恐怖! 呪いの美少女フィギュア
『呪いの美少女フィギュア 価格応相談』
汚い字でそう書かれたシールが、カラフルな箱に貼られていた。
「なんだこれ」
布施悟は何も考えずに箱を手に取った。
それが全ての始まりだったが、布施はそのことを知らない。
※
講義がなくてヒマな時間、あるいは講義をサボったヒマな時間、布施たちは春泥堂へ行く。
春泥堂は大学の近くにある妙にでかい古本屋だ。マンガでも小説でも専門書でも、ゲームでも古着でも家電でもなんでもある。本やマンガは立ち読みができるし、普通の店には置いていないような奇妙な商品がそこかしこに並んでいる。その気になれば丸一日でも過ごせるため、布施のような怠惰な大学生たちがいつも店中にたむろしている。
一階がゲームとCD、二階が古本、三階が家電や古着やアダルト関係やその他もろもろを扱っているのだが、この店にはふだんは入ることのできない四階が存在する。
「おい、今日は四階が開いとるぞ」
マンガを立ち読みしている布施のところに、友人の難波がやってきて言った。
「へえ、珍しい。行こう」
「なんかおもろいもんがあるかもな」
春泥堂の四階は骨董品や稀覯本などを扱っていて、数万円ないし数十万円もする高価な品が並んでいる。そのせいか、たまにしか立ち入ることができない。
布施と難波は四階へ続く階段を上った。いつもなら巨大な招き猫が通せんぼをしているのだが、この日は姿を消していた。
「なあ、今度の合コンに備えて全身脱毛を考えてるんやけど、どう思う?」
「どうかと思う」
四階に足を踏み入れると、隅に座った老婆がぎろりと布施たちをにらんだ。お前たちのような金のない学生が来る場所じゃない、と暗に語っているようだが、布施も難波も気づかないふりをして並んでいる品を物色する。
「なんでこんな汚い本が二万もするんや」
「二万で買う人がいるんじゃない?」
二人で古本や骨董品を眺めるうちに、布施が場に似つかわしくないカラフルな箱を見つけた。
「なんだこれ。呪いの美少女フィギュアだって」
「呪いのフィギュア? 呪いの人形とちゃうんか」
布施が手にした箱を二人で覗き込む。箱の一部が透明になっていて、その奥にかわいらしいフィギュアが踊るようなポーズをとっていた。
「呪ってるようには見えないけど」
「フィギュアやったら明石が詳しいんちゃうかな」
「呼んだ?」
タイミングよく階段を上がってきた友人の明石に美少女フィギュアを見せる。
「知らないキャラだけど、これはすごいね。属性てんこ盛りだ。猫耳に悪魔っぽいしっぽ、天使っぽい羽、オッドアイ。衣装は巫女とメイドとゴスロリの要素が入ってる」
「見せただけやのに勝手に分析始めるあたり、オタクの鑑やな」
「しかし、すごい造形だ。有名な人の作品だろうけど、見覚えないな。かといって古いものにも見えないし。っていうか、商品名が箱に書いてない! 正規の流通品じゃないっぽいね」
明石はぶつくさ言いながらフィギュアの箱を色んな方向から注意深く眺める。
「鑑定士みたい」
「せやな。絵面としてはスカートの中をのぞこうとしてるようにしか見えんけど」
「明石、興味あるなら買ったらどう?」
「興味はあるけど、好みじゃないかな。これを作った原型師の技術には深い敬意を覚えるけど、ぼくとは趣味が合わない」
明石は箱を布施に手渡してきた。布施はあらためて箱の中のフィギュアをのぞきこんだ。
「ふーん、フィギュアのことはわかんないけど、ぼくはかわいいと思うけどな、この娘」
その時、フィギュアの目が動き、
布施を見た。
「え」 思わず布施はのけぞった。
「どしたん?」
「いや、今このフィギュアがぼくを――」
しかし、目を戻すと、フィギュアはこちらを見ることなどなく、元通り正面を笑顔で見つめていた。
「あ、いや、なんでもない」
「まさか呪いにかかっちゃった?」
明石がからかうような声で言うが、布施は答えることができない。
「あんた、それ買うのかい?」
今まで黙っていた老婆が声をかけてきた。
「いや、その、金ないし、いいです」
