<第3章>第5話:大丈夫じゃないくせに
前回までのあらすじ:
空のことを思い続ける桜良。頭の中では、尋常ではないほどに暗い顔をした空のことと、空を裏切った優日のことが渦巻いていた。
一方、そんな優日も、ある出来事を思い返していた。それは、彼自身の過去だった。休日のわずかな時間だけ、一緒に過ごしてくれた母親の存在。しかし、優日は生まれた頃にはすでにいなかった父親の借金の肩代わりとして、借金取りに売られそうになってしまう。そして、それを決めたのは母親だった。売られそうになる直前、優日は救われるものの、代わりに母親は命を落としてしまう。
そして、優日の中の愛に対する考えは歪み始めていく。SNSで見た『オーバードーズ』という言葉。「その行為」をする桜良の存在。大学で実際に出会ってしまった桜良を見てから、優日は彼女に惚れ、いつも彼女と一緒にいる、友だちであるはずだった空を妬むようになってしまうのであったーーー。
窓の外を見ると、空には雲が広く厚く広がっていた。「晴れ」なんて言葉はとても似合わない。自分の気持ちと似ているなぁと思い、苦笑しながらも部屋を出る。
「あ、桜良ちゃん、おはよ」
「おはようございます、遥輝さん」
ちょうど顔を洗ってきたのか、タオルで顔を拭きながらいつも通りの優しい笑顔を向けてくる。私の緊張した面持ちを見て、「大丈夫?」と声をかけてくれた。「大丈夫です」と答えながらも結局、優日くんのことを全く遥輝さんたちに話せないまま、今日という日になってしまったことに気が付く。
「…今日の夜、少し出かけてきます」
「夜…?誰かに会いに行く、とか?」
「…はい。どうしても、会わなきゃいけない人がいるんです」
「それって、空くんを傷つけた人?」
無意識のうちに下を向いていた目線は、美咲先輩の声で再び上を向いた。
「…そうです。彼に、会わないと…」
「空くんが傷ついちゃうってこと…?」
私の小さくなる言葉の続きを、先輩が代わりに言ってくれた。その言葉に小さくうなずいた。
今日の夜、優日くんに会わないと、空がこれ以上傷ついてしまうことになるかもしれない。
他の人が、空に悪い印象を持ってしまうかもしれない。
空が、あの学校に通えなくなるかもしれない。
自分でもびっくりするくらいに、空のことで頭がいっぱいだった。だけど同時に、あの時気づいてしまった自分への不甲斐なさも私を覆いつくしていた。自分が優日くんとちゃんと話すことができるのか。
遥輝さんたちの助けを借りずに。
「でも、桜良ちゃんなら大丈夫だと思うよ」
ふと、美咲先輩が口を開いた。その思いがけない言葉に、目を見開く。
「桜良ちゃんはもしかしたら、自分のことをいまだに責めちゃってるんじゃないかな?でも、そんなことしなくていいんだよ」
私の頭の中をそのまま読み取ったかのようなその言葉に、言葉が出ない。
「好きな人のことそんなに考えられてるってことは、もう十分、桜良ちゃんは成長できてるよ」
「でも、先輩たちに助けてもらってばかりで…」
「ううん。たしかに助けてはいるけど、それは桜良ちゃんが弱いわけでも、不甲斐ないわけでもない。私たちが助けたいから助けてるだけ。人は、助け合いながら生きていくものなんだよ」
私の両肩をつかんで、まっすぐに目を見てくれる。でもその目はものすごく優しくて、心がじんわりと温かくなる。
「その証拠に、桜良ちゃん、ここに来た時よりもいい目になってるもん」
「そう、なんですか…?」
「うん。自分の大切なものを守りたいって、叫んでるような目をしてる」
それってどんな目なんだろう。今日だって鏡を見てみたけど、いつも通り、暗闇しか見てないような、暗い目をしてる。けれど、自分の中に何か、これまで感じたことのない熱いものがあることは、たしかみたいだ。
