崖
二人が通ってきた柵の隙間は人一人の幅しかなかった。毛長牛が通れたとは思えない。血を流した毛長牛が柵の所から村の中を移動したならもっと血の跡があってもおかしくはない。雪のせいで消えたのかもしれないが、毛長牛がわざわざ村の裏手の柵の隙間から村内に入ろうとするだろうか。
衛は記憶を手繰る。蘇順が鉈を手に歩いているのを目撃し、十分に距離をとって尾行したのだ。草地で蘇順が誰と会ったのかは遠目ではわからなかった。蘇順の狙いは、歩きながらぶつぶつ白の名を呟いていたことから推測したのだ。
鉈を使ったところは見ていない。その時毛長牛かどうかは判然としないが、家畜の影があったのは覚えている。白は牛飼だし、草地に家畜を連れて行くのは当然だ。この天候ではみんながみんな家畜を連れ出すとは思えないが、冬用に貯めこんだ餌を節約する意味で、連れ出す者もいて不思議はない。
詳細はわからないまでも、蘇順とのつながりがないとは思えなかった。「お前、血の匂いを追えるか」「わからん。お前も注意してくれ」「俺が役に立てるとは思えんなあ。けど、蘇順の家より、そっちの方が確実そうだ」
衛の六感は嗅覚ではないから、血の匂いに気づいたのは偶々だ。いろいろな感覚や勘が人よりは鋭いが、六感というほどではない。石虎も鈍い方ではないが、衛がいるとなんやかんや衛にやらせようとする。
二人は裏手の柵の隙間から、再び村の外へ出た。
こういう場合、自分ならどこへ行くだろう。
白の答えが出る前に、蘇順は目的地に着いたようだ。
村からそれほど離れていない、湖沼のほとりだった。
霊山山脈には無数の湖沼がある。高度が高くなると規模は小さくなるが、それでも人間が普段活動する地域では大小さまざまな湖沼があり、覚えきれないほどだ。
覚えきれないのにはいくつか理由があって、例えば霊山山脈の湖沼には塩湖も存在した。氷河からできる湖沼もあり、それは季節によって無くなったり縮小したりした。温かい湖沼もあった。
当然利用できる湖沼や、村の近くに常に存在するものは覚える。
今辿り着いた湖沼は、白の記憶にはなかった。それほど大きなものではない。冬なので、小さくなっているのかもしれない。氷河の雪解け水によって作られる湖沼は、水質や水温、規模が安定しないので、魚などの食料になるような生き物は少なく、取り立てて覚えておかなければならない湖沼ではない。
蘇順がここに来た理由はすぐにわかった。
湖沼に向かってせり出したような崖の上まで、白は引きずられた。蘇順は肩で息をしている。無理もない。白の呼吸も荒い。
「邪魔なの」蘇順が崖の端で手を離した。白はその場にへたりこんだが、鉈がその肩を突く。それから逃れようと上半身をひねると、今度は逆の肩に刃が当たる。「いい加減に、邪魔、しないで?」
「してない」白は膝に手をついて、立ち上がった。座ったままでは逃げることはできない。立つと突き飛ばされる危険性はあるけど、無抵抗のまま刺されるよりはましだ。膝が震えるのが伝わってくる。両手でぐっと膝を掴む。蘇順の傍を走り抜けることが、できるだろうか。