布施はフィギュアの箱を元の場所にそっと戻した。
※
その日の夜、帰宅後に鞄を開けた布施は思わず声を上げた。
「なんだよ、これ」
例の美少女フィギュアの箱が入っていた。
難波や明石の仕業だろう。他にありえない。しかし、いつの間に買ったのだろう。それに、難波はギャンブル好きでいつも金に困っているし、明石も多趣味でよく金がないと嘆いている。春泥堂の四階に並ぶようなお高い品を買う余裕があるとは思えないのだが。
「ま、いっか」
考えるのをやめて、布施は箱を開けることにした。呪いの美少女フィギュアと書かれたメモはすぐに捨てる。布施は根っからの心霊現象否定派であり、呪いの類は一切信じていない。
箱から取り出したフィギュアを机の上に置くと、なんだか輝いて見えた。フィギュアを飾る趣味など持たない布施にも、これが特別な品だということがわかる。
「どこに置こうかな、これ」
布施は実家住みだ。両親に美少女フィギュアを見られると非常に気まずいし、何より高校生である妹の久美に見られたら何を言われるかわからない。
どうしたものか。
しかし、布施にはフィギュアの隠し場所を考えるよりも先に、やらねばならぬことがあった。
「まあ、これは儀式みたいなものだから。みんなやってるはずだから」
自分に言い訳しながら美少女フィギュアを手にし、ひっくり返す。そしてパンツを確認した。
「うわ、すご」
刺繍やシワまで再現してる。
最近のフィギュアはすごいなあ。技術が。技術がこう、すごい。
女性の下着を表現する技術に感心しながらすごいすごいと感嘆の声を上げていると、突然ドアが開いた。
「ねえお兄、このマンガの続きって――」
ノックもせずにやってきたのは妹の久美だった。久美と布施の目がばっちりと合う。
「ウ、ウワー!」布施は叫び声を上げる。
一方、久美は見てしまった。兄が美少女フィギュアのスカートの中をがっつり覗いているところを。ついでに、さっきまですごいすごいと言っていたのも聞こえていた。
「きっっっっっも!」
ばたん、と大きな音を立ててドアが閉められる。
その日の夕食の間、久美は兄と一言も口を利いてくれなかった。
※
翌日、布施は大学へと向かう電車の中で居眠りをしていた。本当は今日のテストに向けて勉強をするべきだし、教科書も開いてはいるのだが、眠気には逆らえない。
こっくりこっくりと頭を揺らしていると、額に何か固いものがぶつかった。
目を開けると、開いた教科書の上に美少女フィギュアが立って、こちらを見つめていた。
「ウ、ウワー!」布施は叫んだ。
その声は車両中に響き渡り、他の乗客たちは布施を見て眉をひそめた。真っ昼間から電車の中で美少女フィギュアを膝に乗せて鑑賞する人物は、一般的には不審者とされる。
「な、なんで。家に置いてきたはずなのに」
鞄の中にフィギュアを押し込める。
布施は呪いなど信じない。
しかし、何かがおかしいと感じ始めていた。
※
大学の講義室で明石と難波を見つけるなり、布施は美少女フィギュアについて問いただした。
「お前らだよな。アレをプレゼントしてくれたの」
「なんのこと?」
「テスト前に変なボケいらんねん。お前にプレゼントなんかするわけないやろ」
「え、でも昨日家に帰ったら、あのフィギュアが鞄の中に入ってたんだけど」
明石と難波は顔を見合わせた。
「布施、美少女フィギュアを買うのは別に恥ずかしいことじゃないんだよ?」
「そうやぞ。そんな変な嘘つかんでもバカになんて……、いや、まあ、バカにはするけども」
「え、本当にお前らが買ったんじゃないの?」
明石と難波はうなずく。どうやら本当らしい。
「じゃあ、なんで……」
布施の頭の中は疑問でいっぱいだったが、それ以上話はできなかった。教授が現れたからだ。布施たちは席についた。講義室が静かな緊張に包まれる。
テスト用紙が配られ、教授が腕時計を見ながら告げた。
「では、試験を開始する」
