真夜中の列車
(あれっ……)
ぱちり。
急激に浮上した意識に、俺は慌てて顔を上げた。
(ああ、やっちまった……)
人気がない開放的な空間に、人工的な明かり、飛び交う蛾の姿が見える。
俺はどうやら、居眠りをしていたらしい。
体中が、痛い。駅のベンチで寝こけたんだから、しょうがないだろう。
体を伸ばすとパキパキと関節から音が鳴る。んっ、と声が漏れたのは、俺がもうおっさんと言える年齢だからだろうか。
(今、何時だ?)
スマホを鞄から出すのも億劫で、視線を動かせばぽつりぽつりと人影がある。
どいつもこいつも下を向いてお疲れさんってやつだ。
それを見ても俺はなにかを感じることもない。だって、俺だってそうだから。
しがないリーマンで、不況でいつ首を切られンのかなってびくつく毎日だ。
世の中を見りゃやれ起業して成功しました、アフィリエイトでいくら稼ぎましたと景気の良い話題がネットに流れているが、そんなんどーせ、一握りの人間だけの話だろ?
ガタタン、タタンと電車の音が聞こえた。
ああ、何時かわからないがちょうど来たやつに乗れば帰れる。
(良かった、寝ちまって終電逃したなんて言ったら笑われちまうな)
ふうと吐き出した溜め息は、やけに重たく自分の耳に響く。
ベンチから立ち上がる時、妙に体が痛かった。やっぱりもうトシなんだろう、節々には隠せない疲労が溜まって、翌日に残るどころか日々蓄積していくんだから。
若い頃はそんなもん無縁だと思ってたんだがなあと苦笑が浮かんだところで、電車がホームに入ってきた。
時間が時間だからか、中はいつも通りガラガラだ。
開いたドアをくぐり、俺は座席に座る。
程なくして閉まったドアに、なんとなしに外を見た。真っ暗で、ろくに景色は見えやしなかったががらんどうのホームだけは見える。誰もいないホームは、酷く広く見えた。
ゆっくりと、電車が動き出す。
「メールとか来てんだろうなあ」
遅いとか、どこにいるんだとか、そんなもんこっちは働いてるんだからいちいち返せるかと悪態をつきたいところだがなにも返事をしなかった方が面倒だろう。
鞄を漁って、スマホを探す。
カタタン、カタタンと列車が速度を増していく音が聞こえる中取り出したスマホの画面を見て、俺はぞっとした。
「んだよ、コレ……」
示す時間は、午前二時。
こんな時間に走る列車など、俺は知らない。
そして、唐突に思い出す。
(待てよ、俺は電車通勤なんてしなくなっただろ……?)
そうだ、引っ越した先からはバス一本だ。
確かにそれまではあの駅で、毎日……待て、待て待て待て!!
俺がいたあの駅は、俺が以前に住んでいた町の駅じゃねえか!
一気に襲ってきた現実に、俺はとるものもとりあえず立ち上がる。
その勢いで鞄が床に落ちたが、気にしている余裕はなかった。
急いで窓に貼り付いてみるものの、当然列車は止まらない。見たこともない景色がビュンビュンと流れていく。
慌てて周りを見回して、緊急停止ボタンを押した。
がくん。
列車が止まる。
だが、おかしい。
衝撃が、まるでない?
(いや、今はそんなことを気にしてる場合じゃねえ)
緊急時のドアの開け方があったはずだ、まずはそこを開けて外に出て元来た道を帰らないと。こんなよくわからない状況で、どこに行くかもわからない電車になんて乗っていられない。
だが、開け方がわからない。
(そうだ、俺以外にも乗客がいた。それに列車なんだから、車掌がいるんだよな?)
