家の中
一晩で、体調自体は持ち直した。白は碧天に任された窓を塞ぎながら、『匂い』に悩まされている。
窓を塞ぐ前、碧天が火薬を投げた後、あの家からは苦しくなるような『匂い』が立ち昇っていた。それが白に向けられたものではなかったので、まともに嗅がなかったのが幸いだった。すぐに窓を塞ぎ、そこで何がどうなったのか、考えないようにした。
窓を塞ぎ、扉を閉めると戸外での『匂い』はほとんど気にならなくなる。強く意識すればなんとなくはわかるが、距離感も方向も曖昧になる。街角で待ち伏せされたときは見えていなくとも『匂い』はわかった。外と締め切った室内との違いだ。そう考えると、やはり白の六感は『嗅覚』なのだろう。
今、白を悩ませているのは、同じ室内にいる人間の『匂い』である。先ほどから二人からは絶えず目まぐるしく次から次へと異なる『匂い』が沸き立っている。蘇順の『匂い』の基調は獣臭さ、だ。それが一番頻繁に湧いてくるが、それを押し退けるようにして、別の『匂い』が漂う。それらが入り混じって、もういちいち嗅ぎ分けるのもうんざりだ。
そしてそれ以上に厄介なのが阿珠の『匂い』だ。一番目立つのは樟脳に似た『匂い』だ。そこに林檎のような、山査子のような、甘い、快い『匂い』、脈絡なく塩湖を渡る風のような『匂い』、腐りかけた醍醐の『匂い』、次から次へと変わり現れ、混じったかと思うと分離し、渦を巻き、うねり、間近で感じるのが薄気味悪いほどだった。これが自分に向けられたものだったら、ぞっとする。傍で嗅いでいてもこの有様なのだから。
2人『匂い』は必ずしも悪臭ではない。いや、そもそも『匂い』には悪臭というものはないと、白は思っている。血の『匂い』や腐敗臭は不吉なことを想起させるから嫌なのであって、その『匂い』自体が嫌いというわけではない。糞の『匂い』だって、生の肉の『匂い』だって、好きではないが別に嫌いではない。弱い『匂い』であれば。
困るのは強い、濃い『匂い』なのだ。それが花の、果物の、甘い、かぐわしいはずの『匂い』だって、過剰であればその感覚に圧倒されて、吐き気を催すものになる。
二人の『匂い』が向かう先は、碧天だ。蘇順の『匂い』は全てが碧天に向かっているわけではないが、阿珠の『匂い』はそのほとんどは碧天に向けられている。碧天が『匂い』を嗅げないのは幸いだろう。『匂い』の強さは碧天に対する感情の強さを表している。出会ったばかりの人間に対する感情としては異例だろうが、阿珠の境遇を考えると納得できる気もする。
2人は扉をおさえている。但し、阿珠のほうは土間に毛布を敷き、座り込んでいる。立っているのも疲れるようだ。蘇順のほうは扉に耳を当て、外の音を拾おうとしている。
外の『匂い』はわからないし、音も碧天が飛び出して言った直後に大きな衝撃音がしたきり、特に聞こえてこない。何も聞こえないのは悪い場合ばかりではない。それはわかっていても、不安は治まらない。
塞いだ窓を叩いたり、木戸を弄ったりするような兆候もない。それでも緊張は続き、扉を叩く音がした時には体が竦んだ。
扉に響く音は軽く、初めに調子よく6回、そのあと少し間をおいて、やや強めに2回、鳴った。碧天が扉を開けてほしい場合にそう叩くと告げていた通りだ。安全だという合図でもあった。
それでも万が一のために、蘇順は阿珠を少し下がらせて、隙間に目を当てた。それから、もう少し扉を開けた。
碧天は全く平気そうな様子で扉を大きく開けて中に入ってきた。「お疲れさま。とりあえず終わったよ。朝ごはんにしようか」




