予定された危険
しかし、もうそういうことを言っていられる段階ではない。こんなことなら白や蘇順に「黒の院」の説明をしておくのだった。今更だ。今、蘇順だけでも説明をした方がよかったかもしれないが、何の予備知識もない人間にいきなり話して理解してもらえるわけがない。
盛容は昨日のうちに、碧天を探し始めているだろう。この辺境に赴いてから、碧天は自分の行動予定をかなり細かく公開していた。その変わりように盛容は驚くか喜ぶかすると思っていたのだが、散々怪しんだかと思うと、最近ようやく「これが当たり前なんだ」とうなずくようになった。
碧天が予定の時刻に戻らなかった時点で、誰かを派遣して村の中を探させたはずだ。村はそれほど広くないし、村外との境界も明確なので、調べ尽くすのは容易い。
団徳にいないとなると、村外を探さねばならないが、これは格段に難しくなる。地元の人間でも手掛かりがないと無理だろう。辺境はあまりにも広すぎる。白が落とされた湖沼への道には目印を作っておいたが、石虎たちに連行されたその後は、隙を見て墨を流したり簪を落としたりはしたものの、十分とはいかなかった。
狼煙ははいい目印になるから、今はこちらに向かっているはずだ。どれほど時間がかかるかは、狼煙を見た所在地によるから、この数分のうちに動く事態の収拾には間に合うまい。
碧天も何が起こるかを知っているわけではない。「黒の院」の性質、何のための建造物か、という理解がいまいち足りていないせいだ。だが、なんの防御機構もない、ということはないだろう。
眼前を行く男は、小走りに石垣を目指して進んでいる。白を右肩に載せ、その両足を両手で抑え込んでいる。姿勢が前傾にならず、足元に気を使ってぎくしゃくした動きになっているせいで、ちょっと踊っているように見える。祭りの時に、笑いを誘う役目の道化に似た動きだ。
張の速度は速くはない。すぐに追いつく。それがわかっていても、こちらをちらちらと窺う様子を見る限り、どこか余裕がある。奴は知っている。石垣を越えたら何かがある。
半ば笑っているような息遣いが、間近に迫ってきた。右手で剣の柄を握り、左手を伸ばす。張の焦げて千切れた頭髪の先がざくりと指をかすめたとき、張は勢いよく白の体を前へ押し出す。
張の上着を掴み、そのまま引き寄せてから、体を回すようにして右足で蹴り上げる。手加減はしない。斬りつけなかったのは、一応生かしておいたほうがいいかも、という計算だ。だが、動きは封じたい。蹴ったのは右側で火傷したほうではないが、そこは配慮したわけではない。家の壁目掛けて蹴った結果、火傷をした箇所が壁に打ち付けられたのだから。
石垣の内側に投げ捨てられた白は、声もなく地面に倒れた。捩れた糸くずのような、絡まった足の先からゆっくりと血の染みがにじんでくる。
石垣の外で、碧天は足を止めた。何が起こるのか、一瞬、辺りを見回さずにはいられなかった。
家の傍に崩れ落ちた張が、ひきつった笑い声をあげるのを遠くに聞きながら、碧天は石垣の向こうに跳び込んだ。白の手足から力が失われているのに気づいたのだ。出血もしているのだから、危険があってもそのままにしておくことはできなかった。




