灼熱の王は月を仰ぎ笑う(イラストあり)
汐の音さまから素敵なイラストを頂きました。ありがとうございます!挿し絵として使わせて頂いております。
圧倒的な力をダハブは欲した。
寝室に剣を置かずともよい生活を。
些細な物音で目を覚ます心配のない夜を。
毒味係がいなくても口にできる食事を。
その為に、弟の純粋な復讐心を利用した。
弟アスワドは、真っ直ぐにしか進めない男だ。駆け引きが下手だとかそういうことではない。一つの目的に対して、一つの道しかいけないのだ。
その道がどんな荒れ果てた場所でも、構わず突き進む。血を流し、身を切られてもアスワドの剣が鈍ることはない。
しかし、目的を達成するとアスワドは途端に不安定になる。進む道を決めなければ立ち止まる。それは休むことではない。アスワドが止まる時は、彼がこの世にいないことを意味する。
進むか死ぬか。
アスワドの生き方は燃え尽きようとする蝋燭のようだ。
そんな彼が一人の少女のために、牙を剥くという。ダハブは最初、耳を疑った。それはクーデターが成功しないと危惧したわけではない。アスワド一人ならば、あの愚か者たちなど、一捻りだろう。
ダハブが懸念したのは、全てを終えた後のことだ。
千人の敵を凪ぎ払い佇む男を一人の少女が受け止められるとは思わない。
アスワドは今、国を滅ぼし、一人の少女を王にすることしか今は考えていない。その後、アスワドの狂気を一人の少女に晒すことなど考えてはないだろう。
そのせいで、何よりも大切なものを壊すかもしれないことをアスワドはまだ知らない。それは自分さえも壊してしまうかもしれないことに、まだ気づいていない。
――馬鹿な奴だ。
アスワドの漆黒を見ながら、ダハブは一人、毒吐く。しかし、アスワドの気質をよく理解しているダハブは弟が歩むかもしれない暗い道を教えなかった。
――言ったところで聞く耳は持たないしな……
修羅の道へ引きずり込んだのは自分だというのに、今さら違う道を教えることもできない。ならば……
「分かった。お前に協力する。輿入れという形で彼女を迎え入れよう」
弟が行く道に落ちている石ころ一つでも、拾ってやろう。それぐらいしか、兄としてできることはないのだから。
カロリーナの輿入れは通常の手筈を踏んで行われた。故に、彼女自身もこれが保護ということは伏せられている。その事実を知るのは信頼に足る側近一人だけだ。
側室を迎え入れたら慣例として寝所を共にする。寵姫らしい寵姫を持たないダハブは夫人や側室には公平だった。公平だからこそ血肉を争う揉め事は起きていない。水面下でいざこざはあれど、自分の母たちの時代に比べれば、可愛いものだ。
異国の若い姫。見目が珍しいカロリーナは嫉妬の対象になるだろう。一度も召さないと、それはそれで彼女を卑下する者が出るかもしれない。
だが、召しても手を出すつもりはなかった。アスワドは純潔を奪ってほしそうな事を言っていたが、ダハブからすると、冗談じゃないと言いたい。当て馬になるつもりはない。それに、彼女を汚す覚悟はアスワド自身ですればよい。後は単なる嫌がらせだ。
手を出すつもりはないが、興味はあった。
――アスワドが一心に求める姫か……
アスワドが染まりたいと願う色を持つ少女。その理由はカロリーナを見て、少しだけわかった。
寝所の扉を開き、不安げな瞳で部屋に入ってきたのは雪の精だった。長い純白の髪に、白すぎる肌。何よりも瞳が珍しかった。
世界の縮図のような瞳。それに思わず魅入る。その姿はお伽噺の世界から抜け出してきたかのようだ。浮世離れしている。アスワドの心を占めるもの無理ない。
「ここへ……」
両手をついて頭を垂れる雪の精を寝台に呼び寄せた。近くで見るとますます不思議な少女だった。これから起こることを想像し、身を震わせ、うつむく彼女に小さく笑う。そして、素っ気なく言った。
「たまには誰にも邪魔されずに本を読みたい。あぁ、お前は寝ててよい」
カロリーナはパッと顔を上げ、信じられないものを見るような目でダハブを見る。その視線を気にせず、ダハブは本を開いた。
カロリーナという娘は15歳という年齢よりもずっと幼く見えた。無知のまま閉じ込められた生活をしていたため、仕方ないことだったが、ダハブは学のない女は嫌いだった。
「カロリーナの女官を変えろ。カロリーナに文字を教え、本を読ませるんだ」
