忘れられないぬくもり
神坂沙耶香という女医に会ったのは冬のある日の深夜だった。私はアルコール依存症でいったん飲みだすと酔いつぶれるまで酒をとめることができない。だからしばしば路上で倒れることがある。その日は数日前に日雇いの仕事が終わってからは行く当てもなく、ウイスキーのボトル一本空にしたところでいつものごとくブラックアウトし、体が動かなくなって路上で凍えていた。眠っていたところを通りかかった女性に声をかけられ、目が覚めた。
「具合が悪いのですか?」と、その女性は心配そうな様子で私の顔を覗き込んできた。
「ええ、まあ、そんなところです。」私は少しろれつの回らない口調で答えた。
「こんなところで寝ていては危ないですよ。」
「そう思いますが、残念なことにもはや体がほとんど動きません。」
「お酒臭いですね。」
「アル中ですからね。」私は自嘲気味に笑ってみせた。
「あきれた人!」かがむように覗き込んでいた姿勢をぐっと伸ばして、その女性は腰に手を当てた。ベージュ色の地味な感じのコートを着ていた。倒れこんでいる私の目の前に彼女のロングブーツがあった。顔を上げるとスカートを覗き込んでしまうかもしれないので、私は目をつむった。
「言っておきますけどね、人の病院の前で倒れないでくれるかしら。あたしはここの医者なの、立場上放ってもおけないから、急患で診てあげてもいいけど、どうする?酔っ払いさん。」
私は酔った頭で少し考えた。何しろホームレスの身分なので、治療を施してもらっても代金を払うことができない。持ち合わせのお金がないことを女医さんに告げた。
「もう!お金のことは後でもいいから。命のほうが大事でしょ。自分で歩けるかしら。お酒臭いから手を貸すのはいやよ。」
のろのろと身を起こしてみたが、座った状態になるまでぜえぜえと息が切れる。
「実のところここで命を落とすのは多少不本意な気がします。お言葉に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか。」少し頭がはっきりしてきたので周りを見回すと、病院と思しき建物がほんの二、三メートルのところにたっている。立ち上がることができないので四つんばいになって先を行く女医さんのあとをついていった。
小さな病院で、入院設備のないクリニックとかいうところらしかった。まだ建って間もないらしく、新築特有のセメントのようなにおいがした。診察室の硬いベットに横になると、その女医さんがどこからか点滴の薬を用意して、手際よく私の右腕に針を刺した。時刻は夜中なので、診察室の蛍光灯以外はすべて電気は消えている。待合室など、周りは真っ暗である。
「そんなになるまでお酒を飲んだらだめでしょう!」彼女は丸い椅子に腰掛けて説教を始めた。そういう女医さんは年のころは三十代中ごろであろうか、感じのよい印象である。ちょっと色が黒くて健康的な顔色だった。そばかすがあるところなどは可愛らしくもある。何か、茶目っ気というような気配もかもしだしている。肩の後ろまである髪はあまりつやがない。忙しいので手間隙かけてなどいられないのかもしれない。
「面目ございません。」と、点滴を受けながら一応は謝ってみた。
「あなたね、最低よ。最悪のタイミング。」
「それはまたどうして?」
「ここね、あさって開院予定なの。よりによって酔っ払いのあなたが最初の患者よ。」
「ご迷惑おかけします。」
「それでね、ここ、レディースクリニックなのよ。男のあなたは来ちゃいけないの。」
「そりゃまたえらいことをしてしまいました。」
女医さんは何か意外なものでも見るように私を眺めていたが、くすりと笑った。
「ご家族の方に連絡して迎えに来てもらうわ。連絡先を教えて。」
「わたくし、最近ホームレスになりまして、身寄りというものもありません。」
女医さんはびっくりしたようである。近年私の身に起こった仕事を失ったことなどをごくかいつまんで彼女に説明した。
私はあまり労働意欲の湧かない人間である。若いころは人生に夢らしきものを持っていたが、或る時からそんなものを投げ捨ててしまった。理由は、苦しいからである。夢を持って幸せをつかもうとすると、当然のことながら苦しみも味わう。そういう苦しさを紛らわすために私はアルコールに頼るようになった。それは、十三歳くらいからである。中学生くらいから私は飲酒を始めた。最初に飲んだときからボトルに入ったジンをラッパ飲みした。喉が焼けるような感じがしたが、「我慢して」飲み干した。はじめは少なかった酒量もみるみる多くなって、高校生くらいには酒なしで眠ることはできなかったし、酒が切れるといらいらした。それでも何か幸せになりたい気持ちはあったように思うが、酔っ払っていてはたいしたことはできない。大学は卒業したが、その後の仕事は長く続かなかった。苦しいから酒に頼り、体はぼろぼろになっていった。或る時「もう沢山だ!」と思った。「幸せになんぞなってやるもんか!」不思議なことにそんな考えをするようになると、苦しさから開放された。しかしその代償として、生きる喜びや、充実感というものも味わうことはできなくなった。ただ漫然と日々を送るのみである。
