獣道
白の声は、自分で思っていたよりも弱弱しく響いた。
確かに聞こえたはずだが、それに対して明確な反応はなかった。碧天は相手が反応しないのを確かめてから手を下ろし、口を開いた。「どこへ連行されるのか存じませんが、休憩をいただきたい。火の傍で」
石虎を載せた毛長牛が体を震わせたのと同時に、石虎から水の強い『匂い』が立ち昇った。「そんなことか?」と聞く声は、白が聞いたことのある声だった。
「大切なことです。生き延びるためには」碧天は笑顔で返した。
石虎は碧天も白と毛長牛に同乗させ、北へ移動させた。この辺りはまだ林道で、人が使う道だ。蘇順が白を落とした湖沼も水が枯れないので、知っている者はいる。もう少し人気のないところへ移動したかった。
初雪の日に誰かが偶然この辺りに来るとは思えないが、蘇順と白、商会の娘が行方不明、雑牛が死んだのだから、団徳の人間や商会の人間が捜索に来るかもしれない。
蘇順と石虎たちの繋がりは知られていない。人前では親密な様子を見せたことはないし、定期的に他の村人にも探りを入れている。
白のほうは、数人の前で、石虎が関心のある素振りを見せている。付き合っているとは思われていないようだ。ある意味、生ぬるく見守られている最中、だった。だが、それも蘇順には気取られていないはずだったのだが、計算違いだったな。
こういうことは以前にもあった。ちょうどいい獲物が複数同じ集落にいる。どちらも狙いたいではないか。
今回の敗因は、白のほうを嫁にしてもいいか、と思ったことだった。商品ではなく、結婚して団徳の村長の縁者になる。
よその村の村長にはなれない。例え村長に後継ぎがいなくても、よそから来た人間を長にはしない。だが、縁者にならなれる。旅に出るのも可能だし、そういう縁が役に立つことも多い。いつまでも独身だと怪しまれる恐れもあった。
どちらも獲物ならば徹底して繋がりを隠すが、そうしなかったから蘇順が気付いたのだろう。
獣道を選んで、進ませた。獣道と言っても、ただの地面に引かれた筋のような窪みに過ぎない。道の周囲で夏の間に茂っていた草は枯れ果てている。道と言っても石ころだらけの斜面なので、歩きやすいわけではない。もう数日雪が降り続けば、他の部分と見分けがつかなくなるだろう。
だが、この道でなければ石虎の目的地には辿り着けない。そこは最近になって発見したので、位置の把握は十分でなかった。知っているのも数人だけだ。
さらに牛を進ませ、小さな涸れ谷までやってきた。人より大きな岩があちこちにあり、姿を隠せるだろう。碧天は何も言わなかったが、そろそろ限界だろうと思った。
この涸れ谷は、水が無くなってからかなり年数が経って、忘れられている。誰か来る可能性は低い。特に雪が積もっていない時期には、ここに来ても水が手に入らないから、立ち寄る利点がない。流れがあれば流木が溜まり、水と燃料が得られるのでいい休憩場所になるのだが。
風の流れを遮るようにして、岩陰に回る。碧天と衛がそれぞれ白と蘇順を下ろす。石虎は手ごろな大きさの石を丸く並べていく。
「その人は、眠っているのか?」碧天は石の上に白を座らせながら、蘇順に目を向けた。
石虎たちが行き会った時に、蘇順は手が付けられないほど興奮していた。逃げようとはしなかったが、大声を挙げて泣き喚いたので、つい殴ってしまったのだ。




