日本海の夜明け
深夜の金沢駅での緊迫した遭遇から数時間、個室寝台「日本海カルテット」の中は、列車の微かな揺れと規則的なジョイント音に包まれ、静かな時が流れていた。頭取は落ち着いた寝息を立て、御波も深い眠りについているようだったが、総裁は警戒を解かず、ときおり目を覚ましては、小さな窓の外の闇を凝視していた。
午前5時を過ぎた頃、車窓の外がゆっくりと明るくなり始めた。鉛色だった日本海の空が、次第にオレンジ色と藤色に染まり始める。列車は秋田県の海岸沿いを北上しており、窓の外には、荒々しい波が打ち寄せる日本海の雄大な風景が広がっていた。
「夜が明けましたな」
総裁は小さな声で呟き、カーテンをそっと開けた。朝焼けに照らされた日本海は、息をのむほど美しかった。
秋田駅到着の案内放送が流れ始める。
「おはようございます。今日は令和*年*月*日。時刻は5時10分を回ったところです。列車は時刻表どおりの運転をしております。あと20分ほどで秋田に到着します」
頭取と御波が、その放送で目を覚ました。
「秋田か……ずいぶん遠くまで来たわね」
「この景色を見ていると、東京での戦いが遠い昔のことのように感じられます」
御波が目をこすりながら言う。
三人は身支度を整え、弘前到着を待たずに、朝食をとるために食堂車へと向かうことにした。
「弘前でまた不審人物が乗り込んでくる可能性もある。その前に情報交換をしておきたいわ」
「さふであります」
再び訪れた食堂車は、夜の重厚な雰囲気から一転、明るい陽光が差し込み、爽やかな空気に満たされていた。テーブルには白いテーブルクロスが新しく敷かれ、車窓からは穏やかな日本海の風景が流れていた。
メニューは、洋食と和食のセットが用意されていた。
「朝食は和定食にしたわ。北国の食材が使われているんですって」
頭取がそう言って微笑む。総裁と御波も同じものを注文した。
運ばれてきたのは、鮭の塩焼き、だし巻き卵、味噌汁、そして炊きたてのご飯という、日本の寝台特急らしい定番の朝食だった。
「やっぱり、朝はこれですわね。すごく落ち着きます」
「うむ、日本人に生まれてよかったと思える、そして宿の朝餉はやたら旨いのだ」
三人は静かに食事を始める。
「東郷徹郎は、今回のTOBを通じて、北急の『情報』を手に入れようとしている。特に善さんのアカウントを使ってまでアクセスしようとしたデータ、それが鍵ね」
頭取が口火を切る。
「カオルくんのその後の調査では、善さんのアカウントは、北急の次世代の車両開発計画に関するデータにアクセスした形跡があるそうです」
「次世代車両……」
総裁の目が大きく見開かれた。
「北急がJR東日本と極秘で進めていた、時速400kmを超える超高速鉄道開発計画、あるいは完全自動運転技術に関するデータ。それが漏洩すれば、ライバル社はもちろん、国際的なファンドにとっては大きな武器になる」
頭取は冷静に分析する。
「まさか、その情報を手に入れるために、TOBを仕掛けてきたと?」
「ええ。TOBは目眩まし。やはり本命は情報よ。情報を手に入れた後、北急の株価を操作し、安く買い叩くか、あるいはその情報を他の鉄道会社やファンドに高値で売却する。それが東郷の真の狙いでしょう」
「そんな魂胆でこんなことを」
御波が箸を置いた。
「だからこそ、私たちは札幌で竹警部と合流し、東郷の悪しき企みを暴かなければならない。列車はもうすぐ青森県に入り、弘前を経て、津軽海峡線へと向かうわ。最後の難関は、函館から札幌への移動。そこまで、東郷の手の者が動きを仕掛けてくる可能性が高い」
総裁は、茶碗のご飯を口に頬張り、決意を新たにした。
「札幌にはカオルくんがいる。竹警部もいる。真相がそうならば、そこできっとこの旅の決着がつくのであります」
「だといいけれど」
頭取はそう軽く言った。
食堂車を後にし、三人は個室へと戻る。列車は既に青森県に入り、弘前駅へと向かって最後の加速を始めていた。




