噂
翌朝、白は高らかに響く詠唱で目を覚ました。朝日が昇る時刻に、寺院の塔から僧侶が祈りの一節を太陽に向かって捧げるのだ。寺院があるような都市でなければ聞かないものだ。
錫金にいる間、詠唱で目覚め、半日は牧場の雑用をこなし、残りは街をぶらついて過ごした。主な目的は旦商会の動向を探るためだ。それ以外の情報も忌避はしない。
だが、『匂い』を嗅ぐと疲れる。人が多いとどの『匂い』が誰のもので、誰に向かっているのか判断するのが難しくなる。
まず確認したのは碧天たちがどこに宿泊しているかだ。何かあったら連絡するように言われているのは、錫金では中級旅館の一つで、かなり規模が大きいところだった。ちょっと覗いてみたが、副長は見かけたものの、隊長の盛容と碧天の姿は見かけなかった。
幸いなことに旦商会の人間は目立つ。宿屋から出てきた面々はそれぞれ別々の服装になっていたが、この辺りの人間がよく着ている毛織物の服ではなく、綿や麻の服を着ている。それにこの辺りの人間はあまり髪を切らないで、長く垂らしてまとめるか、頭巾でまとめることが多い。隊商の人間は髪形がまちまちで、肩より短く切ったものもいたし、頭の上や横でまとめたりしている者もいる。そのうえ、碧天のいでたちは服装から何から目立つ。
街の中心部に向かう大通りの屋台をひやかした時、碧天たちの噂を聞きつけた。昼時を過ぎて、手が空いてきた串焼き売りの恰幅のいいおやじと、漬物売りの小母さんが言い合っていた。青い服を着た商人が代官府に入って行ったという。
「あの綺麗な、育ちのよさそうな子だろ」「子って。商売しに来たのに、そんな幼いわけない」「若いのは確かだけど。男には見えなかったよ」「成人を引き延ばす人もいるからねえ」「金持ちの子供に見えたよ。護衛を一人連れてたじゃないか」「代官府に何の用だろうね」
代官府はその地方の統治を任されている代官の官邸で、役所とは異なる。商売の許可を得るには役所へ出向く必要があるが、代官府へ行く必要はない。
白は、旦商会の売買の可能性が高そうな、小麦や砂糖、果物類などの値段も確認した。特に安くなったり、珍しい物が売られるようになったというわけではなさそうだった。
四日目に薬屋で、顔見知りに出くわした。
故郷の村団徳の出身で、錫金に嫁入りしていった少し年上の平蘭だ。平蘭の結婚式には白も食事目当てに潜り込み、耳飾り、首飾り、腕輪、指輪、帯飾りも身に着けた花嫁衣裳を観察した。はじめ顔ではわからなかったのに、持参金でもある耳飾りを見て引っ掛かりを覚え、振り返ると、「白?」と声をかけてきた。擦り切れた服を着て、少し痩せたようだった。
平蘭は白に対して優越感を持ちがちではあったけれど、意地悪な性格ではなかったので、嫌いではなかった。二人で道端の茶屋で酪茶を買い、適当に見繕った石の上に座り並んだ。平蘭は矢継ぎ早に知り合いの安否を尋ね、白は自分に向けられた山査のような『匂い』を楽しんだ。
「そういえば、孫維のこと、聞いた?」平蘭の声はひときわ高くなった。それとは反対に『匂い』が変わった。甘さが消えうせ、水のような淡白な、でも仄かに違う感覚がある。何の『匂い』だろう?
「孫維、引っかかったって評判よ。だって、相手は未亡人みたいなもんだもの。ちょっと年上なのはいいの。二つか三つだから許容範囲でしょ。でも、もともと恋人がいて、そいつのために女になったのに、成人した後相手の男が姿をくらましてさあ。馬鹿だよねえ。まあ気の毒ではあるけど。人と見る目がないのかと思いきや、孫維だもん。あいつも馬鹿だけどさあ。質は悪かないよね、うん。優しいとこもあったもん。だから同情しちゃったのかもねえ」平蘭は乾いた笑い声をあげ、「女のほうはよくやった!って評判だよう。山村とはいえ、村長の跡取りだし、錫金じゃあ前の男の噂があるから、田舎でも別のところで所帯を持つ方が気楽だろうし。いやあ、めでたいわよねえ」
「優しい?孫維が?」白は納得がいかず、口の中で呟いた。そんなに悪い奴ではないかもしれないが、優しくはないだろう、と言いたかった。
平蘭はふっと息をつき、白の方にそっと手を置いた。
「まあ、孫維のことはいいや。どうせあいつが男になるのは決まったことなんだし。でも、あんたももうすぐだよね。焦って決めたらだめよ。男のほうがいいのはわかりきっているけど、税金がかかるからねえ。孫さんはどっちにしろとか言わないでしょ?それってすごく恵まれてるんだからね」
育てられたわけではないから、どうしろとか言われる筋合いはないが。そう言いたいが、うまく言葉が出なかった。
口にしなくても言いたいことはわかったのか、平蘭は首を振った。すると耳から長く垂れた細かな金の鎖が、首の周りに巻いた紗に触れた。葛のような赤紫の紗が少しだけ乱れ、喉元に黄味がかった斑点が覗いた。平蘭は紗を巻き直した。
そろそろ帰ると言って、平蘭は立ち上がった。白はその後ろ姿を見送りながら、漂う『匂い』が塩湖の風に似ていると思った。