緊急停止したのだから様子を見に来るだろう。
だが冷房が効いているはずの車内で、俺の汗はひくことなくだらだらと流れ続けている。
それが緊張の所為なのか、このよくわからない状況の所為なのか、気温もよくわからない。
「そうだ、電話……」
スマホの画面をタップするとそこには通知でメッセージがいくつも出ている。
それが俺をこのよくわからない状況から現実へと引き戻してくれる気がして、ほっと息を吐き出した。
そしてメッセージを確認することなく、電話を掛ける。
ワンコール、ツーコール、……早く、早く早く出てくれ。
『もしもし?』
「おい、よかった起きてたか、俺だ! 今、よくわからないことになっていて……前に住んでた町から電車に乗っちまって、走ってるわけない列車で、今どこかわかんなくて、えっと……」
『……く、……ね』
「おい?」
『まっ……の』
ノイズが、聞こえる。
その音に邪魔されて、なにも聞こえない。
だが、その音のおかげでハッとした。
あれ? 俺は今、誰に電話をかけたっけ。
そもそも、なんであの町から不便なところに引っ越したんだっけ。
「そうだ、俺は」
女房が、俺の浮気に気がついてぎゃあぎゃあ言ってくるのが鬱陶しくて。
遅くまで働いて養ってやってんのに、ちょっとした浮気やパチンコとかに口出ししやがって強く言ったら泣き出しやがって。
それが気に食わなくて、ちょっと一週間ばかり、愛人の家に寝泊まりして帰ったら女房のヤツ、首を吊っていた。
曲がった首と、だらりと垂れた体。
夏の暑さに腐っていった肉は、強烈な匂いを放っていた。
浮気相手の家から帰った俺を、苦しみ抜いて死んだ女房の顔が見ていた気がした。
「ひぃっ」
俺はスマホを放り投げた。
がつんと音がして床に落ち、カラカラとそれは列車の床を滑っていく。
ガタン。
ぺたりと尻餅をついた俺のからだが、揺れた。
「な、なんで」
カタ、タン。
カタタン、カタタン。
止まっていたはずの列車が動き出す。
ああ、ああ、どうして。
慌てて見回せば、先ほどまで綺麗だった車内は薄暗くなっていて、シートはなにかの液体でべたついて、床には虫が這っている。
悲鳴すら出ない俺の視線は、遠ざかったスマホに釘付けだ。
暗がりの中、ライトが光るそれは、通話のままになっているようだ。
(どうして、俺はアイツに電話をかけたんだ)
出ないとわかっているのに、なんで、なんで。
それじゃあ、さっき出たのは誰なのか。
でも、だって、俺はアイツが死んでいるのをこの目で見たじゃあないか。
強烈な臭気、色の変わった皮膚、垂れ下がった体に奇妙な液体。
あれがいつまでも俺の頭から離れなくて、あそこから引っ越したのに。
(ああ、そうだ)
アイツがいつまでもしつこく、俺を咎めるように出てくるから。
いつ、どこにいても目を閉じた瞬間出てくるから。
(そうだ、その所為で俺は仕事でミスをして)
嫌みな上司にグチグチ叱られて、無駄飯喰らいだとかなんとか言われて。
人員整理があるから、俺が候補になるって言われて。
全部、アイツが我慢できなかった所為なのに。
俺が悪いんじゃないのに。
部屋がまともに片付かないのは、アイツの仕事だったからで、俺は疲れて帰ってきたからで。だからそれを大家に文句言われるのも俺のせいじゃなくてアイツがいないからで。
じゃあ、電話に出たのは、誰だ?
揺れる電車の中、俺は這いずって恐る恐るスマホを覗き込んだ。
そうだ、これは夢なんだ。
この電車だって、俺の夢の中だから色々景色が変わるんだ。
だから死んだはずのアイツと電話が繋がっている。
(なら、文句の一つ言ったって、かまやしないよな?)
スマホを取ろうと、手を伸ばした。
その瞬間、俺の腕がひしゃげた。
「え」
あらぬ方向に指が曲がり、腕が曲がり、所々肉が裂けて骨が見える。
それを見て悲鳴を上げようとした瞬間、体中が今度はねじ曲がった。
もはや座ることすらできなくて、ぐしゃりと崩れ落ちた俺の視界の先にぶら下がる物が見えた。
声を出そうと思っても、喉が潰れているのかゼェゼェと、気持ち悪い音が出ただけだった。
ああ、アイツだ。
ぶら下がっているのは、あの日の女房だ。
そうだ、この後たしか――
ぐちゃり。
音を立てて、落ちる女房。
そうだ、あの日も女房の首がもげたんだ。
落ちた頭が、苦悶の表情を浮かべて、恨めしそうに……玄関で立ち竦む俺を見てたんだ。
今度も、女房の顔はこっちを向いていた。
気持ち悪いほど歪に膨らんで、黒ずんで、あの日見た時と同じだった。
違うのは――今、俺は女房と同じ視線だった。
そしてアイツは、嬉しそうにニタリと笑っていた。
『ようやく、きたのね』
声が、聞こえた気がした。
そうだ、コレは夢だ。
だって俺はこんな四肢がねじ曲がって、血反吐を吐いて、声も出ない重傷なのに痛みもない。これが夢じゃないなら、なんなんだ?
『まってたの』
女房の頭が、電車の揺れと共に俺に近づいている気がした。
ああそういえば、この列車に乗れば女房の実家に行けるんだっけ――迫り来る黒い顔を見ながら、俺はそんなことを考えたのだった。
――ねえねえ、この間の飛び込み自殺、大丈夫だった? あの日、あんた遅刻したじゃん
――聞いた聞いた。リストラに遭った人なんでしょ? 可哀想だよねえ
――可哀想なのはあたしの方だよ、先頭車両だったからさ、ちょっとだけ……見ちゃったんだよね
――見ちゃったって、なにを?
――飛び込む人
――うわあ、グロ!
――でもさ
――なによ
――あたしが見た時、その人、一人じゃなかったと思うんだよね