布施は伏せていたテスト用紙を表に返し、試験に取り組んだ。しかし、何ということだろう。さっぱりわからない。確かに講義中も教授が何を話しているのか常に理解できなかったのだが、まさか一問も解けないほどとは思わなかった。
布施が頭を抱えていると、ふと何者かの視線を感じた。
顔を上げると、机の上の美少女フィギュアと目が合った。
「ウ、ウワー!」
テスト中の突然の叫び声に、講義室がざわめく。
「ど、どうしたんだ君……、むむ、そのフィギュアはなんだね。試験中にふざけてるのか!」
「いや、これはその――」
布施は弁解しようとして、それが難しいことに気づく。何と言えばいいのか。
鞄の中のフィギュアが勝手に出てきました。不思議ですね。
ぼくのじゃありません。誰かがここに置いたんです。知らんけど。
これがないと不安で試験を受けられません。死んだ祖父の形見なんです。
ダメだ。どれもだいぶムリがある。
答えられない布施に教授は言った。
「なんか知らんが、カンニングとみなす!」
「なぜえ!」
「学籍番号と名前を言いなさい」
「228657番。難波太一です」
「おい、嘘つくなや!」
とっさに機転を利かせたが、それも難波に阻まれてしまい、布施は追試を受ける羽目になってしまった。
※
「とほほ」
「何がとほほやねん。人に罪着せようとしよってからに」
「ごめん。難波ならいいんじゃないかと思って」
「しばくぞ」
「けど、美少女フィギュアが机の上にいるからって、普通カンニング扱いする?」
「確かに、美少女フィギュアを見ることで有利になる試験はあまりないだろうね」
テストを終えた布施たちは春泥堂を訪れた。美少女フィギュアを店に返すためだ。
しかし、店主らしき老婆からは意外な言葉を返された。
「ダメだね」
「な、なんでですか。いや、万引きしたわけじゃないですよ。誰かのいたずらなのか、何らかの事故なのか知らないけど、勝手に鞄の中に入ってたんです」
「ああ、信じるよ。その娘はそういう代物だ」
「ええー、どゆこと?」
理解できない布施に、明石が耳打ちしてきた。
「呪いの美少女フィギュアってくらいだから、自分の意思があるんじゃないかな。そのフィギュアはきっと布施を選んだんだよ」
「はあ? 呪いなんてあるわけないだろ」
「じゃあフィギュアが鞄の中に入ってたこととか、テスト中に机の上にいたことはどう説明するんだよ」
「わからん! でも一番可能性が高いのは、ぼくがこのフィギュアに惹かれて無意識のうちに買って無意識のうちに持ち歩いて無意識のうちに机に置いたんだと思う」
「それだと布施はかなりの異常者だよ?」
「呪いなんてわけわからんものを信じるよりはマシだよ」
「滅茶苦茶言いよるな、こいつ」
あきれる難波と明石をよそに、店主は淡々と言った。
「お代は百円。とにかく、その娘はもうあんたのもんだ。返品は受け付けないよ」
「百円か。お得な気がする」布施は百円払った。
「いや買うんかい」
「いつものことだけど、何も考えてないね」
「正式にぼくのものになったことだし、この娘を秀子と名付けよう」
「和風だね」
「秀子って顔ちゃうやろこいつ。金髪やし」
「うるさい。これでぼくの無意識の暴走が収まるといいけど」
しかし、その後も不可解な現象が続いた。
学食で昼食をとっていると、箸の代わりに秀子を使っていたり、
「ウ、ウワー!」
「斬新だね。フィギュアの足を箸替わりにするとは」
「秀子米まみれやん。ちゃんと後で洗いや」
講義でグループ発表をしていると、レーザーポインターの代わりに秀子を使っていたり、
「ウ、ウワー!」
「すごいな。目からレーザーが出るんだ」
「もうなんでもありやんけ」
その日の夜、難波のアパートで飲むことになった。缶ビールで乾杯してすぐ、精神的に疲れ果てた布施はテーブルに突っ伏した。
「なんなんだよもう! ぼくの人生はおしまいだ」
「おおげさやなあ」
「そうだよ布施、確かに食堂では奇異の目で見られたし、一緒に講義を受けてた連中からはキツいタイプの美少女フィギュア愛好家と思われただろうけど、なんてことないさ」
「慰めになってない」
「ちなみに、女子はキモすぎるって言うとってたで」
