家の若き当主に落ちぶれゆくだろう子爵家を押し付けるほど冷酷ではない、そして、明るく、誠実で、穏やかな人に置いていかれるほどの勇気もない、ただの人間。だから、ブリジットは婚約を破棄したい。将来有望な婚約者にはもっとふさわしいご令嬢、例えば公爵令嬢のアンヌとか、と結婚して、幸せになってほしい。ブリジットは死ぬかもしれない男、帰って来ても他の人のところに行くかもしれない男は待ちたくなかった。

「俺は生きて帰ってくるよ」

 エドモンは真っ直ぐ見つめてくるブリジットを見つめ返した。

「軽々しい」

 ブリジットはエドモンの強い視線に耐えきれず目を逸らした。

 絶対に生きて帰るから待っててほしい。そう言って父は戦地に行った。そして、死んだ。戦地からの知らせによると獅子奮迅の戦いをして味方を守りながらの名誉ある死らしい。どこまで本当なのかはわからない。ブリジットが思うより父は強かったのかもしれないし、戦友の遺族を慰めるための嘘かもしれない。 

 ただ一つの事実は、月に二回届いていた戦地の父からの手紙がなくなったことだ。

 母は父の戦死を聞いてから、少しの間は、月二回の手紙を待っていたが、届かない手紙に打ちのめされ、修道院でお祈りに明け暮れる日々である。

 もし、エドモンが戦死したら自分も母のようになるだろう。死ぬまで祈り続けるだろうとブリジットにはわかっていた。そんな人生は嫌だ。フルール子爵家をなんとかしなくてはならない。

 もし、エドモンが戦争から生還したらきっと彼は英雄になっているだろう。それほど彼は逞しく、万人にとって魅力的な人間だとブリジットにはわかっていた。そんな素晴らしい人がたかが子爵家の娘と結婚しているなんてブリジットは嫌だった。きっと、エドモンも嫌だろうとブリジットは胸に突き刺すような痛みを感じた。

「俺は強いよ。しっているでしょう」

「戦争では関係ありません。ご存知でしょう」

 たしかに、エドモンは強い。でも、ブリジットの父もエドモンの父も戦争で死んだのだ。

「わたくし達の婚約は破棄しましょう」

 ブリジットははじめと同じ言葉でおわりを結んだ。

「ブリジット、俺達は絶対に婚約破棄なんてしないから」

 エドモンは頑なだった。ブリジットは納得しないこともあるだろうと想定していたが、こんなに頑として聞き入れないとは思わなかった。なぜという疑問が心に浮かんだ。

「……理由をお聞きしても?」

「理由は一つ」

「三つも用意してくださらないの」

「多ければいいというものじゃないだろう」

「……わたくし、あなたのそういうところが嫌いです」

 あんなに頑張って考えたのにとブリジットはため息を吐いた。

「俺は愛している」

「え……?」

「俺はあなたを愛しているから婚約破棄は絶対にしない」

「……はぁ、愛しているならばわたくしの提案を了承してほしいものですわ」

 ブリジットはつれない言葉を口に出した。しかし、心中は嬉しくなるな嬉しくなるな嬉しくなるな!!!と穏やかではなかった。心を掻き乱され、敗北の予感が過った。

「……もし、婚約破棄をしたら、俺が戦争に行っている間にあなたは他の誰かと結婚するのかな」

「ご縁があるならばするかもしれませんね」

 ブリジットは曖昧な答えを出した。フルール子爵家が火の車だから働くという選択肢を取るかもしれない。そして、お金持ちな人との結婚を選ぶかもしれない。なるべく前者を選びたいが、そうはいかないのが人生だ。

「俺は、そんなこと許容できない。可能性があることすら嫌だ。想像しただけで腑が煮えくりかえる……!」

「随分傲慢なこと」

 ブリジットはエドモンの重い愛の告白を軽く流した。いちいちこんな大仰な言葉に付き合っていたら身が持たない。

「俺が生きて帰ってくると信じて待っててくれないかな……」

「身勝手ね」

 そして残酷だとブリジットは笑った。エドモンは自分を縛り付けたいのかとブリジットは目を伏せた。

「あなたにおかえりって言ってほしい。そうしたら、戦争が終わった、帰ってきたっていう実感が湧くと思うから」

 ブリジットは静かに目を閉じた。

「それはどうしてかしら……?」

「何度でも言うよ。……あなたを愛しているから、今までもこれからも」

 完敗だとブリジットは項垂れた。ここまで言われたら有言実行のエドモンを信じるしかない。否、信じたくなってしまったブリジットの負けである。

「絶対に帰って来てちょうだい、……エドモン」

 絶対なんて不確実な言葉だ。ブリジットの父は絶対生きて帰ると言って戦死したのだ。だからこれはブリジットの甘えである。嘘でも絶対帰ると言って安心させてほしいのだ。

「当たり前だ。約束する。俺はこの約束を心に刻んで片時も忘れないよ」

 エドモンは見慣れた笑顔で左胸をドンと強く叩いた。ブリジットも思わず釣られて笑顔になってしまう満面の笑みだった。

 ブリジットはその笑顔を心に刻み込んでエドモンを待ち続けた。

 


 



 それから、4年後。エドモンは約束通りに帰って来た。かなりやつれ、殺気立っていた。戦争に行く前の穏やかさは見る影もない。

 しかし、ブリジットがおかえりなさいと言うと、エドモンはブリジットの見慣れた笑顔になった。ただいま帰りましたと憑き物が落ちた穏やかさが窺えた。



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