六感
「お茶をどうぞ、白さん」
頭巾を被った人が、湯気の立つ器を右手で白に差し出した。少しかすれた声は、挨拶の時碧天と名乗っていたものだ。いつの間にかすぐそばまでやってきていた。うっかりするとぶつかりそうな位置に、白は思わず後ずさった。
さらに器を握った右手が伸びてきた。器の中身を上から覗き込むと、乳を多めに入れた茶らしい。肉桂の少し甘い香りがする。いい機会だ、と両手で受け取る。
白の六感は相手に触れたほうが明確に働く。触れなくてもかなりのことはわかるが、触れたほうが確実だ。見知った人間なら、遠くからでも嗅ぎつけられる。『匂い』に個人個人の癖みたいなものがあるせいかもしれない。知らない人間だと、『匂い』そのものは少し離れていても嗅げたりするが、『匂い』は案外複雑なものだ。いくつもの要素が入り混じって感じられるようで、解きほぐして判断するのが難しい。触れるくらい近く、触れればなおのこと、わかりやすい。今まで碧天の『匂い』はさっぱり感じないから、触ったほうがいい。親しくない人間に触れるのは案外難しいから、こんな機会は願ってもない。
白の六感は嗅覚の一種だ。もっとも鼻で嗅いでいるわけではない。幼いころ、実際に鼻で感じた匂いなのか六感なのか、わからずに混乱してうっかり口に出してしまい、嘘つき呼ばわりされたものだ。二度ほどそんな経験をした後、白は『匂い』に関することは一切しゃべらなくなった。自分一人で周囲にあるものを確認したり、鼻に詰め物をしたりして、ない物の匂いを感じることを知った。
そしてその『匂い』が何を意味するかは、自分の身を危険にさらすことで知った。
器を受け取るとき、碧天の右手に触れた。さあどうだ、何の『匂い』だ。焦げくささか、腐敗臭か、血の匂いか。
碧天の手は意外と大きく指が長い。色は白いが固くてごつごつしている。茶の温もりらしきものを残して、白の手の中からするりと逃げていく。
碧天の頭巾から覗く黒髪は肩にかからないくらいの長さで切られ、黄色の組紐でまとめられている。黒髪自体はありふれているが、浮かんでいる光沢は栄養と手入れが行き届いている証だ。顔だちも整っているが、それよりも肌の肌理が細かく艶があることが目を引く。瞳は黄褐色で、これは少し珍しいかもしれない。その瞳がまっすぐに白を見ている。
白の顔をこんなに正面から見る人間は今までいただろうか。
知れず知らず相手の顔をじろじろみてしまったことに白は驚き、そして気が付く。
何も感じない。何の『匂い』もしない。
頭の熱がさっと下へ下がる。顔に出たのではないかと思うが、碧天は「使い捨ての器だけど、また洗って使うから。飲み終わっても捨てないで持ってきて」と言い、ちょっと笑って去っていった。
次の瞬間手から器が転がり落ちていったが、白はしばらくそれを意識せずにいた。碧天は悠々とした足取りで焚火の傍に戻り、薬缶を持ち上げて茶を注いで周囲の者に配っていた。
三日三晩野宿をして街道を辿った。王都から東西南北に延びる大街道と、北東、東南、南西、北西に延びる小街道は、五里ごとに井戸か川などの水場が設けられている。徒歩の旅人は大体十里を一日で歩く。街道は緩やかに登っていくが、隊商は順調に進んでいった。雨の少ない季節であり、体調を崩す者もいない。獣が現れて寝込みを襲う、などという厄介事もない。
白は、衝撃から立ち直り、ほかの人間の『匂い』を嗅いでみて、自分の六感がなくなったわけではないことを確かめた。他の面々には『匂い』があった。
『匂い』が意味するのは、感情だ。