今私は、空のことと、優日くんのことしか考えられない。あの2人と、話したい。その思いだけは、揺るぎない思いだった。
「私、頑張ります。話したいことを、話してきます」
「そうそう、その意気だよ!」
その言葉に、力強く頷く。
「大丈夫、桜良ちゃんなら。たくさん乗り越えてきたんだから」
こつんと私の額に当てられた先輩の額は暖かくて、まるで先輩の心そのものみたいで、うっすらと、目に薄い膜が張った。
**********
コンクリート製の建物に囲まれて、空が狭く感じられる場所。1個だけある街灯に照らされた小さな公園。その下に、彼はいた。
「優日くん」
「お、時間通りだね。あれ…?」
私1人だけの姿を見て、優日くんは少しだけ驚いたような顔をしてから、笑った。
「約束守ってくれたんだと思ってたけど、守ってくれてないね。残念だ」
「…空は、来れないって。連絡はしたんだけど…」
「言い訳はいらない。いないなら、手段は1つだから」
私の言葉を遮った彼は、明るい口調とは裏腹に、怖い目をしていた。Ifが優日くんだとわかった時よりも、怒りが濃くなったような目をしていた。
逸らさずにずっと目と目を合わせていたけど、突然、私の視線は彼の右手を捉えた。少しだけ暗くて見えにくかったけど、その手には確かに、スタンガンが握られていた。垂れ流していたテレビドラマにたびたび映っていたものと、それが重なる。暗闇の中で、バチッと音が響いて青い光が見えた。
「でも、やっぱり桜良ちゃんも俺と同じだね」
「どういう、こと?」
と、少し戸惑いながらそう言った。
「だって、結局は誰にも愛されてなかった、ってことだろ?オーバードーズなんかして、空っていう幼馴染を説得することもできずに1人でこんなところまで来て」
図星なその言葉に、何も言葉は出なかった。
「さらに、親にも愛されてなかったってね。はは、ほんと、俺たち似てるね」
「私たちが、似てる…?」
「そう。だって、桜良ちゃん投稿してたよね?親に愛された記憶がないって。君の記憶にも、嫌ってほどこびりついてるくせに」
『なんでこんなこともできないの?!』
『テストの点数がよかった?!はぁ?そんなことどうでもいいから、さっさと自分でも金作れるように働けば?』
『ほんと、あんたみたいな子、なんで産んじゃったんだか……』
『あんたみたいな子のこと、『役立たず』って言うんだろうね』
優日くんの言葉で、フラッシュバックする言葉たち。思い出すだけで苦しい。
『役立たず』だってことを、嫌ってほど思い知らされたこと。
「だからさ、一緒においでよ」
―――同じ役立たず仲間として、さ
優日くんが近づいてくる。
声と同時に、激しい電撃の音が聞こえる。
私の体は硬直したまま、逃げることを諦めていた。
「誰が役立たずだって?」
急に聞こえた声に、私たちの視線が暗闇の方へ向く。
そこには、目の下のクマがなくなった空が立っていた。
「あ、来てくれたんだね。空」
「無視するなよ。誰が役立たずだって言った?」
「桜良ちゃんのことだよ。…いや、今はお前、かな」
気がつけば私の横にいた空に、スタンガンが向けられる。電撃の音が鳴っているはずなのに、空の顔色は何一つ変わらず、優日くんの方を見ていた。
「…そうだな。お前の言う通りだよ、優日」
「…はは、案外簡単に認めるんだな」
「そ、それは違うよ、空!」
空の口から放たれた言葉に、思わず反論してしまった。優日くんは満足そうに笑って、スタンガンをおろした。明るいところと暗いところのちょうど中間で、空の目が伏せられる。その目にはうっすらと、透明な光が見えた気がした。
「違うんだよ、桜良。俺の方がずっと、役立たずな存在だったんだ」