「あああああ! 恥ずかしい!」
身もだえする布施に、明石が楽しそうな声で続ける。
「布施にも恥という感覚があったんだね。でも無理もないよ。彼女たちからしたら、百人以上が受けてる講義で発表するのに、わざわざ美少女フィギュアを改造したレーザーポインターを使って、しかもそのことをみんなに伝えるために発表の中盤で突如奇声を上げたんだから」
「もうやめて。追い打ちかけるのやめて」
「お前に変なあだ名ついてたで」
「やめて。聞きたくない」
「お人形の彼氏」
「あああああ!」
「うるさいで布施」
その時、明石のスマホがメッセージの着信音を鳴らした。スマホを手に取った明石が、ほっとしたような顔で言った。
「あ、週末の飲み会キャンセルだって」
「は? どゆことや。例の女子との合コンやろ」
少し前に明石がバイト先の女の子から誘われて、今週の土曜に三対三の飲み会がセッティングされていた。明石は中身はアレだが見た目はイケメンなので、女子側三人のうち誰かが明石狙いなのは明白だが、彼女がほしくてしょうがない難波はその飲み会にチャンスを見出していた。
「良かったね。明石は女性恐怖症だし」
「別に恐怖症じゃないよ。少し苦手なだけで」
「いや、なんもようないわ! なんでやねん。キャンセルってことは日を改めて、とかでもないってことやろ」
「だろうね」
「ほんまなんでやねん。え、オレがガツガツしてんのが見透かされたんか?」
「どうかな。確かにメンツは伝えてたけどね。相手三人とも同じ大学で同学年だし、難波のこと知ってても不思議じゃない」
「なんでか聞いて。頼む」
「うーん、いいけど」
気が乗らない様子で明石がスマホをいじる。
数秒後、またメッセージの着信音が鳴った。
「難波くんは正直苦手だけど、それが原因じゃない、だって」
「よっしゃ!」
「言うほどよっしゃか?」
またメッセージの着信音。
「原因はお人形の彼氏。マジこわい、だって」
「お前かあ!」
難波は布施にとびかかり、スリーパーホールドで首をぐいぐい絞め始めた。
「ウ、ウワー! 苦しい! やめて」
「オレはなあ、今度の合コンにオレの青春をかけてたんやぞ。どんな話題で盛り上がってどんな流れで連絡先交換して、どうやって次の二人きりの飲み会に誘うか、綿密にシミュレーションを重ねてたんや。何ならその先、付き合って結婚して、子供の名前をどうするかまで週末までに考えるつもりやった」
「会ったこともない相手なのに、よくやるね」
「それが、それが……、うう」
「え、難波もしかして泣いてるの?」
難波が男泣きしていると、布施が突然おなじみの叫び声を上げた。
「ウ、ウワー!」
「なんやねん。もう首は絞めてへんぞ」
布施は震える指先で、自分の足元を指さした。
難波と明石がそちらに目をやると、布施の鞄が半開きになり、例の美少女フィギュアが布施を見つめるかのように顔をのぞかせていた。明石と難波は溜息をついた。
「なんだ、ただの呪いの美少女フィギュアか」
「もうええねん。今更お前の美少女フィギュアが顔出したくらいで驚かんわ」
「ええ? なにそれ。一緒に驚いてよ」
「嫌やっちゅうねん。それよか今日は傷心のオレにつきあってくれや」
「まあ暇だし、別にいいけど」
「何するの?」
「とりあえず酒買い足しに行くぞ。そんで一晩中ゲームや」
※
ううん、とうなりながら難波は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。部屋は真っ暗だ。
なんだか嫌な夢を見たような気がした。下着が寝汗でぐっしょりと湿っている。
近くにあったスマホで時刻を確かめる。深夜三時。一時の時点では明石とゲームをしていた記憶があるから、まだほとんど眠れていない。
再び目を閉じようとしたその時、妙な物音がした。
かさかさ、かさかさかさ
難波は体を起こし、暗い部屋に目をこらした。布施と明石が寝ているらしいのはわかる。しかし二人は寝息をたてているだけだ。
(窓でも開いてんのか?)
