狼煙
どの程度通じているのかは怪しいが、少なくとも阿珠は碧天にすっかり頼り切っている。阿珠の『匂い』はやや甘ったるい。よく熟れた芒果のようだ。
残りの三頭は張とその仲間が連れてきた牛だったらしい。それを残していったところから考えると、そう遠くには行けない。遠くに行くつもりがないのか。それなりに物資を持ち出した様子杜と衛たちとは違うようだ。
安心したのか、まどろみ始めた阿珠の姿を横目に、蘇順は声を潜めた。「張は戻ってきそうね。どうするの?」
「それだけが理由ではないが、ここを離れて団徳に戻ったほうがいい」碧天は阿珠を毛布の上に寝かせて立ち上がった。「白さんは回復したようだけど、油断はできない。この子は長期間の療養が必要だ。張が戻ってくるなら、尚更だ」「待ち伏せしているかも」「可能性はある。ここでゆっくりすればするほど、罠を仕掛けるのも容易になる。幸い牛がいるし、ここまでそれほど遠い道のりじゃなかった。準備ができ次第、発とう」
白たちには土地勘があるので、大体の方向がわかる。この辺りに来たことはなかったとは言え、そう迷うことはないはずだ。燃料として少しの薪と、水、二食分ほどの食料もあれば、道中必要な物資は足りる。
「狼煙を上げたい。何か持ってないか?」三人で荷物を牛に載せていると、碧天が言い出した。「私は火薬を使っていたんだが、今朝使ってしまったから」
辺境では狼煙の上げ方を知らぬ者はいない。離れたところにいる者に連絡を取る手段が限られているからだ。特に緊急時はこれ以外にあり得ないといっていい。だから幼い頃に大人に教えられるし、ことあるごとに練習させられる。そして火打石と火打金、火口を携帯することを約束させられる。火口の好みは様々で、白は松葉を細かく切った物、蘇順は松奇茸を砕いた物を持ち歩いている。中には牛の糞を乾燥させて携帯する者もいる。「けど、他にないわけじゃないんだから、糞を懐に入れるのはねえ」と言う蘇順に、火薬を持ち歩いていても、火打石と火打金を持ち歩いていない碧天は感心する。一応自分の帯の金具や飾りの石が火打に使えることは知っていても、実際に使ったことはない。
結局白が荷造りと牛の準備をし、狼煙を焚くのは蘇順の役目になった。「白さんは牛飼だから」と碧天が決めた。
蘇順は家畜小屋に保管されていた薪のうち、なるべく細かい枝を選び、雪をどけた地面に積む。火打ちをする傍に、太い薪の束を持って、碧天がやってくる。
枝の横の地面に、布に包んだ松奇茸を置き、結び目を解いた。布も一緒に燃やしてしまうので粗末なものだ。そういう包みを二つ、火打石と火打金と一緒に自分で織り、刺繍した巾着に入れていた。慣れた手つきで火花を飛ばす蘇順を尻目に、碧天はその巾着を手に取って眺めた。
「気に入った?同じようなものを作ってあげてもいいわよ、お金はもらうけど」二三度、打ち合わせただけで、火花が散り、蘇順は地面に屈みこんでそっと息を吹きかける。
「蘇順さん、団徳に帰る気なんですか」と碧天の言葉が、蘇順の上から落ちてきた。