こういうことが私の背景にあるのだが、女医さんには話さなかった。話す必要もない。
「仕事がないわけね?」と、彼女は尋ねた。
「今のところは。」と、私。
しばらく彼女は思案しているようだったが、こう、切り出した。
「受付なんて、やってみたいと思う?」
「学生のころ病院の受付のバイトをしたことがあります。簡単な仕事ならできるかもしれませんが、どうしてそんなことを?」
「タイミングの悪いことって続くものね。実はね、医療事務の人を雇ったんだけど、今になって急に断ってきたの。いわゆるドタキャンよ。」
「はあ、理由は?」
「一身上の理由とかで、勝手なものよ。」
「そうですね、ずいぶんと勝手ですね。私に言える資格はないでしょうけど。」
「代わりの人を探しているんだけど、見つかるまで受付でもしてくれないかしら。」
「いいんですか、私みたいないい加減な人間で。」
「言っとくけど、お酒飲んだら即ほっぽり出すわよ。」
「肝に銘じておきます。」
そうして私は「神坂レディースクリニック」の受付のバイトをすることになった。私の何かが院長先生のお気に召したようである。院内の受付のカウンターの内側には「当直室」というのがあって、そこが当面の私の住家となった。いわゆる居候に近い。持ち物は鞄一つしかなかった。風呂はないが、近くに銭湯があったので見苦しくない程度の体裁は保つことができた。流しと、小さいガスコンロがあったので、夜に煮物くらいは作ることができた。家賃というものを院長は要求しなかった。
職員は神坂院長のほかに女性の看護師さんが三人いてカルテの整理などは彼女たちがやった。私は患者さんから代金を受け取ったり、閉院した後そこいらを掃除するなどの雑用係りである。経理のような仕事は院長がするより適当な人がいなかった。しかし開院したばかりなのでまだ患者は少ない。そんな仕事もできる余裕は何とかあったようである。
私はバイト料という形でお金を受け取らなかった。私はお金というものがどうしても好きになれない。ああいうものに一生懸命になると人間が腐ってしまうような気がするのである。お金は嫌いだ。院長はびっくりした。
「お金がなくてどうするの!ちゃんとした事務の人が見つかったらあなたはクビよ。ここを出たらまたホームレスじゃない。まじめに働いて、ちゃんと生活しなきゃ。」
「まじめに働くのはかまわないのですが、ちゃんと生活することには興味ありません。」
「あきれた人!どうするつもり?」
私は神坂院長に次のような提案をした。
閉院した後、カウンターに豚の貯金箱を置く。百円ショップで買ってきたものである。その貯金箱に二千円だけ入れてほしい。一週間近くはそれで食糧を買ったり銭湯に行くだけのことはできる。貯金箱にお金が入ったらその貯金箱はなおしてしまう。お金がなくなったらまたカウンターの上に貯金箱を出しておく。とにかく、私は必要以上にお金を持ちたくはないのである。
「それって、めんどくさくない?月ごとにバイト料あげるからそれで何とかしなさいよ。」
「折り入ってのお願いです。どうか聞き入れてほしいのです。」
そういう、「へんてこ」な私に彼女は興味を持ったようである。私の生い立ちなどを聞きだすようになった。あまり話したくなかったので、適当に、嘘の無いようには答えておいた。
私はKという名前である。そういうことにしておこう。生い立ちはどうでもいい。年は当時三十五歳。いい年をして根無し草である。
神坂院長は三十七歳。私より少しお姉さまである。医者の家系とのことで、少し前までは彼女の父親の病院で勤務医をしていたが、あまり親子の仲がうまく行かなかったようである。だから独立して今のクリニックを作ったとのこと。私と違って立派なものである。婦人科が専門であるが、それを専攻した理由は、彼女は女性同性愛者、レズビアンだからということらしい。
こういう立ち入ったことが分かったのも、私はそこに勤務して結局何年も居座ってしまったからである。
最初は私はKさん、と呼ばれていた。それがいつの間にかKちゃんに変わってしまった。私も「神坂院長」と呼んでいたのが、「神坂さん」、「沙耶香さん」と変わってゆき、最後は「沙耶香ちゃん」になってしまった。沙耶香ちゃんは恋愛対象が男ではないので、私とは距離のある友達のような関係になった。私は彼女の私生活を覗き見するようなことはしたくなかった。大体興味がない。私の知ったことではないのである。クリニックは三階建てになっていて一階に診察室と処置室、待合室と受付がある。二階は薬品庫だとか検査室などがあるが、私はあまり行くことはない。夜間に火元確認のために巡回する程度である。院内のどの扉も開けられるマスターキーを預かっている。三階は院長の自宅になっているが、呼ばれたこともないし、行く用事もない。後に一度だけ行くことになったのであるが、それまでは三階には行ったことはなかった。彼女は一人暮らしだった。
