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「黒の院」

 (ハク)は乱れた足取りでとぼとぼと歩いていた。牛を連れ戻さないのなら、使える牛は一頭だけだ。歩ける距離ではあるし、迷わなければ、今日中に団徳にたどり着けるだろう。どうしても牛に乗せたいのは阿珠だけだ。一頭いれば何とか帰れるだろう。

 そう考えたのは(ハク)も蘇順も同じだった。ただ、蘇順は二頭の牛を失うことに納得せず、(ハク)が追いかけないのなら、自分が行こうと歩き出そうとしたところで、「私が行く」と声がかかった。

 碧天は阿珠を牛の背に横向きに座らせていた。この向きで牛の背に乗ると、均衡を取るのが難しい。誰かが後ろに跨って、阿珠を支える必要がある。その役は碧天がやる予定にしていたが、蘇順に自分が戻ってくるまで阿珠を支えているように頼んだ。

 「牛を連れ戻さないのは、何か理由があるんだろう」碧天は立ち止まっている(ハク)を見ながら蘇順の肩に触れた。「もし何が起こったら、逃げて。自分一人でも」耳元で囁かれた声は、低かった。

 「そんなまずい事態?」蘇順は周囲を見回して返す。確かに自分たちを監禁していた連中が戻ってこないとは限らない。暴力を行使し慣れている連中だ。自分たちでは太刀打ちできない。

 「逃げたほうが生存率上がるんだよ。空見て」碧天は目線だけを上に向ける。蘇順は空を見上げてみる。意外なほどいい天気だ。初雪は降ったので、いつまた雪雲が現われるかはわからない。冬になれば天気はどんどん変わっていくが、この空なら二時間は持つだろう。それに降ってきても積もるまでにはならない。蘇順と(ハク)なら団徳に帰りつける可能性が高い。

 「この天気で、あなたなら、帰れるはずだ。帰って伝えて。少なくとも(ハク)さんのためには団徳の村長は動くだろ。私の隊商も」碧天は狼煙を横目で見る。「こっちにむかっているかもしれない」狼煙に気づいてくれれば、蘇順が帰りつかなくとも、隊商の人員は派遣されてくるだろう。

 「わかった。逃げたほうがいいと思ったら、そうする。それまではここで待つ。それでいい?」「よろしく」碧天は頷き、(ハク)に向かって走り出した。


 (ハク)は張の肩に担がれていた。頭が働かず、されるがままだったが、落とすまいと張が左足に指を食い込ませた強さに、はっとした。両足をばたつかせようとするが、力を入れようとした途端、傷ついた爪先から、痛みが稲妻のように走った。「動くなよ、爪先が千切れるぞ?」笑いを含んだ声が叫んだ。

 碧天は無言でただ走った。誰何する段階はとうに過ぎている。張の目論見は見当がつく気がした。石垣の向こうに何があるのか、碧天はわかっていたからだ。

 碧天が辺境に赴いたのにはいくつかの目的があった。そのうちの一つが、この「黒の院」をみつけることではあった。個人的な優先順位としてはあまり高くないのが本音だったので、適当に隊商の面々に捜索活動を振っていたのだが、まさかこんな経緯で見つけるとは思っていなかった。

 下手に触るといろいろ厄介そうだったので、ここからさっさと撤退して、改めて調査するのが望ましかった。「黒の院」にどの程度の機能があるのか、現在の時点でそのうちのどれくらいが生きているのか誰も知らない。用心に越したことはなかった。 

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