囮
踵を返して歩き出す白の後ろ姿を見て、張は舌打ちをした。
牛には何度も教え込んでいたから、犬笛を吹けば一目散に音のする方へやってくるのはわかっていた。暇潰しに相棒と組んで、一人は犬笛を鳴らし、そちらへ行かないと棒で殴る、それを繰り返せば、どんな馬鹿だって芸当を覚えるものだ。
張は家の陰に回り込んで、二軒先の交差点へ向かった。走りながら、細かく痛み続ける、頬へ垂れ下がった皮膚を思い切り引き千切った。左頬にもう一度火がついたように熱さが刺さる。ぬるついた皮の残骸を地面に投げ捨て、張は角を曲がり、怯えた顔でこちらを見ている白の傍らに走った。
『匂い』の主が移動していることに白が気付いた時には遅かった。『匂い』は揺らぐので、正確な発生源を突き止めるのは難しい。『匂い』は普通の匂いとは違って風の影響は受けない。むしろ風がなくてもゆらゆら揺れていることが多い。真直ぐに対象者のほうへ飛んでくることもあるが、そういうときでもふわふわとしている。『匂い』のもとが近い場合は発生する様を感じることができるから、誰から流れてきたかわかるが、距離があって発生源が隠れている場合は大体の位置しかわからない。『匂い』の流れてきた方向や角度から推測するのだ。
だから少し移動しても誤差の範囲だと思ってしまう。かなり移動されてから、初めて気づくことになる。
『匂い』の流れが緩やかな弧を描き、南に移動したのがわかった。白からは少し離れている。なぜ移動したのか判然としないから警戒しつつ進む。『匂い』には頼らず、目でも相手がいそうな方向を探る。
すぐに荒々しい足音が聞こえてきた。人影が家の向こうから現れ、白は思わずその場で固まった。
顔の左半分が赤く変色している。服も肩から腹にかけた左半分には黒い焦げ跡と薄赤い染みが広がっている。白っぽい衣服だが、かなり薄着で、外套は羽織っていない。きっと家から逃げ出した石虎の仲間の一人だ。こんな薄着では、長時間この時期の戸外では過ごせない。
白は人の傷を見るという経験がなかった。家畜を捌くのを見ることはあっても、人が血を流す様はほとんどない。あっても小さな傷だ。ましてやこんな状況で、顔の半分が焼けただれた男が、よろめきながらも片目をらんらんと光らせ、走ってくるのを見ることなど。
張は白が魅入られたように自分を見て、凍り付いている様子に満足感を覚え、同時に落胆も感じた。「まあいい、囮としては十分だ」
張が白に跳びかかる。体に手をかけられる寸前になって、ようやく白の呪縛は解け、身を捩る。今更間に合うはずはないとわかっていたけれど、張の『匂い』を躱すようにして反射的に体が動く。間一髪で張の右手は空を切る。
そのまま、動き始めた体の勢いを借りて、白は張とは逆の方向へ踏み出す。碧天の声が届く。
張から逸らした白の目の前、小さな光が、風切り音を立てて垂直に滑り落ちていった。それが朝日を反射した刃先だったと理解したのは、動かない左足の爪先にそれを見たからだった。