仕事が終わると彼女は大抵私の座っているカウンターへやって来て話しかけてきた。白衣のポケットに両手を突っ込むのが癖で、それはそれでサマになっていた。話の内容はさまざまである。ただ、私にはどれも興味がないので、いつも生返事しかしなかった。私から彼女に声をかけるのはお金の相談と、酒を飲むのを許してほしいということくらいだった。
「あのですね、沙耶香ちゃん。実は欲しい物があるのですが。」
「お金なら昨日の夜、貯金箱に入れておいたわよ。」
「はい、頂きました。それでは足りないので折り入って相談したいのです。」
「ふうん。Kちゃんにも欲しい物があるの?あんまり高くないんだったら買ってあげてもいいかも。」
「代数学のテキストです。」
「は?」
「代数学のテキストが五千円ほどいたしますので、何とかならないものかと。」
「それって数学の本?」
「はい。」
「Kちゃんて数学やってたの?」
「学生時代、実は数学を勉強していました。」
「そう。意外ね。でも、Kちゃんってどことなく知的な感じしてたよ。世捨て人みたいで、哲学者っぽいことも言うし。」
「お褒めいただき光栄です。」
「で?どんな本?」
奥の部屋には彼女から借りているノートパソコンがある。沙耶香ちゃんに部屋に入ってもらってパソコンに写っている「代数幾何学」という本を彼女に見せた。インターネット書店で見つけたのもである。
「いいわよ。買ってあげる。」
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません。」
「馬鹿ね!」
私は代引き扱いでその本を購入した。しばらくはその本で暇がつぶせる。
クリニックは日曜と祝祭日が休診である。だから、月曜日の休日があると連休になる。そういう時には無性に飲みたくなるのである。酒を飲んだらほっぽり出すということだったが、随分なれなれしくなって飲ませて欲しいと頼んだものである。
「駄目よ。」
「そこをなんとか。女神様のお情けで。」
「お世辞言ってもだめ。飲んだら体悪くするだけよ。」
「承知の上です。」
「体こわしても治療なんてしてあげないんだから。ここはレディースクリニックよ。」
「よく存じております。」
「もう!」
彼女は困ったような顔をしていたが、やがてため息をついて言った。
「しょうのない人ね。いいわ、私も付き合うわ。」
「別に付き合わなくてもいいでしょう。あなたは家に帰って休めばよろしい。」
「じゃあ、飲ませてあげない。」
「わかりました。どうぞお付き合い願います。」
外で飲むのは好きではない。騒がしいのは嫌いである。沙耶香ちゃんから一万円札をもらって近くのスーパーに買いに行った。一万円札に触れるのは久しぶりだ。早く使って無くしてしまいたい。私はウイスキーを飲む。少ない量で酔えるのが好都合である。沙耶香ちゃんはおそらく酒はあまり好まないのだろう。おしゃれをしてどこかへ出かけても、酔って帰ってきたのは見たことがない。ウイスキーと彼女のために少しお高いワインを買ってみた。ロゼあたりが女性には人気らしいからそれにした。帰ってきてからおつりを彼女に返そうとした。
「あげるわよ。それくらい。」
「私が『金嫌い』なのは知ってるでしょう。持っていたくないんです。」
「おかしなひと。」
受付のカウンターに二人で並んで座ってから一つ問題があることに気がついた。私の持っているコップの類は湯のみ茶碗一つしかない。彼女にはそれを使ってもらう以外ない。私はウイスキーをラッパのみだからグラスなど要らない。
「すみません。これしかなくて。」と、湯飲みを彼女に渡そうとした。
「いやよ、そんなのでワイン飲むの。雰囲気悪すぎ。上からグラスもって来るわ。」そう言って彼女は席を立った。
「いい?あたしが戻ってくるまで飲んじゃだめよ。」
「かしこまりました。」
やがて彼女はワイングラスと、ロックグラスを持って降りてきた。白衣は着たままだった。仕事が終わっても、院内では私服は着ない主義なのかもしれない。
「クリスタルグラスですね。高級品のようです。さすがは院長。」
「もらい物よ。家じゃお酒飲まないから使ったことないわ。」
私はロックグラスを渡された。
「ラッパ飲みなんて品のないことやめなさいよ。」
「アル中らしくていいじゃないですか。」
「だめ。」
グラスにウイスキーを注いだ。グラスで酒を飲むなどもう十年以上やったことがない。
二人で乾杯をして飲み始めた。私はちびちび酒を飲むような芸当はもうできない。ウォッカだろうがアブサンだろうが一息に飲んでしまう。そんな私を見て院長が横目で睨むように言った。
「しーらない。」
「いいんですよ。」
私はしゃべるのが好きでない。世間話などやりたくはない。しかし酒が入るとかなり饒舌になってしまう。彼女はあまりワインを飲まなかった。グラスに注いだものがなかなか減ってゆかない。だからそんなに酔ってもいなかったはずだが、私のめちゃくちゃな人生体験など、冗談を織り交ぜて話していると、ケラケラとよく笑った。
