牧場
州都から旅立って、10日目に錫金という街に到着した。ここは東西に長々と続く霊山山脈の、数少ない切れ目の近くに位置する。山脈を南北に突っ切ることは不可能で、過去に何度も試みられたと神話にも歴史にも残っているが、帰ってきた者はいない。錫金の北に二つの峠があり、そのうちの一つ経路から稀に北東の唐蕃国の商人がやってくることがあるが、道が険しくて騎獣の類は一切使えないため、苦労に見合う商売をすることは叶わない。
錫金は郡都とも称されるが、行政上はただの町である。しかし山岳地帯の玄関口としては最大の都市である。この先は小さな山村ばかりになる。
一行はかなり順調に行程を進めたので、予定よりも早い到着だった。一旦ここで牛飼は解散だ。数日滞在して、商売をするらしい。その結果によって再び雇う牛の数も違ってくるのだ。
白は支払われた金をその場で数え、巾着に入れて懐にしまう。道中の茶のように、碧天が一人一人に金を渡した。白は碧天に、牛を預ける郊外の牧場の名を告げ、出発が決まったら声をかけるように頼む。「次の移動にも同行してくれるなら助かるよ」と微笑む碧天を見ると、あの晩気づかれたと思ったのは勘違いだろうかと思う。
毛長牛を追い立てて、街から出る。普通牧場に牛を預けると金をとられるが、そこの牧場主は顔見知りで、働く代わりに牛舎を使わせてくれる。隊商ならば野宿でも問題はなかったが、白一人での野宿は危険だ。
この時期の牧場は空いている。荷運びに使役されている牛たちは入れ代わり立ち代わりやってくるが、もともとこの牧場で飼われている牛たちはもう少し高度の高い草地に放牧されている。寒くなってくるとここへ戻ってくるのだ。
壊れた柵を直している年輩の男を見つけて、白は顔に愛想笑いを貼り付ける。この男を物心ついた時から知っているが、男から向けられるうっすらと生臭い『匂い』は年々濃くなる。
「すみません。数日お世話になりたいのですが」男はため息をつき、「今の時期は暇だからな。仕事なんかない。知ってるだろう」と言った。白はもう一度頭を下げた。何を言わせたいのかは知っているが、だんまりを決め込む。男はしばらく柵をがたがたいわせていた。白は辛抱強く待つ。
「奥に孫維がいる。頼んでみろ」
白は舌打ちした。男は眉を上げたが、何も言わずに板切れをまとめて歩き出した。
孫維は半年ほど前にこの牧場へ旅立った。もともとこの牧場主は孫維の遠縁で、見聞を広めたほうがいいという父親の方針の下、牧場に預けられ、しばらくの間、住み込みで働くことになっている。牛の世話なら、このあたりでは幼い子供でもある程度はさせられるものだし、大人になれば家の財産として扱うことになるから、将来牧場で働くわけではなくても、覚えて損はない仕事の一つだった。
仕方ない。孫維の顔はできれば見たくなかったが、今から野宿する場所を探すのも癪だ。牛たちを追い立てて、放牧場に入れ、敷地の奥にある牛舎へ向かう。
牛舎は家とは違ってすべて木造だ。大概の家は木材も使うが、日干し煉瓦や石、土を使う。その方が保温性が高い。木造だと通気性があるので、人間よりも寒さに強い毛長牛には向いている。かなり分厚い木材を使っていて、立派な牛舎である。
牛舎を覗き込むと、誰もいない。がらんとした牛舎に射し込んだ光の帯の中で、金粉が舞っている。それを見ていると眠気が襲ってきた。牛舎の奥には冬に備えた干草の塊が積み上げられている。白はその傍に腰を下ろした。丸めた毛布を下ろし、その上に座って干草の塊に背を預けると、もう抵抗できなかった。