電気をつけて物音の正体を確かめたい気持ちはあったが、面倒だという気持ちの方が勝っていた。再び横になり、目を閉じる。
かさ、かさかさ
やはり妙な物音が聞こえる。
(まさかゴキブリちゃうやろな)
以前この部屋でゴキブリが出た時のことを思い出し、難波は震えた。しかし、ゴキブリではないはずだ。奴らは音などたてない。
(気にせんでええ。こんなもん無視や)
きいぃ
この部屋の主である難波には、甲高いその音で何が起きているかわかった。
何者かがキッチンの棚を開けたのだ。
しゃらッ
包丁が引き抜かれた。
難波は飛び起きて音の方へと顔を向けた。闇の中では何も見えない。
かさかさ、
何かが動いている。
包丁を持った何かが。
というか多分、美少女フィギュアが。
「おい、嘘やろ」
こちらに近づいてくる小さな影が見えた。
「おいお前ら起きろ!」難波は叫んだ。
しかし布施も明石も反応しない。位置的には美少女フィギュアに一番近いのが布施だ。
かさ、かさかさ
包丁を持った小さな影はゆっくりと布施に近づいていく。なのに布施はのんきにいびきをかいている。
「ふ、布施ー!」難波は叫んだ。
小さな影は布施の体の上にそっと包丁を置いた。そして布施の体をよじよじと上り、あわあわと下り、包丁を回収した。そしてさらにこちらに向かって歩みを進めた。
つまり、布施をスルーした。
「え、嘘やろ?」
てっきり呪いの人形が自分たちを一人ずつ殺していくパターンかと思っていた難波は意表を突かれた。その一瞬のスキを縫うかのように、小さな影は着実にこちらに近づいてくる。次は明石だ。
「あ、明石ー!」難波はまたも叫んだ。
「うぅ、なんだよもう」明石が目をこすりながら上体を起こす。
「明石、逃げろ、早く!」
「え? なにが?」
不機嫌そうな声を出す明石の横を、小さな影はすたすたと通り過ぎる。
つまり、明石のこともスルーした。
「あ、いや、すまん明石。なんでもないわ」
「どういうこと?」
「布施の人形がまた動いとんねん。てっきりオレらを包丁で襲う気かと思ったわ」
「なんだよそれ」
「ホラー映画の見すぎやな」
ははは、と難波が笑っていると、小さな影が猛然と飛びかかってきた。
「おいなんでやねん!」
難波は確実な殺気に反応した。本能が体を突き動かす。
額に風を感じた。
ぱっと部屋が明るくなった。
「難波、どうした?」
明石が電気をつけたようだ。
明るさに目が慣れた難波は、自分の額のすぐ近くまで包丁が迫っているのを知った。もちろん包丁を握っているのは美少女フィギュアで、かなり強い力がこめられている。
「ヒ、ヒイー!」難波は叫んだ。
「すごい。真剣白刃取りなんて初めて見たよ」
「感心しとらんとはよ助けろや!」
「そうだね。失礼」
明石が美少女フィギュアを後ろからつかんで思い切り引っ張った。しかし、どういうわけか美少女フィギュアを難波から離すことができない。そうこうしている間にも、少しずつ包丁は難波の額に近づいていく。
「ウ、ウギャアアア!」
「難波、今までありがとう。最後に何か言いたいこととかある?」
「あきらめんなや!」
「うぅん、二人ともうるさいなあ。何してんの?」布施がようやく目覚めた。
「うっさいわボケ! 見たらわかるやろ」
「ええ?」
真剣白刃取りの体勢で震える難波。困った様子の明石。間に挟まれた美少女フィギュア。そして包丁。
「わっかんないな。何してんの」
「お前の人形が襲ってきたんや!」
「ああ、なるほど。秀子絡みの不思議なやつか」
「布施、ちょうど良かった。トイレ行きたいから替わって」
「いいよ」
「明石お前、こんな時にトイレて」
「すぐ戻るから」
明石と交代した布施が美少女フィギュアを必死で引っ張るが、やはりフィギュアはぴくりとも動かない。
「どういう現象なんだろ、これ。空中にいる秀子が張り付いたみたいに動かないなんて」
「どうでもええわ! お前こいつの持ち主やろ。なんとかせえや」
「そんなこと言われてもなあ。まあやるだけやってみるか。秀子、包丁から手を放して」
「お前な、そんなんで言うこと聞くやつやったら――」