きっとそれなりに楽しかったのだろうと思う。連休の時は飲むのをけっこう許してくれた。ただ、私は飲む量が半端ではないので、翌日のダメージが回復するのに休日は丸々つぶれた。もっとも、休みだからといってどこかへ出かけようとも思わなかった。
クリニックの受付が住家なので一晩中そこにいる。だから医院に入ってくる人物は必ず私の目に留まる。あるとき、夜の九時過ぎくらいだったろうか、私は夕刊を読んでいたが、急患入り口から一人の女性が入ってきた。急患入り口は私が起きている間、鍵はかけていない。若い、まだ二十歳くらいの女性だったが、ドキッとするようなミニスカートに踵の高いサンダルのようなものを履いている。トロピカルな花柄の袖のないシャツは胸元が大胆に切れ込んでいる。露出している腕と足はすらりとしていて、妙になまめかしい。栗色の髪をリボンのようなものでポニーテールのように束ねている。そして大変な美人である。その女性が私の前でまごまごしている。私はしばらくあっけに取られていたが、思い出したように声をかけた。
「急患ですか?」
「いえ、あの、神坂先生に会いに来たのですが。」
「ああ、院長のお客さんですか。その、奥のほうにエレベーターがあります。三階が院長の自宅になってますから。たぶんインターホンか何かあると思うので行ってみてください。」
「どうも。」
その女性は軽く会釈のようなものをして、かつかつとヒールの音をさせて奥のエレベーターへ歩いていった。後ろから見るとなおいっそうなまめかしい。沙耶香ちゃんに恋人がいるという話は聞いたことがなかったが、ひょっとすると今の娘さんがそうなるのかもしれない。しかし私には関係ない。人の私生活を覗き見するのは悪趣味である。私は読みかけの新聞の続きを読みだした。
寝る前に院内を巡回するのが仕事の一つである。一階と二階を懐中電灯を持って見回った。特に異常はない。だから私は寝る。部屋に布団を敷いて寝ることはあまりやらない。冬の寒いときはそうするが、暖かい時期は椅子に座ったままカウンターに突っ伏して寝ることが多い。酒がないとよく眠れない。だから沙耶香ちゃんにお願いして睡眠薬を処方してもらっている。それでも時々目が覚める。そうかといってストレスが溜まるものでもない。眠れなければ寝ないだけの話。
眠っている私の前を人が通る気配で目が覚めた。うっすらと目を開けると例のセクシーギャルである。急患入り口のところでドアを開けようとしたが、鍵がかかっていているのでそれはできない。初めて見たときからあまり好きになれない女だったけれど、私でなければ鍵を開けることができない。仕方がないのでそちらへ向かった。私のことに気づいたようだがなぜか顔を背ける。私とて関わりたくはないのである。
無言で鍵を開けて、ついでにドアも開けて彼女が出て行くまでおさえていた。鼻をつく香水のにおいがする。出て行くときその娘はぺこりと首だけ動かすお辞儀をした。鍵をかけてカウンターに戻った。待合室の時計を見ると夜中の三時半を回っていた。目が冴えてしまったので開院時間まで本を読んで時間をつぶした。
朝になって院長と職員との打ち合わせがあったが、沙耶香ちゃんに変わったところは見られなかった。いつもと変わらずてきぱきと仕事をしている。
土曜日は午前中で診療が終わる。三時くらいにはほかの看護師さんたちも帰って院内には私と沙耶香ちゃんしかいなくなる。カウンターでその日来た患者さんの名簿などを整理していると、白衣のポケットに手を突っ込んだ沙耶香ちゃんがカウンターに腰掛けてきた。私の目線のすぐ先に彼女のお尻がある。
「そこは腰掛けるところじゃありませんよ。」名簿を見たまま話しかけた。
「いいじゃない。あたしの病院よ。」
彼女も私を見ていなかった。何か遠くの方をぼんやりと眺めている感じである。
「誰の病院だろうが、カウンターに座るのはよくありません。」
「あのね」と沙耶香ちゃんは話し始めた。
「失恋したのよ。」
「知ったこっちゃありません。」
彼女はくすっと照れたような笑いを浮かべて体を少しだけ折り曲げた。
「あのさ、もっとほかに言いようはないの?」
「何ですか?慰めてくれとでも言いたいんですか?あなたがどこで恋愛しようが、どこで失恋しようが、私には関係ないことです。第一私は失恋はおろか、恋愛すらしたことがありません。慰める言葉など何にも思い浮かびません。」
「え!?」と彼女はびっくりしたようである。
「恋愛したことがない?」
「ありません。」
「嘘でしょう?」
私は少し考えた。確かに一度も恋したことがないのではない。一度だけある女の子を好きになったことはある。
「うーん。一回だけありますよ。」
「聞かせてよ。」
「つまらん話です。およしなさい。」
「なに?話したくないの?俺の心の傷に触れるなってやつ?」彼女はカウンターに座ったまま私に覆いかぶさるように身を乗り出してきた。顔がニヤけている。
「心の傷は関係ありません。つまらない話だから話したくないだけです。」
「話せ。」
「いやです。」
「ほっぽり出すよ!」
この言葉は今となっては殺し文句である。私にとって、この場所は居心地のいいものになってしまっていた。
