拉致11
いよいよ阿珠を逃がすと決めた時から、世界はより美しくなった。
辺境の自然は阿閔には見慣れないものだが、地面に転がる石の造形の一つ一つ、水汲みに赴く小川の透明感。何より、遠くにいつも見える山の白さ、日の光を反射して光り輝いていた。遥かに高い蒼穹を見上げながら、もしも魂というものがあって死んでも憶えていられるならば、この光景も憶えていたいと考えていた。
阿閔の意識は冴えていた。
まず阿珠の体調と心が心配だ。できるだけ庇うようにはしているが、弱い者を虐めるのが好きな伏は何かと阿珠に絡もうとする。ぼんやりすることが増えた阿珠から何らかの反応があると、好きな子を虐める幼子のように喜ぶ。
もしも、阿珠が生き延びられるとすれば、杜は生かしておく方がよいだろう。
阿珠は辺境を知らない。それは阿閔も同じだから、仮に二人で逃げ出せたとしても、この辺境で野垂れ死にするのが落ちだ。どこで食料を調達すべきかもわからない。この先より深刻になる寒さに対してどうすればいいかもわからないのだから、その術を知っており、売り物であっても乱暴に扱わない杜は必要だ。
張はおおむね杜のいうことを聞いていた。何度か殴られたし、反抗するとすぐかっとなって手を出してくる人物ではあるが、大人しくしていればそれほどひどいことはされない。
とは言え、伏が来る前は張のことを問題視していた。逃亡を試みれば、恐らく反抗心をくじくためにも張に酷い目に遭わされるだろう。
それに張の精神はどうも不安定に見えた。酒量も杜に比べてずいぶん多い。杜が再三それだけの量を確保することの苦労を愚痴っていた程だ。
酒は辺境では一種の寒さ対策でもあるので、子供ですら嗜むものだ。酒に頼るのは好ましくないが、その側面もあり、好んで飲むわけでなくとも飲むことがある。杜はそういった飲み方をしており、双子にも必要ならば飲ませると言ったことがある。それに対して飲ませたくない張は、慌てて双子に毛皮の外套を着せてやったのだった。
張の飲み方は依存症のように見えた。
職人村でも、酒を飲み過ぎて身を持ち崩している者がいた。職人の中でも、無口で人付き合いの悪い者が、酒にはまりやすかった。
阿閔はあまりそういうことには詳しくなかったが、彼女との付き合いで酒場にも顔を出すようになると、いつも酒場の隅で一人酒を飲み続けている職人を見かけるようになった。
時折酒場の主人が彼を嗜めるので、揉み合いになることもあった。それでも酒場に来て飲むうちはまだ大丈夫だと彼女は言っていた。一人、自分のねぐらで壁に向かって飲むようになったら、まずいのだと。
その時、想像した壁に向かう飲み方が、張の姿に重なるのだ。
監視者が二人だった時は、張が排除すべき対象だった。しかし事情が変わった。無理をしてでも、排除するのは伏である。阿珠が逃亡に失敗した場合でも、張のことは、杜が押さえてくれるかもしれない。
それに期待するしかない。