秀子は包丁を手放した。秀子を引っ張っていた布施は秀子を抱えたまま尻もちをついた。
「ええー、言うこときくんかいな」
「そうみたいだね」
「これ見てもいまだにお前はあれか。こいつが呪いのフィギュアやって信じへんのか?」
「呪いは信じないよ。でも秀子がなんか不思議なのは間違いないね。ぼくが知らないだけでよくあることなのかもしれないけど」
「よくあってたまるか」
トイレの流れる音がして、明石が戻ってきた。
「お、無事みたいだね。良かった」
「誰かさんがおらん間に死なんでよかったわ」
難波の皮肉をスルーして、明石は手にしたスマホを軽く振った。
「それより、そのフィギュアの素性がわかったよ。昨日からフィギュア界隈の友人知人に聞きまくってたんだ」
※
難波が淹れたインスタントコーヒーを飲みながら、布施たち三人は秀子を囲んで話した。秀子はさきほど布施に包丁を放すよう言われてから、完全に動くのをやめていた。今は難波にとびかかった姿勢のままで床に転がっている。
「そのフィギュアを作った原型師の名前は日隈マリオ。フィギュア愛好家の間じゃまあまあ名の知られた人で、美少女を得意としてる。シルエットの美しさとポーズの躍動感、そして下着の作りこみに定評がある」
「確かにあのパンツはすごかった」
「めっちゃ気になるやん。でもパンツとか見たら殺されそうやしやめとこ」
「ちなみにぼくも日隈マリオ作品はいくつか所有してる。三つ、いや四つかな」
「それはどうでもええわ。それより、どういう経緯でこいつは呪いのフィギュアになったんや」
「日隈マリオは一昨年、イベントのためにオリジナルのフィギュアを作ったんだ。名前はガラテア。それがこのフィギュアの正体さ」
「イベントって何?」
「フィギュアの展示即売会のこと。コミケのフィギュア版ってとこかな。日隈マリオはそのイベントでこれまでの自分の仕事の集大成として、自分の性癖をすべて詰め込んだ理想の女性フィギュアを作ったんだ」
「それがこいつってわけやな。だから猫耳やらしっぽやら羽やらついてごちゃごちゃしとるわけか」
三人の目が秀子に注がれる。秀子はぴくりとも動かない。
「日隈マリオにとって、その時のイベントは特別だった。彼には結婚を約束した女性がいた。その人もまた美少女フィギュアの原型師で、しかも天才と呼ばれる、マリオよりも格上の人だった。マリオは結婚前の最後のイベントで、彼女に自分の力を見せつけたかったんだ。常に自分よりも上をいく愛する人に、対等な人間だと認めてもらいたかったんだ。悲しい男の性ってとこかな」
「なんか腹立つ言い方やな」
「で、どうなったの?」
「いや想像つくやろ」
「ダメだった。彼女は彼の作った究極の作品ガラテアをボロクソのコテンパンにこきおろした。日隈マリオはショックのあまり、イベントには参加しなかった。本来ならフィギュアってのは原型を元に複製品をたくさん作って売るものなんだけど、マリオはガラテアの原型を愛する人に批判されたショックから、複製を作ることすらしなかったという」
「じゃあ、秀子はこの世にたった一人ってことだね」
「そういうこと。そしてそのイベントの後、日隈マリオは行方をくらませたらしい。彼のアパートには、綺麗に彩色されたガラテアの原型だけが残されていたという」
「恋に破れた男の執念がしみついてるってわけだね」
「いや、恋に破れてへんやろ。彼女に褒められたかったのにうまくいかんくてスネとるだけやんけ。しょうもな。どこが呪いのフィギュアやねん」
難波があきれたような声で言うが、明石は無視して話を進める。
「ガラテアはその後、マリオの友人の手にわたった後、色々な人のところを転々として春泥堂に行きついたっぽいね。ちなみにガラテアを手にした人はみんな不幸に見舞われている」
「まさか殺された奴がおるとか?」
「いや、死人やけが人は一人も出てない。けど、オタクであることを隠してたのに職場や学校にガラテアが現れて、美少女フィギュア愛好家とバレてしまう不幸な人が続出したらしい」
「しょうもな……。心の底からどうでもええわ」