「小学生の時にですね」私はいやいやながら初恋の話を始めた。
「そんな古いの?」
「大きなお世話です。」
「それで?」
「同じクラスの女の子を好きになったんですよ。」
「ふんふん。どんな子?」
「忘れました。」
「つまんないじゃん!」
「だから言ったじゃないですか、つまらないと。」
「はいはい。それで?」
「それでって、これで話は終わりです。」
沙耶香ちゃんは何か言いたそうにしていたようだが、言葉が出なかったらしい。吃音の人のように首を小刻みに動かして、まるで鳩のようである。
「終わりってことないでしょう!」ようやく言葉が出てきたようだった。
「告白とかしなかったの?」
「しませんでした。」
「意気地がないわねー!」
「ありません。」
「その後は何にもなし?」
「なーんにもありません。」
彼女はふうっと溜息をついた。
「そのあと恋をしなかったっていうの?」
「しませんでした。」
「信じられない。そんなことできるの?」
「強く心に思うか、合理的な理由があれば可能です。」
「でたわね。闇の哲学者!」沙耶香ちゃんは獲物を狙う猫のように身をかがませて私を見た。顔は笑っている。
「合理的な理由って?」
「恋愛をすることの意味の考えたんです。」
「何それ?」
「私にとって恋愛はどういう意味を為すか、です。」
「答えになってないよ。」
「はい。答えを探して、探して、探して・・・」
「ふむふむ。探して、それで?」
「わからなかった。」
「君、頭おかしいんじゃない?」
「とにかく恋愛なんて、少なくとも私にとっては意味がない。」
「そんな歌詞の歌があったような・・・」
「意味がないものは必要ない。」
「チンプンカンプン。」
「もう、いいでしょう。」
「そうね、あたしもなんか疲れてきちゃった。」
ここから先は話したくなかった。酒びたりの毎日が始まったからである。そんなことは沙耶香ちゃんが知らなくてもいい。彼女の失恋の話はそれっきりすることもなかった。そもそも、失恋ごときで自分の道を見失うようなヤワな女でないことくらい私も知っているつもりである。いつもてきぱきと仕事をこなして、よく働く。私など、ただただ恐れ入るばかりである。
沙耶香ちゃんはおてんばなところがある。そして彼女の一番良くない所は夜間に内線電話をかけてくることであった。これはいたずら電話以外の何物でもない。私は話をするのも嫌いなので電話というものは最も厭うべき存在である。お金以上に電話が嫌いである。
当初、内線電話が鳴り出しても私は容易なことでは受話器をとらなかった。しかし電話が鳴り止むことは絶対にない。ろくでもない電話なのはそのあと何度か経験して分かった。デートに来ていく服は何がいいとか、そんなこと私に聞かれても答えようがない。だいたい彼女がどんな服を持っているかなど私は知るはずもない。だから電話を取りたくはない。あるとき根競べで取らずにいたら、百回鳴ってもまだ鳴り止まない。そうなると受話器を取ったほうがまだましである。
「何ですか!」その時は夜の十時過ぎだったと思う。
「あのさー、メビウスの帯ってあるよね。」
百回以上ベルを鳴らしたことなどどこ吹く風である。ただ、意外な内容なので少し驚いた。
「ありますね。」
「その、メビウスの帯の真ん中を切ると二つに分かれないで、大きな輪っかになっちゃうよね。」
「なりますね。」
「なんで?」
やっぱりくだらないことには変わりなさそうである。大きな輪っかになる理由を電話で説明するのは億劫だったが、できないことはない。下に降りて来て直接聞けばよさそうなものであるが、いたずらが目的なのでどうしようもない。
「うーん。まず、メビウスの帯を作る前の状態を考えます。一本の普通の帯です。」
「うん。考えた。」
「あとでこの帯の両端をひねってくっつけるのですが、便宜上両端を『頭』と『尻尾』と呼びましょう。」
「ふむふむ。」
「メビウスの帯にする前にあらかじめ切る所に線を引いておきます。真ん中ですね。」
「ほいほい。引いた。」
「線を引くとその帯は二つの部分に分けられますね。」
「うん。なるなる。」
「いま『頭』の方の左側をA、右側をBと名づけます。」
「え?左?『頭』に左とか右とかないよ。」
「ああ、もしかして帯を横に見てらっしゃる。立ててください。」
「あ、わかった。AとBね。」
「『尻尾』の方も同様に左から順にCとDと名づけます。」
「名づけましたよー。」
「あとでねじって頭と尻尾をくっつけるのでAがDにくっついてBがCにくっつきます。」
「えっえっ?何。ちょっと待って。」
しばらく考えているらしかったが、分かったようである。
「うんうん、意味分かる。」
「あとで切るのを、先にもう切ってしまいます。帯が二つに分かれますね。」
「うん。」
「ここでAとD、BとCをくっつけると二つの帯を一本の長い帯につなげてるじゃないですか。だから大きな輪っかができるのです。」
「おおおおおおお!」
電話の向こうでえらく感動したようである。
「Kちゃん頭いいねー。」
「頭のよしあしは関係ありません。ちゃんと説明すれば小学生でも理解できます。」