―――いちばん大事に思ってた、母さんにとっても。
**********
思えば小さい頃から、父さんの家庭内暴力に遭っていた。働いた後の平日の夜に暴力に遭い、休日に酒が入ればそれが余計悪化する。「酒を買ってこい」だとか、「グズ」だとか「ノロマ」とか。幼い頃の記憶だけど、その耳をふさぎたくなるような怒声や投げつけられたガラス製品が割れる音は、鮮明に頭の中に残ってる。
それでも、周りから家庭内暴力に遭っていることに気づかれなかったのは、母さんのせい…いや、母さんのおかげだったのかもしれない。母さんは、その細い体で、俺を守ってくれた。いつも俺を抱きしめて、「大丈夫、大丈夫」とずっと言ってくれた。
だけど当然、母さんの傷は増えていった。割れたガラスで切ってしまってできた切り傷や、瓶で殴られてできたアザ。時にはアザで済まず、赤く腫れあがった時もあった。「大丈夫?」と聞いても、「大丈夫だよ」と笑顔で返してくれた。
幼かった俺は、それで本当に大丈夫だと思っていたんだから、笑えてしまうほどだ。
小学校中学年になるくらいには、少しずつ暴力は減っていった。代わりに、「ソイツ」は帰ってこなくなった。母さんが何も言わないから、俺も何も言わなかった。父さんがいなくなってから、母さんが明るくなった。嬉しかった。たくさん笑ったし、たくさんおいしいご飯を一緒に食べた。優しい、桜良という女の子と出会った。たくさん、本当にたくさん遊んだし、楽しかったし、幸せだった。
だけど中学生にあがる頃、母さんとはほとんど顔を合わせなくなった。学校から帰ってきたらご飯がラップをかけて置いてあって、夜に寝て朝起きれば、またご飯が置いてあった。最初は驚いたし、泣きながらご飯を食べていたけど、2年生になる頃には普通のことになっていた。でも、それも平日の5日間と土日のどちらかだけだった。絶対に週に1日は俺と過ごしてくれた。時には桜良も一緒に出掛けた。桜良も俺も、母さんも笑っていた…はずだった。
「母さん!桜良と一緒のクラスに……」
高校の入学式。いつも入っているコンビニの仕事の休みを、わざわざ取ってくれたらしい。喜ぶ俺に、「後で行くね」と母さんも笑顔で言ってくれたけど、それは嘘だった。家に帰ると、そこにはテーブル以外何もなかった。自分の部屋をのぞいたら、幸い、俺の荷物は全部残っていた。だけど、母さんの荷物は何もなかった。母さんがいつも使っていたドレッサーも、座り心地がよくて好きだと言っていたソファも、何もかも。
俺は飢えた動物のように息を荒くして部屋中を探し回った。どこかに隠れてるんじゃないか。もしかしたら、どこかに出かけてるだけなのかも。家具を全部、父さんがいた頃から変えてしまおうかと思って、全部業者に運んでもらったのかもしれない。そんな考えがいろいろ駆け巡ったけど、俺の机の引き出しの中に隠されていたあるものを見て、俺は言葉を失った。
『2月20日
今日も頑張って働いてきました。家に帰ってきたら、空がすやすや寝てた。可愛い。この子を守るために働いてるんだなって思う。でも……自分はどうなるの?このまま心の底から愛せる人一人もできずに生きていかなきゃいけないの?』
『3月3日
今日は、仲良しの桜良ちゃんとも一緒に遊べた。空の楽しそうな顔を見てたら、少しだけ心が和らいだ。いや、それよりもあの人から連絡がきたほうが嬉しかったかもしれない。「頑張ってますね」って言ってくれた。嬉しい。』
『3月15日
空が無事に高校に入学したらしい。よかった。たくさん頑張ってきたもんね。でもごめんね。お母さんは、疲れちゃったかもしれない。高校生に本当になっちゃったら、今よりどれくらい働かなきゃいけないの?あの人に会う時間も、もっと欲しいよ』