ため息をつく難波に対し、布施が大声を出す。
「なんてこと言うんだ難波! どうでもよくないよ。ぼくがこの二日間、どれほど苦しめられたことか。特に女の子から『うわっ』とか『きっつ』とか言われると本当泣きそうになるんだからな」
「それはキツそうやな」
明石もたしなめるように言った。
「そうだよ難波。美少女フィギュアを愛するものはみな繊細で傷つきやすいガラスのハートの持ち主なんだ。自分の秘めた趣味を他人に知られるのが、どれだけ苦痛で屈辱的か、君には想像つかないってのか」
「オープンオタのお前に言われてもぴんとこおへんけど。結局オレが殺されかけた謎は解けてへんやん」
「確かにそれは不思議だね。今までガラテアが人を傷つけようとした話はないようだけど」
「まあそれはええとして、おい布施、やっぱこのフィギュアはヤバいわ。お前もさっさと手放さんとアカンで」
「え、なんで?」
「さっきの見たやろ。オレは殺されかけたんやぞ! 過去の被害者はフィギュア好きがバレただけかもしれんけど、今度はわからん。殺されるかもしれんぞ」
「大丈夫だと思うけどな」
布施は床に転がっている秀子を手にとった。軽くて頼りない、女の子の形をした樹脂のかたまり。布施にはそうとしか感じられなかった。
確かに秀子のせいで布施は妹から軽蔑され、電車で乗り合わせた乗客たちから変人扱いされ、テストでカンニングをしたとみなされ、同級生の女の子たちから不名誉なあだ名をつけられはした。しかし、それでも布施は自分がかわいいと思い、初めて買った美少女フィギュアである秀子に愛着を抱きつつあった。
「おい明石、こいつをどうにかする方法はないんか」
「どうにかって?」
「春泥堂は返品を受け付けへんやろうし、別の店に売るとか他の誰かに売るしかないやろ。お前なら伝手があるんちゃうか」
「まあ、なくもないけど、とりあえず寝ない? 今四時だし、もうひと眠りしようよ」
明石が大きなあくびをする。
「それもそうやな。おい布施、そいつがまたオレを襲わんようにヒモかなんかで縛っとけよ」
「えー、気が進まないな。でもしょうがないか。ごめんね秀子」
布施はそのへんに落ちていたコンビニ袋をヒモ状にして秀子を縛った。三人は眠りについた。
※
「あ、はい。さっき連絡したガラテアのことなんですけど、大丈夫ですか? そうですか。こっちは、はい、特に問題ないです」
何事もなく夜が明けて、時刻は九時。明石が誰かと電話で話をしている。通話を終えた明石は、親指を立てて見せた。
「大丈夫だって。ガラテアを引き取ってくれるってさ」
「相手は誰なの?」
「ガラテアの生みの親。日隈マリオさんだよ」
「「は?」」布施と難波は声をそろえた。
「なんでやねん。日隈マリオは行方不明とちゃうんか」
「っていうか、明石はマリオさんと知り合いなの?」
「知り合いだよ。行方不明だったのは一昨年のイベントの後一週間だけ。実家に帰って犬と遊んで英気を養った後はちゃんと復活してるし」
「なんやそれ。一週間で帰ったら行方不明とちゃうやろ」
「その方が話が盛り上がると思って」
「しばくぞ」
「マリオさんは秀子のことを悪く思ってないの? その、婚約者と結婚できなくなったわけだし」
「大丈夫だと思うよ。そもそも、マリオさんと彼女さんは予定どおり結婚してるしね」
「なんやそれ!」
「夫婦仲も円満らしいよ。一回ケンカの原因になったとはいえ、マリオさんからしたらかわいい娘だから、きっとかわいがってくれるよ」
「そっか。秀子のためにも、お父さんのところに返した方がいいのかな」
しかし、いざ秀子を返そうとダンボール詰めしようとすると、秀子が抵抗した。
「なんやねんこいつ!」
「両手両足を広げてダンボールに入らないようにするとは。なかなかの駄々っ子ぶりだね」
「秀子、やめるんだ。お父さんのところに帰れるんだよ」
布施が話しかけても、秀子はまるで抵抗をやめない。秀子はどうやってもダンボールから逃れてしまう。
「どういうことやねん。ってか動きすぎやろ」
「もう非可動フィギュアのフリをする気もなさそうだね」
