第5話 作戦開始
「かしこまりました。私がチェスを覚えれば一件落着ということですね?」
「え? いや別にチェスがどうこうって言うわけじゃなくてね」
「良いでしょう。三日間猶予をいただけますか。三日後キース様とチェスで対決し、もし私が勝ったら、どこの馬の骨とも知らぬ小娘をこの騎士団に引き入れるなんて戯言は今後一切言わないとお誓いください」
「や、あのだからね?」
「失礼しますっ!」
ユールはぷんぷん怒りながら団長室を後にした。
ここ最近キースは、口を開けば例の二人のことばかりだ。
おそらくその二人がともに男であれば、ユールも特に気に留めなかったことであろう。
しかしそれがキースと一つ違いの女の子となれば話は別である。身勝手極まりないのは百も承知だが、キースにそのような小娘を近づけさせたくはない。
「はぁ、少し頭を冷やすか」
ユールは息を深く吐き、歩を進めた。廊下をしばらく進み、両開きのドアを開けるとその先に望めるのはキリニア海の遠望だ。
今ユールたちがいるここは船の上なのである。つまりは洋上、ガルダ乗りたちの戦場だ。
「あ、ユール様。次の目的地のグラナダ島が見えてきたっスよ」
「見ればわかる」
ユールに声をかけてきたサル顔の船乗りに、彼女は顔を向けることもせずに答えた。
ユールにはキース以外の男の顔の見分けがつかない。ともすればサルとも見分けがつかない。まあそれは冗談だが、それくらいにキース一筋なのだ。
「キース様にお伝えしろ」
ユールがそう指示を出すも、サル顔の男は戸惑ったような顔をして渋った。
「え、俺が直でっスか? それいいんスか? そういうのはいつも全部ユール様を必ず通すようにと」
「いいからしろ。今ちょっと口げんかして出てきたところだから、すぐ戻るのは気まずい」
「は! そういうことでしたらお安い御用でございやす!」
男は嬉しそうに敬礼する。ユールに頼られるのが嬉しくて仕方ないらしい。
「いやぁ、しかし妬けますなぁ~。ユール様みたいな別嬪さんに、俺も世話してもらいてぇなぁ。あんなこととか、こんなこととか~」
「お前、私に殺されたいのか」
ユールが殺意を込めた目で男を睨みつける。しかし男は一切動じず、どこか冗談めかし、
「きゃーもっと睨んでー、蔑んでー、なんつって。ぐほっ!」
ユールの蹴りが男の腹部に突き刺さる。彼は体を折って倒れ込みながらも、表情は晴れやかだ。
「もういい。私が自分でお伝えしてくる」
ユールは男を捨て置ききびすを帰し、団長室を目指す。
団長室の扉の前に立ち、幾度か深呼吸をして、ノックのために腕をあげた瞬間だった。
唐突に扉が開き、キースが姿を現した。
「あ、ユールおかえり」
部下であるユールにあのようなわがままを言われておきながら、キースはまるで気にかけた様子もなさそうに、優しく微笑んでくれた。ユールは一瞬何も考えられなくなった。
「……ユール?」
「あ、すいません。グラナダ島が見えてきたとのことでしたので、そのご報告に」
「へぇ、そうなんだ」
キースはそのままユールの横を通り過ぎ、外を目指していく。次の島を一目見ようとしているのだろう。ユールのことなどもう視界に入っていないようだ。
ユールはうつむく。
しかしその背中に向かって、キースは優しく声をかけてくれた。
「ユールどうしたの、早く見ようよ」
「え?」
「ほらおいで」
今度は腕を引かれた。それにされるがまま、ユールはキースもろとも外に出る。
視界の限りに広がるキリニアの海。その先に一つの大きな大きな島がある。
それを二人並んで見つめていると、不意にキースが口を開いた。
「これからどんなに仲間が増えても、僕にとって一番信頼をおける相手はユールだよ」
思わぬ言葉にユールは顔を上げる。キースは海のほうに視線を向けたままだ。
「それはずっと変わらない。ユールが僕のそばにいてくれる限り、ね」
その言葉の意味をかみ締めた瞬間、ユールはまたもうつむいた。恥ずかしさにもう顔が真っ赤なのが自分でもわかった。
「私はずっとおそばにいます」
「そっか、よかった」
キースはようやくこちらに顔を向け、にこやかに笑った。ユールにその表情を直視することはできなかったが。
それより、自分には謝らねばならないことがある。ユールは小さく息を吸い、その言葉を告げる。
「先ほどの話は、どうかお忘れください。例の二人の件、私も最善を尽くします。わがままを言って申し訳ありませんでした」
「え、いいの?」
「はい。その代わり、一つお願いがございます」
ユールはキリニアの海に視線を向ける。
「私にチェスを教えてくだ――」
「ちょっと待って」
キースは手で制した。ユールがむくれ顔で彼のほうを見ると、彼の視線は海のほうへ向いていた。
よく見ると、そちらから一匹の鳥が飛んできている。それはガルダと比べると遥かに小柄で、手の平サイズの鳥である。
シムルグという伝書用の鳥で、ガルダと比べても圧倒的に持久力が高く、大陸から大陸へ縦横無尽に飛び回ることも可能だ。
キースの肩に止まったそのシムルグの足元には、紙が結ばれていた。キースは一瞬ユールのほうを見てきたので、頷いて返す。恐らく仲間からの連絡だろう。
手紙を開くと、そこには見慣れた筆跡が。
「ルドルフさんの字だ」
そう呟いて、しばし目を走らせた後、彼は再びユールのほうを見た。
「奴らの潜伏場所を見つけたそうだよ」
「ほんとですか⁉」
「ただし、」
驚きに思わず声をあげてしまったユールに、キースは続ける。
「良い知らせだけじゃない。もう僕たちには時間がないみたいだ」
大都ウォルガナ王国には無敵を誇る騎士団が存在した。
その名も鳥竜騎士団。
選りすぐりのガルダ乗り百五十名により構成された、最強の騎士団だ。
その鳥竜騎士団を率いるのが、若くして最強のガルダ乗りと評されるキース・カルシュタインである。
キースはウォルガナの国王より、ある命を受け、キリニアの海に飛び出していた。現在はその任務を果たすための情報収集中だ。今のところ目ぼしい成果は得られていないところであったが。
ついに副団長のルドルフが決定的な情報を手に入れた。
キースたちはようやく本作戦に移行することになる。