61. ウォン
「よし…!」
翌々日の昼、今日は比較的挑戦者が多く訪れており、ホムラは嬉々としてその相手に勤しんでいた。アグニも今日はホムラと一緒に戦いを楽しんでいる。
その隙を見て、エレインはコッソリと魔石を取り出した。
「転移!75階層…!」
転移の光に身を包まれ、眩さにエレインは目を閉じる。再び目を開けると、密林の鬱蒼とした景色が眼前に広がっていた。
「き、来ちゃった…」
エレインは1人で上階層に足を踏み入れた緊張により、少し足が震える。帰還の魔法陣も用意した、魔石もポケットに入れているのですぐに取り出せる、いざという時はすぐに撤退する。エレインは、よしと気合を入れて森を歩き始めた。
「確か…こっちの方角に行ったはず…」
前回の目印は急拵えであったが、今日は前回と別の色のリボンを何本も用意しいた。エレインは小まめに枝に結びつつ、歩みを進める。
途中で川に落ちそうになったり、魔草の花粉を吸い込み激しくくしゃみをしたり、急に現れた崖から滑落しそうになったり、側から見たら危なっかしい足取りで狐の面の人物を探していた。
「うーん。やっぱり一人で進めるには無理があるよね…」
エレインは肩を落としつつ、盛り上がった木の根にそっと腰掛けてポケットから丁寧に畳んだ風呂敷を取り出した。
「あ、あのぉー…風呂敷返しに来ましたー…すみませーん…」
そして小さな声でブツブツと呟く。大声を出してサーベルモンキーや他の魔獣の注意を引くのはゴメンなので、それが限界であった。
「うぅ…この階層もかなり広そうだし…あの人を見つけるのは難しいのかな…」
エレインが肩を落としたその時。
「お前はまた…1人で何をしている」
「っ!」
頭上から声がして慌ててその方向を仰ぎ見た。エレインが腰掛ける木の枝に、探し求めた人物が佇んでいた。
「あっ、あの…!えっと…」
エレインは慌てて立ち上がるが、心の準備が整っておらず上手く言葉が紡げない。バッと風呂敷を握りしめて掲げると、狐の面の人物は軽やかな動きでエレインの前に降り立った。少しピリッとした空気を纏っている。警戒しているのだろうか。
「わざわざ返しに来たのか」
「は、はい…!その、先日は本当にありがとうございました!!アナタは私の命の恩人です…!」
エレインは勢いよく頭を下げてようやく礼を言うことが出来た。面の向こうで表情は読めないが、小さく息を呑む声が聞こえた気がして顔を上げると、狐の面からくぐもった吐息が漏れた。
「ふ、大袈裟なやつだ。それを言うために川に落ちそうになり、崖から転落しそうになりながらも、俺を探していたのか?」
「見てたの!?早く声かけてくださいよ!!」
エレインは自分の醜態を見られていたことに顔を赤くして抗議した。狐の面の人物は変な生き物を見るように首を傾けてエレインを見つめた。
「お前は随分と変わった人間だな。警戒していたのが馬鹿らしくなる」
「そ、そうですか?」
変わっているという自覚はないのだが、ダンジョンで生活している時点で相当変わっているのだろう。エレインは苦笑する。
狐の面の人物も、言葉通り警戒を解いたようで、身に纏っていたピリッとした空気が和らいだ。
「あ、そうだ。あの…お礼に、そんなに上手くないんですけど、パンを焼いてきたんです。良かったら一緒に食べませんか?」
エレインは何かお礼をしたいと思案した結果、アグニに教えてもらってパンを焼いた。初めてにしては上等な出来だとは思うが、果たして口に合うのか。リュックからパンの入った紙袋を取り出してそっと差し出す。
「パン、とは人間の食べ物か?」
狐の面の人物は不思議そうにエレインが差し出した紙袋に顔を寄せて匂いを嗅いでいる。どうやら初めて見るらしい。
「そうです!ジャムやバターを塗っても美味しいんですよ!」
エレインは目を輝かせて前のめりに訴える。狐の面の人物は顎に手を当てて少し思案すると、エレインに背を向けて歩き出した。
「着いてこい」
「!はい!」
エレインは慌てて狐の面の人物の後を追う。密林の中を進み、やがて少し開けた場所に出た。そこには他とは比べ物にならないほど巨大な大樹が聳え立っていた。
「うわぁ…すごい…」
エレインは圧倒されて思わず感嘆の声を漏らした。エレインが両手を回して何人必要なのだろうか。それほどまでに太く荘厳な佇まいの木だ。
「こっちだ」
狐の面の人物は、エレインに手を差し出した。エレインは相手から敵意や害意を感じなかったため、恐る恐るその手を取る。
大樹の根の近くに、人がなんとか通れるほどの樹洞があった。狐の面の人物は、慣れた動きでスルスルと中に入り込んで行くため、エレインも手を引かれながら身体を横にして隙間に滑り込む。リュックは背負ったままだとつかえるので、空いた手で持ち何とか樹洞を抜けた。