「おい持ち主、なんとかせえや」
「秀子教えて。おうちに帰りたくないの?」
秀子はダンボールから逃れつつ、布施の顔を見つめながら、こくりとうなずいた。
「おお、意思疎通できたよ」
「ファーストコンタクトってやつやな」
「日隈マリオさん、つまり君のお父さんが嫌いなの?」
ふるふると秀子は首を横に振る。
「君の悪口を言った、マリオさんの奥さんが嫌いなの?」
ふるふる。
「じゃあなんで、帰りたくないの?」
秀子は布施の顔をじっと見つめたまま、何も言わない。
「布施、彼女はしゃべれないんだからイエスかノーで答えられる質問にしないと」
「マリオさんの家に行きたくないの?」
こくりと秀子はうなずく。
「布施、情にほだされたらアカンぞ。そいつはオレを殺そうとしたんやからな」
「難波を殺そうとしたの?」
こくり。
「難波が嫌いなの?」
こくり。
「こっわ」
「なんで? 難波は君にひどいことした?」
ふるふる。首を振った後、秀子は色々なポーズをした。最後に布施を指さした。
「もしかして昨日の夜、難波がぼくの首をしめたから、難波を殺そうとしたの?」
こくり。
「あれはふざけてただけだから、難波はぼくを本当に殺そうとしたわけじゃないんだよ。難波はぼくの友達なんだ。わりとクズだけど」
「もうちょい言い方あるやろ」
布施の言葉を受けて、秀子はしばらく首をかしげた後、こくりとうなずいた。
「なんで大学についてきたの?」
秀子はまた布施を指さした。
「ひょっとして、ぼくと一緒にいたかったの?」
こくり。
「だから家に置いてかれるのが嫌で、鞄の中に忍びこんできたの?」
こくり。
「鞄からよく勝手に出てきたのも―」
こくり。
「そうか。君はずっと寂しかったんだね」
秀子は首を傾げた。
けれど、なぜか布施にはわかるような気がした。
創造主であるマリオに捨てられ、色々な人のもとを転々としながら、自分の居場所を見つけられずにいた彼女の孤独が。
「なんでぼくなの? ぼくが君をかわいいって言ったから?」
秀子は首を縦にも横にも振らず、じっと無機質な目で布施を見つめている。
秀子は何も言わない。
布施は決めた。
「君をマリオさんちに送るのはやめるよ。これからも一緒にいよう」
秀子はこくりとうなずいた。
布施には秀子が微笑んでいるように見えた。
「いい話だなあ」 明石がハンカチで目じりを拭う。
「ちょっと待てや! 人を殺そうとした人形を野放しにできるわけ、あ痛っ! 何すんねんこのボケ! お前なんか燃えるゴミの日に捨て――、あいたたたた! ごめんギブ! すんません調子乗りました。すんません謝るから許して! 髪抜かんといて!」
最終的に、難波が秀子に土下座をすることでことはおさまった。
※
一週間後の朝、布施は大学に行くための支度をしていた。しかし、いつもなら勝手に鞄の中に入っているはずの秀子の姿が見当たらない。
「あれ、どこ行ったんだろ。おーい秀子やーい」
声をかけても現れない。昨日までなら、どこにいても布施が呼べばすぐに子犬のように駆け寄ってきたというのに。
まさかぼくのそばにいるのがイヤになって、どこか他の場所へ旅立ってしまったのだろうか。
そう思った矢先、壁ごしに悲鳴が聞こえてきた。
「ウ、ウワー!」 妹の久美の声だ。
少しして、息を切らしたパジャマ姿の久美が布施の部屋に飛び込んできた。
「ちょっとお兄! 私の部屋に気持ち悪い人形置かないでよ」 久美の手には秀子が握られている。
「ぼくは何もしてないよ」
「そんなわけないでしょ! さっき目を覚ましたらこいつがすぐ目の前にいたの! 私の顔を覗き込むみたいに! お父さんやお母さんがこんなイタズラするわけないし」
秀子はどこにも行っていなかった。それどころか、布施だけでなくその家族にも興味を持ち始めたようだ。
きっと秀子は久美のことも好きになるだろう。父さんや母さんのことも。
そのうち誰も、秀子のことを呪いの美少女フィギュアなんて呼ばなくなる。
うれしくなって、布施は笑みを浮かべた。
一方、久美はブチ切れている。
「なに笑ってんだ!」(了)