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剣先を見ても白は驚かなかった。『匂い』が張の接近を物語っていた。だが、逃げようとしても無理だと思ったのだ。立ち上がって歩けるようになっても、走れるようになったわけではなかった。爪先の傷は、なぜか出血が止まっていた。固まり始めた血が、傷口を何とかつなぎとめているようだ。それでも爪先に力が入らないし、常に疼き続ける痛みで滑らかな動作ができない。
倒れていた石垣の内側にいても、張からは逃れられないだろうとわかった。
それでも立ち上がったのは、消えた碧天の最後の声が耳に残っていたからだ。「行け」、と。声を聴いたと思っているが、それ以上に遠ざかっていく碧天の唇の動きが記憶に残っている。
適切な指示かどうか、もう白にはわからない。体の麻痺は回復してきたが、思考のほうは停止してしまったようだ。
昨日から、恐ろしいことの連続だった。
蘇順に刺されたこと、玄を害されたこと、湖沼に突き落とされたこと。あまり人と接することを好まず、蘇順にも嫌われている自覚はあったが、殺したいほど憎まれているとは思っていなかった。少なくとも蘇順に対して故意に害をなしたことはない。だから大丈夫だと、蘇順も意地悪だった子供の頃よりも成長していると、考えて言い聞かせていた。
石虎についてもそうだ。あれほど明るい顔をして、甘い『匂い』を漂わせていて、それでもやったことは碧天たちを拉致した。蘇順にも白にも好意をほのめかしておいて、それも騙すつもりで行ったことだった。
舌を切られた阿珠、ここから逃れるために暴力に訴えることを選んだ碧天。二人を悪人とは思わないが、恐ろしいことには違いなかった。
不平不満はあっても、それまでの白の生活は、穏やかで安らかなものだったのだ。
これまでの人生からは考えられないことの連続で、白の内部を支えていた何かが、一つずつへし折られていくような心地がしていた。
碧天が消えたとき、その最後の一つが折れた気がする。
碧天はある意味恐ろしい。けれど、少なくとも全くのとばっちりで拉致に巻き込まれ、それもただ顔見知りになった白の身を案じたからだった。危険なことに巻き込まれたのに、嫌な顔をせず、自分の知識や力を使って、3人を助けようとした。昨日からの危機の中で、唯一頼れる者として、白の中で支えになっていたのかもしれない。
その碧天が消えて、また剣先を突き付けられている。
もう、怖がったり驚いたりする余地が残っていないようだ。足を動かすたびに痛みが脳天まで突き抜ける。そのせいもあって、余計なことは考えられないのだ。
火傷でただれた男の顔をちらりと見る。男の『匂い』は案外澄んでいた。碧天がいなくなった現象に驚いて、純粋に面白がっている。火傷以外にも骨折や打撲があるらしく、痛みやそれに伴う不快感はあるが、白たちに対して憎しみや恨みは抱いていなかった。
抱いていたとしても、もうどうでもよかった。
蘇順に憎まれていることは堪えたし、石虎に欺かれたことには傷ついた。でも、さすがにこの男にはどう思われようと知ったことではない。白は、ただ、邪魔をする剣先を右手で握って、自分の進路から取り除こうとした。