「ふーん。それで、ついでだけどさー。」
「まだあるんですか?もう勘弁してください!」
「しょうがないわね。じゃあ、今日のところはこれくらいで勘弁しといてあげるわ。また明日ね。」
「はい。おやすみなさい。」
こんなことが毎日あるわけではないが、ほとほと疲れる。だから内線電話があった日の夜は何もする気がおきなくなって、とっとと寝てしまう。
沙耶香ちゃんは私を困らせるのに快感を覚えるのかもしれなかった。私はしゃべるのが好きでない。とりわけ自分のことは話したくない。だからそういうことを話題にしたがるようであった。
「Kちゃんて、何で生きてるの?」
或る時、診療が終わった後、いつものように白衣のポケットに手を突っ込んでカウンターまでやってきた。一番嫌なことを聞いてくる。
「藪からぼうですね。どうだっていいでしょう。」
私はむっとして書類を片付けていた。彼女の顔は見ない。
「死ぬほどお酒飲んでさ、お金が嫌い、恋愛はしない、数学が好き。そんな人ほかにいないよ。」
「別に、普通じゃないですか。」
彼女はぷっと吹き出した。
「理由もなく生きてるの?そんなはずないでしょう。」
どうやら今日の彼女は簡単には引き下がらないようである。ニコニコしているが、なんとなく迫力がある。そして私には生きている理由というものがある。ただ、偉そうにして言いたくない。言いたくない過去とも関係している。黙っていると彼女が口を開いた。
「教えてよ。」
「ひとことだけ」私は諦めて話すことにした。少しだけ話して許してもらうつもりだった。
「ひとことだけ話します。」
「おっ!もしかしてこれは例の・・・」
「私が生きている理由は、生きることが『宇宙の法則』だからです。」
「でた!今日は闇の物理学者!」
「これ以上は勘弁してください。言いたくありません。」
「冗談でしょ?分かるわけないじゃん!」
「わからなくてもいいです。生きている理由なんて分からずに年をとって死んでく人なんていっぱいいます。」
「そんなことはいいから。さあさあ、続きを。」
私はむっつりと黙っていた。
22歳のとき私は自殺を試みた。死にたい理由がいっぱいあって、生きたい理由が一つもなかった。薬品を飲んで、内蔵があちこち猛烈な炎症をおこしていたそうである。意識を無くして病院に担ぎ込まれた。数日間意識は無かったが、集中治療室のベッドの上で意識が戻った。そばにいた医者に「馬鹿やろう」と怒鳴りつけられた。意識が戻っても、そのお医者さんは助かるかどうか分からなかったそうである。そのとき私は助かりたいとも思わなかった。たいした命でもないと思っていた。死んで灰になったらそれでいいと思っていた。墓に入るなど嫌でたまらない。私はこの世に生きたという痕跡を何一つ残したくない。灰になって、土に返って、それで、もういい。自分の体は今まで生きて、奪い続けたものからできている。それを帰すのは自然の摂理だと思った。自分の体を構成しているものは、水とか炭素が多い。
じゃあ、例えば炭素はそもそもどこからやって来た?
太陽からは軽い元素しか生成されないと聞いたような気がする。水素とか、ヘリウムとかだろうか。重い元素ができるためには太陽の活動程度ではエネルギーが足りないそうである。恒星同士が衝突するとか、銀河系同士が高速で衝突するとか、猛烈に高い温度がないと金属などはできないとか聞いた。宇宙で、今の物質が揃うまで、大体150億年くらいかかっている。私のようなどうでもいい命ができるまで、それだけの時間があったのだと思うと、自ら命を絶つことは『宇宙の法則』に反すると思った。幸せになるだとか、ならないとか、そんなことはどうでもいい。私ごときでも、まず生きなければ『宇宙の法則』が成り立たない。死後の世界など信じはしないが、幸せだとかいう難しいことは、寿命が尽きて、死んでからゆっくり考えてもいい。
これが私の生きる理由である。実にチャチな理由だ。こういったことを偉そうに沙耶香ちゃんに言えるような身分ではない。
私が頑として口を開かないので、結局彼女は降参したようである。
「Kちゃんて、大事なことはいつも教えてくれないんだもん。つまんない。」
「別にいいでしょう。誰にだって、知られたくないことくらいありますよ。」
「そうね。」と、彼女は何か納得してくれたようであった。
沙耶香ちゃんはとぼとぼとエレベーターのほうへ歩いて行った。今日は彼女に勝った。こういう事例も作っておかないと、必ずいつでも負かされてしまう気がする。
そんなことから結構時間も経った。一年以上経っていたと思う。私はよく沙耶香ちゃんにからかわれ続けた。そのくらいのことはされったっていい。大して気にもならない。彼女はいつもはつらつとしていて、元気があった。私は、そう思っていた。
そしてその日が来た。