「ふわぁ…」
樹洞の中は、外からでは分からないほど広い空間があった。植物を重ねて作られたベッドのようなもの、麻らしき袋、土製の壺や木で作られた棚まである。壁には予備のものだろうか、2つ狐の面が掛けられている。ここは、恐らくこの者の居住空間であろう。
エレインはそんな場所に招かれたことに驚きつつ、辺りを見回した。
「ここなら安全だ。魔物避けの呪を施している。危険な獣は近寄らない」
狐の面の人物はそういうと、棚から、木を掘り出して作ったであろう木皿を2枚取り出した。エレインはそのうちの1枚を受け取った。
「そのパンとやらを食べよう」
「い、一緒に食べてくれるの…?」
エレインが驚いて問いかけると、狐の面の人物は少し気まずげに視線を逸らした。
「食べ方を知っている者と食べた方が間違いがないだろう?」
エレインは嬉しくなって急いでパンを取り出した。焼きたてを持ってくることは叶わなかったが、木の実を混ぜて焼いたパンはしっとりしていてきっと気に入ってもらえるはずだ。小瓶に入れた木苺のジャムも取り出す。
その間に、狐の面の人物は慣れた手つきで木板を重ねて簡易的なテーブルを作っていた。
エレインは差し出されたテーブルに皿を置くと、小さなナイフでパンを切り分けていく。小瓶も開けてスプーンを中に入れた。
「じ、じゃあ、いただきます」
「…いただこう」
「まずはパンだけで食べてみて?」
「ふむ」
エレインの言う通り、狐の面の人物は、素直にパンだけを小さく千切って面の隙間から口元へ運ぶ。
味を確かめるように咀嚼すると、
「…これはうまいな」
「ほんと!?」
美味だと言ってくれた。エレインは嬉しくて身を乗り出して目を輝かせる。狐の面の人物はパクパクと続け様にパンを口に運んでは味わっている。
「じゃ、じゃあ次はこのジャム使ってみて!」
「ん」
狐の面の人物は言われるがままにパンにジャムを塗り、面を汚さないように器用に口に運ぶ。
「…うまい」
「よかったー!」
気に入ってもらえたようで、エレインはホッと胸を撫で下ろした。少しは礼ができただろうか。
その時、エレインはふと大事なことを思い出した。
「あ、遅くなったけど、私の名前はエレイン。アナタは?」
自ら名乗り、名を尋ねると、画面越しにも目の前の人物が目を見開いたことが分かった。
「名か…久しく名乗っていないな。俺の名は、ウォン」
「ウォン…」
エレインはその名を噛み締めるように呼んだ。ウォンはスッと顔を横に向けたが、面から出た耳がほんのりと赤らんでいる。こんな深い密林に住んでいるのだ、余り人との関わりを持たずに暮らしているのだろう。
「それにしても、見ず知らずの人間から差し出された食べ物を口にするなど、俺はどうしてしまったんだ」
「え?…あ!」
そしてボソリと呟かれた言葉に、エレインはキョトンと首を傾げたが、とあることに思い当たって手で口を覆った。
(も、もしかして、変な食べ物とか…ど、毒とか…そういうの警戒されてた…?)
アワアワと今更ながら焦って両手を振るエレインを見て、ウォンはくっと喉を鳴らした。
「何だか、お前からは懐かしい気配を感じる…だからつい、油断してしまうのだろうな」
「え?なんだろ…」
エレインは少し考え込む。
(もしかして…ハイエルフの血のせい?)
エレインはもしやと思い、ウォンの耳を改めて確認する。が、その耳は当たり障りのないもので、ハイエルフのような尖ったものではなかった。
(うーん、まあいいか。ちょっとは仲良くなれた…よね?)
エレインは当初の目的であるお礼を完遂できたことに満足げだ。
その上、思った以上にウォンは親しみやすいと感じた。知らず知らずのうちに敬語が取れていることにエレインは気付いていない。
その後、2人はエレインが持ち込んだパンとジャムを綺麗に平らげた。
すっかり胃袋が膨らんだエレインは、ふぅ、満たされた顔をして息を吐いた。そしてウォンに向き合い、少し緊張しながら聞きたかったことを尋ねた。
「あの!また、ここに…来てもいい?」
ウォンもジッとエレインを見つめ、しばらくの間の後、
「……また、パンとやらを持ってくるといい」
そう言って気まずげに視線を逸らした。
エレインはパァッと顔を輝かせて激しく頷いた。
(嬉しい…!!ダンジョンで新しく友達が出来そうな予感…!)
エレインはふふふと頬を上気させながらそんなことを考える。
その後、エレインは許可を得て《転移門》に大樹の前を登録させてもらい、70階層へと帰還した。
見送りのために外に出たウォンは、エレインが去った後、吹き抜けた風に髪を靡かせながら僅かに枝葉の隙間から見える少し遠くの空を眺めていた。