『3月30日
あの人が、家を用意してくれた。プロポーズしてくれた。私の考え全部話しても、肯定してくれた。「2人で生きていこう」って。やっと、私の存在を認めてくれる人ができた。もう、申し訳なささえ消えてる自分が怖い。ごめんね、空。』
パラリとページをめくると、『4月10日』と書かれた欄に、「ごめんね」という文字だけが書かれていた。今日の日にちだ。
膝から崩れ落ちて、しばらく何も考えられなかった。人間は、絶望したら何も考えられなくなるんだなと思った。気がついたら日付が変わっていて、カーテンすらない窓からまぶしい光が差し込んできた。俺の目線の先に落ちてきた、3枚の1万円札が、妙に輝いて見えた。
**********
「そこからは、頑張って生きてくことだけを考えてた。アルバイトで頑張って稼いで、あとは母さんが置いていってくれてた通帳からお金をおろして食いつないでた」
空の口から話された過去。
優日くんも私も、何も言えずに、ただ目を苦しそうに閉じる空を見ていた。その静寂を引き裂いたのは、空自身だった。
「俺さ…苦しかったんだ。いちばん守ってくれた母さんが急にいなくなって、でもそれを誰かに言ったところで、誰かが助けてくれるわけじゃない。自分を生かすことができるのは自分しかいない。生きる希望なんてない……そう思ってた。だけど唯一、桜良だけが生きる希望だったんだ」
「え……私?」
「うん。夜までバイト頑張って、朝学校に行ったら、桜良が笑顔で『おはよう』って言ってくれた。今考えればそれも、桜良自身は無理してたのかもしれない。…だけど、俺にとっては、それが生きる希望だったんだよ。どれだけ苦しくても、その笑顔見れるなら頑張ろうって思えたから」
空の顔を見ると、優しい笑顔をしていた。その目には透明な綺麗な膜が見えた。その膜は雫をつくって、空の頬を伝っていった。
「ふざっけんなよっ!!!」
急に叫んだ彼の方を見ると目を見開いて、私たちの方を睨んでいた。
「両思いだから幸せですってかぁ……。はははっ!喧嘩売ってんのか?お前ら、2人とも!」
「忘れるなよ、優日。俺は苦しい過去を乗り越えてここまで…」
「それは俺も同じなんだよっ!!」
「……?」
「俺だって、母さんが借金取りに殺されて、冷たくなった母さん、俺を売ろうとした母さんしかもう記憶にないんだよ……」
「え……そんなの……」
「そうだよなぁ?信じられないよなぁ?桜良ちゃん」
そう言って私に向けられた歪んだ笑顔に、思わず後ずさる。
「俺はそんな愛されることもなく、ただただただただ必死こいて生きてきたんだよ……!!なのになんだ、お前らはお互い愛する人がいて幸せですって、俺は一切愛されてきてないってのに……ふざっけんなよっ……」
「優日、落ち着け。俺とお前は似てるんだよ」
「…はぁ……?」
「俺たちはもう家族がいない。だけど、家族以外の誰かに、これから愛されることはできるだろ?今からでも、全く遅くない。俺にこんなこと言う資格なんてないかもしれない。だけどきっと、俺たちはっ……」
「黙れっ!!」
空の言葉は、優日くんの言葉によって遮られた。私も何か言いたかったけど、優日くんがいつの間にかスタンガンから持ち変えられていた「それ」を見て、思わず口をキュッと閉じた。それは真上にある街灯に照らされて、まぶしいくらい銀色に光っていた。
「空…お前だけは絶対に、許さない……!」
「優日…」と小さくつぶやく空の左頬に、雫が流れる。
優日くんが持つ綺麗で残酷な凶器が、空の方に向けられる。
だけどそれが、空に刺さることは、―――なかった。
「桜良っっ!!!」
体中に鋭い痛みと鈍い痛みが響いた後、大事な人の声がどこか遠くで聞こえた気がした。




