4人
「私は碧天という。あなたの名を教えてもらえるか?」
耳に幕がかかっているようにくぐもった声だった。いまさら何を、と思いつつ、柔らかな微かな『匂い』を嗅ぐ。焼き立ての餅のような、少しだけ塩の混じった『匂い』。誰かと夕食を一緒に食べた後、眠くなる前にぼそぼそと話をしているような空間で、感じたことがある。気持ちが落ち着いている人が発する『匂い』だ。こんな状況でそう感じるなんて。
こんな状況って、何?
今、自分はどこにいるのだろう?
白は目を開ける前に、もう一度息を吸った。
いつも感じる、温かい、人によっては臭いと感じるだろう、玄の毛皮の匂いがしない。手を動かして、その毛並みを探ってみる。記憶を失ってはいない。憶えている、玄が流した血の匂いを。白は玄をあそこへ置いてきた。
それほど大きな傷ではなかった。まだ生きているかもしれない。でも、村には獣医なんかいない。医者ですら団徳にはいない。辺境では医者は巡回してくるのを待つしかない。人間でさえそうなのだ、獣医なんて滅多にいない。一番近いところでも、幹地にいる領軍の馬医くらいではないか。だから飼っている牛や山羊が病にかかっても、飼い主たちがその経験から面倒見てやるのが関の山で、大抵は食べられなくなるほど進行する前に屠殺する。
誰かせめて薬草を使ってくれていないだろうか。そういう時のために白の小屋には乾燥した薬草を保管してあるのに。
今から帰れば間に合う?
両目が熱くなり、閉じたままの瞼の端から涙が流れ落ちた。
すると乾いた布が頬に当てられた。その感触で、はっきりと目覚めた白は、慌てて目を開けた。
白の目が、傍らに座った碧天を捉える。碧天は布切れを握った右手を戻して、「阿津?阿須?」と言った。目線は白の背後に向けられていた。白も首を巡らせて後ろを見ると、蘇順が虜に白湯を飲ませ終わって立ち上がるところだった。
この『匂い』は蘇順のものだったのか。蘇順からはいつも刺激臭みたいな強い『匂い』ばかりを嗅いでいたから、かなり驚いた。でも、その『匂い』の流れは自分ではなく、碧天と虜に向かっていることに気づいた。
虜は自分とそれほど変わらない年齢のように見えた。蘇順よりも浅黒い肌色で、大きな瞳が愛らしい印象だ。錫金の牧場で飼われている番犬の目を思い出す。その目は真直ぐに碧天を見ている。その人から発している『匂い』もわかりやすいものだった。蘇順にも果物のような甘い香りが流れているが、碧天に対するものとは比較にならない。
「唇の動きだけではこれ以上は判別できないようだ。正確な名前は、改めて教えてもらうよ。腫れがひけば、喋れるようになるはずだ。阿さんには違いはないんだよね」と碧天が言うと、阿珠は大きくう頷く。
「阿さん、体の調子はどう?歩いたり、できそうかな?」阿珠は毛布をはねのけて、立ち上がる。碧天の傍まで来て、座り込んだ。行動も番犬に似ている気がする。
碧天は少し笑い、白に振り向く。「白さんは、体の調子は?熱はだいぶ下がったみたいだけれど」
確かに、昨日のような怠さ、節々の痛みは軽くなっている。一つ頷くと、碧天は蘇順からお茶の器を受け取り、「飲める?」と差し出す。