カロリーナは来るべき時が来たら王となる女だ。いくらアスワドが側にいるとはいえ、愚王になられてはこちらも困る。
それにカロリーナがダハブの本を読みたそうにウズウズしているのが気になっていた。読むように促せば、カロリーナは悲しそうに首を振る。文字が読めないと悔しげな表情をする彼女に少しばかりの期待をした。
学がない女は嫌いだが、向上心のある女は嫌いじゃない。
ダハブはカロリーナの環境を変え、彼女の知識欲を満たしてやった。
カロリーナは環境を整えてやると、水を欲する乾いた大地のように、知識を吸収していった。房事はせず、ただ本を読むだけの召し抱えを数回すると、カロリーナは自分も本を持ってきてよいかと尋ねてきた。「構わない」と言うと、カロリーナは初めてダハブの前で微笑んだ。
ページを捲る音が静かに響く。
時折、音は重なった。
会話らしい会話もない。
雪の精は姿勢正しく本を読む。
彼女が読む本を観察しながら、もうそんなものまで読めるようになったのかと、感心したこともあった。
月に一度の不思議な夜。
ダハブはこの時間が嫌いではなかった。
雪の精は月日を追うごとに不思議な色香を纏うようになった。ただそこにいるだけでも不思議な彼女が、憂いを帯びた表情をすると、ドキリとしてしまうことさえあった。
最後の召し抱えの夜。
ダハブはカロリーナに尋ねた。
「カロリーナ」
本に集中していたカロリーナは呼ばれるとは思わなかったのか体を少し震わせた後、静かに本を閉じ、ダハブに向き直る。
なんだろう?と不思議そうにこちらを見る虹色の瞳に目を細めながら、ダハブも本を閉じた。
「恋をしたことがあるか?」
想像してなかった質問なのだろう。カロリーナは大きく瞳を開かせた後、戸惑うように目を逸らした。
「正直に言え」
そう言うと、カロリーナは唇に力を入れる。ぷっくりと膨らんだ唇がすぼまり、考え込むしぐさになる。小動物のようなしぐさを見つめていると、視線の強さに観念したのか、カロリーナはこくりと頷いた。
それにふっと、ダハブの表情が緩む。
どうやら弟は思いを一方的に燻らせているわけではないらしい。カロリーナの表情を見れば、その恋がまだ続いていると分かるからだ。
それをからかうつもりで、口を開く。
「その男は余程、いい男だったのか? まだ、思いがあるような顔をしている」
そう言うと、カロリーナはその場で両手をついて謝り出した。
「申し訳ありません……」
それは認めたも同然な態度だ。やや面白くない。ダハブはカロリーナに近づいた。ダハブが手をつくとベッドが音を立てて沈む。
ダハブは手を伸ばし、カロリーナの白い髪をすくい上げた。細い髪は掌で流れるように消えていく。
「その男と接吻をしたことは?」
カロリーナは顔を上げずに、体だけを震わせる。肯定の意思を感じて、ダハブはますます面白くなかった。
――手を出していたのか……案外、あいつも隅に置けない。
カロリーナに手を出すつもりはなかった。
だが、完全に忘れ去られるのも癪に触った。
――だから、これは……俺の秘密の印だ。
ダハブはカロリーナの顎を取ると、顔を上げさせた。
©️汐の音さま
カロリーナの瞳が潤み、口が薄く開かれた。本人は無自覚だろうが、誘っているようにしか見えない。色づいた唇に自身の唇を重ねようとして──やめた。無垢な唇を赤くなるまで吸い上げるのは、アスワドがすればよい。
タバブは指で彼女の唇をなぞり、細い首筋に唇を寄せた。彼の長い髪が、肩から流れ落ちる。
「っ……」
ややきつめに吸い上げると、雪の肌が赤く汚れた。やがて消える印に満足し、ダハブはカロリーナを解放した。
「ほどほどにして寝ろよ」
首筋をさすってポカンとするカロリーナを残して、ダハブはまた本を読み出した。
自分の瞳と同じ色の印を、アスワドは気づかないだろう。それがダハブには愉快だった。
あれは――
七年間、自分が夫であったという印なのだから。
カロリーナが雪の国に帰り、ダハブは一人本を読んでいた。はらりとページを捲る音はもう重ならない。それが少しだけ寂しくもある。
ふと窓の外を見ると、月が出ていた。月は三日月の形をして夜に浮かんでいる。黒い雲が月を通りすぎて、時折月を消す。闇が月を喰らうような光景に、ダハブは同じような笑みを口元に作る。
「闇が月を喰らうのが先か」
「月が闇を照らすのが先か」
「あるいは……」
「双方があるから、夜は美しいのか」
これから弟が歩む道を思い、ダハブは本に視線を戻した。