秋になって、夜に外で、虫が鳴いていた。昼間はまだ何かと暑かったが、夜はもう、窓を開ければクーラーも要らないくらいになっていた。私は色んな虫の声がたくさん聞こえるのが好きである。感傷的になるとか言う人もいるけれど、私には、小さな虫たちが生きて子孫を残そうと、闘志を燃やしているように感じられるのである。受付の明かり以外は消えてしまって、もう誰もいない。三階に沙耶香ちゃんがいるくらいである。十時くらいまで本を読んでいたが、遅くまで起きていて病院の電気を消費するのは、申し訳ない気がする。居候は控えめに生きなければならない。だからそのくらいの時間に、その日は寝た。最近は睡眠薬も要らなくなった。酒を飲む回数も減ったと思う。
内線電話のベルの音で目が覚めた。待合室の時計を見てみると、午前一時を過ぎていた。かつてはそのくらいの時間に沙耶香ちゃんがいたずら電話をかけることは時々あったが、近頃では珍しい。明日というかその日は休日なので、朝が来ても仕事はない。からかわれてもいい。不快な電話の音を聞かされるよりはましな気がする。私は電話に出た。
「こんな夜中に何事ですか。一時過ぎてますよ。」
「Kちゃん。ごめんね。」
今まで、一度として沙耶香ちゃんが私に何か謝ったということはなかったと思う。彼女のほうに非がある、と思うようなことでも、私は沙耶香ちゃんに謝れとか言ったことはない。私は面倒なことは嫌いである。誰が悪かろうが、私が謝って済むのなら、私は謝ってしまう。そのせいか、彼女と衝突したような記憶もない。
「Kちゃん。ごめんね。」彼女は同じ言葉を繰り返した。
「いきなり謝られても、意味がわかりませんよ。どうしました。」
「あたし、もうだめ。」
様子がおかしい。泣いているようである。そして、声に力がない。私は不吉な予感がした。
「どうしました!」
電話の向こうで、もう一度ごめんね、小さい声がした。そしてそれからはこちらの呼びかけには応えてこなかった。
私ははだしのまま当直室から飛び出した。カウンターの下に吊るしてあるマスターキーを引っつかむと、猛然とエレベーターめがけて走った。
エレベーターは三階に止まっていた。ただこのエレベーターは病人への配慮からかなんだか知らないが、やたらとのろまにできている。階段を駆け上がったほうが数段早い。
三階まで駆け上がった、息が切れる。初めて来た。殺風景な廊下が、がらんと広がっていて、ドアが一つ見える。病院のドアとは違う、アパートの玄関ドアのようである。取っ手をつかんで開けようとしたが鍵がかかっていた。マスターキーを鍵穴に差し込んで回すと、ありがたいことに鍵が開いた。
部屋の中は真っ暗である。人の家では勝手が分からないが、電灯のスイッチを示す小さいオレンジ色の明かりが幾つか見える。ガスの臭いなどしなかった。私は片っ端からスイッチを入れていった。急いではいたが、案外冷静だったと思う。玄関から入ると短い廊下が続いていた。私は沙耶香ちゃんの名前を叫びながら彼女の姿を探した。
リビングルームに彼女は倒れていた。ガラステーブルがあって、白っぽいソファーがあった。テーブルの上に注射器が転がっている。ソファーの前の沙耶香ちゃんのところへ飛んでいって抱き起こそうとした。しかし、彼女は弱々しい両手で私を押しのけようとした。顔から血の気が引いて、もともと色黒だったのが黒ずんでさえ見える。唇は紫色になっていた。抵抗するような彼女の手を制して、私は左腕を沙耶香ちゃんの後ろに回して抱き起こした。その時、生まれて初めて、女性の体に触った。女の体というものはこれほどまでに柔らかいのかと、そんな状況でも、どきりとした。恋愛経験のない私は、セックスや口づけはおろか、女性の手を握ったこともない。子供のときの運動会のフォークダンスなど、ボイコットである。理由は、「愛してもいない女の手なんぞ握っていられるか」である。愛する女性は一人だけでいい。たった一人の女の体だけ知っていればいい。そんな化石じみた考えを、四十年間も持ち続けていた。この病院に居候して五年近くになっていた。
沙耶香ちゃんはかすれたような声で訴えた、「来て欲しくなかった。」
「だったら」と私は怒ったような調子で話しかけた。
「あんな電話をしなければよかった。」
彼女は小刻みに震えだした。苦しいらしい。
「今、救急車を呼びます。」そう言って、いったん彼女を床に寝かせようとした。
しかし彼女は私の手をつかんで引きとめようとした。力はあまり入らないようだった。
「やめて。もう、無理。」
私は声を荒げた。沙耶香ちゃんに向かって声を荒げたのも初めてである。
「無理とか!道理とか!そんなことは!知らない!」
電話はテーブルの上にあった。それを使ってさっき内線電話をかけてきたのだろう。119番を押して救急隊に連絡を取った。患者の名前とか、住所とか、何かそんなことを聞かれた。場所はすぐ分かるだろう。私は患者が、何かの薬を自分の腕に注射して、自殺を図ったようだと伝えた。受話器を置いて沙耶香ちゃんをもう一度抱き起こした。さっきよりも様態が悪化しているように見える。
「沙耶香ちゃん。お願いがあります。」私は必死になって彼女に話しかけた。
「あなたを助けたいんです。何か方法はないんですか?」
彼女はかぶりを振った。めそめそと泣いて、私と目線を合わせようとしない。
