石垣の向こう
張は声もなく崩れ落ちた白の体を左腕で掬い、爪先に刺した剣をさっと引っ込めた。爪先を切り落とすつもりはなかったので、手加減をしたつもりだが、白は硬直している。
左の上腕はかなり火傷が酷く、白の重みは強い痛みを伴った。張は痛みを無視することが得意だ。他人の痛みはもちろんだが、自分の痛みも簡単に無視できる。自分も他人だと思えばいい。今は痛みより、優先すべきことがある。
白がやってきた方向を見やる。白の仲間の一人がこちらに向かって走ってくる。石垣を越える前に捕まるわけにはいかない。白をひっつかんで、奥の院へ向かって走り出す。
走り出したつもりだったが、体が大きく戦慄き、それほどの速度が出ない。精神は痛みを無視していても、体には確実の影響を及ぼしているのだ。我ながら滑稽な動きで、笑いが込み上げる。口から漏れ出た笑い声も、体同様に震えが止まらなかった。
それでも前へ、進む。うまく石垣を越えれば、勝負をひっくり返せるのだから。
え、と息を呑む声が聞こえて、蘇順は一度戸口の方を振り返り、再び碧天に向き直った。
碧天は眠っていた阿珠を抱き上げようとして屈みこんだ姿勢で、一瞬止まった。今の声は碧天にも聞こえたらしい。目を見合わせると、碧天が小さくうなずく。
地響きに似た振動に、戸口から飛び出ると、牛が走っていくのが見えた。その後ろを白が追いかけていく。
なぜ牛が走り出したのか。わからないが、ここから移動するのには牛がいたほうがいい。蘇順は特に怪我もしていないから歩くこともできるものの、阿珠は牛に乗せたほうがいいだろう。
それにしても白が牛を逃がすとは意外だ。あの玄という牛にこだわっていただけあって、白は牛の世話がうまい。村でも一番と言ってもいい。迂闊なことをして逃がすとは思えない。何があったのか。
真直ぐに通りを北上していくのを見て、蘇順は初めてその先にある黒い建物を見た。ずいぶん奇妙な建物だ。あの建物に何か引き寄せられるものでもあるのだろうか、ふと思った。
牛は黒い建物の手前の角を曲がり、姿を消す。蘇順も小走りに白を追いかけた。白ははじめかなり本気で走っていたが、牛の姿が見えなくなったところで立ち止まった。
なぜ立ち止まったのか、蘇順にはわからなかった。疲れたのだろうか。蘇順だったら、初めから追いかけない。白だからこそ、追いかけたのだろう。牛がいないと道行きが大変だから、という理由だけではなく、ただ単に牛をここに残していきたくないと思っているのではないか。
それなら捕まえるまで追いかけそうだ。なのに、白は踵を返して背を向けた。曲がり角を曲がった牛がどうなったのか、確認もしていない。だが、やはり気になるのか、ちらちらと後ろを振り返っている。しばらく止まって考え込んだりしているようだ。それなら、さっさと捕まえに行けばいいのに。
そういうところが昔から、気に障るのだ。ぼうっとどこか別のところに気を取られているような顔をして、目の前の蘇順たちのことは視界に入れていない。言いたいこともろくろく言わず、そのくせ考えることが表情から透けて見える。本人は自分の思いは自分一人のものだと思って、告げるつもりもないのだから、いらいらさせられる。




