北西へ
旦商会の隊商が錫金を出立したのは、十日後のことだった。白はその間、待つことに飽いて、余程自分の小屋に戻ってやろうかと考えた。奴らについて行けという指示だったが、それを無視することもできるはずだ。
結局隊商が出発するまで、牧場で牛の世話をして過ごした。一通りの世話はできるが、玄はもう老牛だ。餌の工夫の仕方や蹄の手入れなど、知っておいて損はない。この辺りでは牛は食べるために飼うのではない。仕事の相棒だ。自然に老いて働けなくなるまで、面倒を見てやるのだ。
副長の関路はもう一度白を雇ってくれた。幸運なのか、故郷の団徳まで行くと言う。
幸運なのか?
白の疑念はさておき、隊商の荷はそれほど減っていなかった。碧天の積み上げる木箱がいくつかと、荷車が二台減った。だが、錫金で仕入れたものがあるとかで、逆に荷車が三台増えた。そのため、毛長牛はさらに増えた。
州都から錫金は緩やかな勾配だったが、錫金からさらに西北に向かって進む今回の道のりでは高度がぐっと上がる。環境も錫金までは落葉広葉樹の森林地帯から湿地帯だった。錫金からは湿地帯を抜け、落葉樹林から針葉樹林、針葉低木帯が入り混じる。雨季には雨が多く、霊山山脈から雪解け水が流れ落ちてくるために緑豊かな地域だった。
豊かなあまり、雪解け水は大河となり、南東に流れ、海に注ぐ。その大河のさらに東は樹海と呼ばれ、熱帯雨林が広がり、人間の往来を阻んでいる。
錫金から小さな町を二つ経由して、さらに進むと、空気が乾燥し冷えていくのがわかる。白にとってはお馴染みの風土だ。湿気が多いと匂いがきつくなり、『匂い』との区別がつきにくくなる。体がべとつくし、玄の匂いも変わる。一度、玄が蒸し暑さにやられてしまい、年に二度と決めている毛の刈込をする羽目になった。刈込の時期を決めているのは、刈り取った後の毛にある程度の長さが欲しいという事情もある。短い毛には使い道がほとんどない。布団に詰めるか、突き固めて毛氈にするしかなかった。だから、やっぱり故郷の空には安堵する。南の住人には、埃っぽくてのどが痛いと不評でも、白と玄にとってはこちらのほうが幸せだ。
以前と同じように、道中での休憩時には碧天が茶を淹れてくれた。前と違うのは、荷車に乗らなくなったことだ。木箱の数も逆に増えたらしい。自分が乗る場所がなくなったと笑っていた。商会の人間は変わらず、雇われた牛飼が一人増えた。特に大きな問題もなく、軽口を叩きながら進む一行には、それなりにこなれた雰囲気が漂い出した。
白にとっても居心地は悪くなかった。誰一人として白に向かって嫌な『匂い』を発する者がいない。特に好かれてもいないが、全員が相互にぼんやりとした好意と薄い信頼感を抱いているのが驚きだった。
それぞれが自分の役割を果たしているからなのだろう。前に進むために全員が協力しているという実感があるので、最低限の安心が生まれ、それに対しての好ましさがあるのだ。
でも、と白は思う。厄介事が起こっていないからこその状態なのだと。そして、厄介事が起これば、この信頼は破られるのだ。