「お願いです!どうしてもあなたを助けたい!」
「何でそんなことするの?」喘ぎながら彼女は言った。
私は怒鳴りつけたい気持ちになったが、息を飲み込んで心を落ち着かせた。
「ここであなたを死なせてしまうのは、『宇宙の法則』に反するからです。」
その時、沙耶香ちゃんは私を見た。馬鹿にするなとでも言いたげで、睨みつけているようでもあった。血の気のうせた顔で、目だけが血走っていた。
私はゆっくりと、真剣になって沙耶香ちゃんに語りかけた。
「以前あなたに話しました。私が生きる理由は『宇宙の法則』だと。絶対に、あなたをからかっているのでも、ふざけているのでもありません。『神坂沙耶香は生きねばならぬ』、このことと、私が生きる理由は同じものです。同じ『宇宙の法則』です。『神坂沙耶香は生きねばならぬ』というのは、私の願望でもないのです。宇宙全体に行き亘る、無機質な、不変の法則です。だから生きなくちゃならんのです。」
沙耶香ちゃんはわあわあと声を上げて泣き出した。泣いている理由は私には分からない。私の言ったことを分かってくれたかどうかもわからない。
「Kちゃん」と彼女は喘ぎ喘ぎ言った。
「なんです?」
「抱いて」
私はぎょっとした。今でも彼女を抱きかかえている。これ以上どうしろというのか。私は恐る恐る、柔らかい彼女の体を両手で包み込むように抱いてやった。
「もっと!」
私はやけくそになって、力任せに彼女を抱きしめた。あごの下に彼女の頭があったが、あごを使ってその頭を私の胸に押し付けた。
そんなことをしていると、沙耶香ちゃんは咳き込むようにゲエゲエ吐き出した。彼女の様子を見てみると血を吐いている。そして嘔吐物からは何かの薬品の嫌な臭いがした。私が以前自殺用に使ったものとは違う。あれはこんな変な臭いはしなかった。私の頭がずきずきするほどである。
何かを注射した上に、薬品まで飲み込んだようである。ただならぬ死への執念に駆り立てたものが何だったのか、私には見当がつかなかった。沙耶香ちゃんの顔を覗き込むと、呼吸が止まっている。脈を確かめると、心臓も停止していた。この病院にはAEDがある。あるのは知っているが、私は使い方を習わなかった。取りに行ってまごまごしているよりは今すぐ心臓マッサージをしたほうがいいと思った。自動車学校のビデオで習った程度の知識しかないが、仕方がない。嫌な臭いのする嘔吐物から沙耶香ちゃんを引き離した。仰向けに寝かせ、彼女の顔を横に向けて気道を確保した。ちゃんとできているかどうかなんて知らない。しないよりはましだと思った。彼女の胸の中央に手のひらを押し付けて体重をかけて心臓マッサージを開始した。胸を押すたびに、彼女の口から血が流れて出てくる。心肺蘇生法では、心臓マッサージと人工呼吸をしなければならない。沙耶香ちゃんの唇が、薬品くさくて血まみれなのは構わない。ただ、彼女の唇に、私の唇を重ねるのは彼女に対する冒涜のような気がして、胸を押し続けながらどうしようかと迷っていると、電話が鳴った。こんなときに出ていられるかと思ったけれど、救急隊からかかってきた可能性がある。電話に出ると案の定救急隊からだった。玄関の鍵を開けてくれないと中に入れないとのことだった。心臓マッサージを中止して、部屋を飛び出し、階段を飛び降りるように降りていった。のろまなエレベーターのボタンを押して三階にあったものを一階に来るようにして、玄関に走った。
あとは、救急隊を三階まで案内した。私の役目は終わった。
もう、できることはなかったけれど、救急病院まで彼女に付き添って、神坂沙耶香の死亡を確認した。沙耶香ちゃんは死んでしまった。
悲しいという気持ちは湧いてこなかった。ただ、悔しかった。
警察の事情徴収も受けた。遺書のようなものもなかったらしく、誰に聞いても自殺の理由が分からなかったので、私による殺人の疑いもあったらしい。しかし程なく、自殺ということで、片がついた。
私は神坂沙耶香の親戚でもないので、自殺に使われた薬が何だったかとか、そんなことも聞かされなかった。聞いたところで、仕方がない。彼女の父親に、物々しい雰囲気の神坂レディースクリニックで会ったが、娘を失った父親に、かけてやる言葉なんか、私は知らない。院長が自殺をした病院など続けられるはずもなく、やがて建物は壊されて、その場所は駐車場になった。
結局、自殺の理由をはじめとして、私は神坂沙耶香について何にも知らなかったようである。あの時垣間見た彼女の死への執念から察すると、誰も知らないところで、孤独に、必死にもがいていたのではないかと思う。そんなことも私は分からなかった。私の方だって、彼女には、教えなかったことの方がはるかに多い。
時々、最後に見たあの苦しそうな神坂沙耶香の顔を想いだすことがある。想いだすたび嫌な気持ちになるが、私は嫌なことは忘れることができる便利な性格をしている。はじめははっきりと覚えていた彼女の顔も、時が経つにつれぼんやりとしてきた。
ただ、あの時抱きしめた、彼女の柔らかいぬくもりが、私の体に染み付いていて、何年経っても、忘れ去ることができないでいる。