玄
家畜はこの辺境の人間にとって最も貴重な財産だ。だからみんな大切に育てる。
しかし、その中でも価値に違いはある。村で飼われているのは主に山羊と鶏、毛長牛と雑牛だ。雑牛は、毛長牛と南でよく飼われている短毛の乳牛との雑種で、毛長牛より暑さに強い。そのため今回のような平地への荷運びは雑牛のほうが向いている。毛は毛長牛より短いので、毛量は少ない。
それ以上に家畜の価値を決めるのは、雄か雌かだ。牝牛は子供も産むし、乳を出す。牛を増やすのに頭数が必要なのは雌で、雄は少なくて済むので、冬支度で屠られるのは雄が多い。玄は雄だ。
さらに毛長牛とは違って雑牛の雄は子供は作れない。だから牛の中では一番先に処分される。
雑牛の玄は、そもそも逃げ出した牛だった。白が、村長の毛長牛を連れて山の上の草地に行き始めた八歳の頃、同じく牛の世話を任された同年代の子供たちに背を向けて、草地の周りを一人でぶらぶらしていた時に、緩やかな斜面の草の上で、蹲る玄を見つけたのだ。
玄の向こう側の林の木蔭に山犬が三匹、小さく見えた。白が恐る恐る近づいても、玄は眼玉だけを動かした。数尺離れてその雑牛の周囲を回ると、左の後ろ足に血がにじんでいるのがわかった。
怪我は大したことはなく、白が水で何度も洗ってやり、化膿止めに蜂蜜を塗った。その時点で玄は成牛だったので、荷運びで使役されていたところに、何か問題が起こって主人の元から離れ、草地に迷い込んだのだ。怪我の様子から枝か石で切ったのではないかと思う。人間の刃物だったらもっと切り口がきれいだったろう。山犬がつけたのかとも思ったが、山犬は一匹で行動することは滅多にないので、一匹が噛みつけば、次から次へと襲い掛かるものだ。
どういう経緯かは結局わからないのだが、少なくとも本来の飼い主が牛を捨てることなど有り得ないのは確かだ。それでも白は玄を放っておくことはできなかった。次の瞬間にも、玄の主人だという男が現われ、有無を言わせず玄を鼻輪をひっつかんで連れ去るかもしれない。それでも玄を小屋に入れ、毛並みを梳らずにはいられなかった。
村長は黙って玄の分の冬の餌を分けてくれた。初めの年は、白は冬支度で玄の分の干し草を用意し損ねた。現われた時が、晩秋だったのもあるし、初めの数日は、玄を飼う決心がついていなかったこともある。孫維は、「さっさと屠って、冬の食料にしよう。牛一頭分の肉が増えるんだから、この冬は肉が食べ放題だな」と言って、白に茶碗を投げつけられた。
癇癪を伯母に叱られたが、玄を飼うことは許された。屠殺は村総出で行うものだし、冬支度として年に一度だけ行うものだ。鳥や山羊なら、家族だけで処理することもあるが、牛を捌くのは大仕事だし、全身を無駄なく利用するには様々な加工が必須で、人手がいるのだ。
それに白自身はびくびくしていたが、迷子の雑牛を探し出すのは現実的ではない。村長夫婦は一応近隣の村には、失踪した牛がいないか、確認をとった。行商人に伝言を託したので、それなりに日数はかかったが、冬が来るまでには、近隣の牛でないことは判明した。それより遠方で人間の庇護下を離れたのなら、生きて人里に現れる可能性のほうが低いし、うまくすれば財産がタダで増えるのだ。