王女は雪の大地で幸福な夢を見る
ハマムの生活は塔の生活と同じように淡々としていた。朝は蒸し風呂に入り、側室たちで肌を磨きつつ、情報交換というおしゃべりに華をさかせる。
それが終わると、礼拝をし、食事を頂く。
陛下がハマムを訪れるまで暇だ。
カロリーナはその時間を本を読むことに費やした。
陛下が読書をしていたのがきっかけだ。
学がなかったので、文字を覚えることから始めたが、たまたまカロリーナに仕えた女官が物知りで教えてくれた。
知識を吸収するという楽しさをカロリーナは覚えていった。
ここは故国とは違い、本を読むのに制限はない。与えられた絵本しか読めなかったカロリーナにとって本は衝撃の連続だった。
地図を覚え、世界の広さを知った。
遠い母国の位置を知ってはため息をついた。
時間をもてあましたカロリーナはいつしか母国のことを調べ出す。しかし、世界中のあらゆる書物がある蔵書室にさえ母国のことが記述されているものはごくわずかだった。
雪深い土地。
これといって特産品もなく、珍しい毛皮がとれるということと、ドラゴンの信仰が根付いた土地だというだった。白いドラゴンの地とも呼ばれるらしい。
前にドラゴンのモチーフを折った膝掛けを渡したけど、あれは間違っていなかったんだわ……
こんなところで自分の行いが間違っていなかったと知るなど皮肉だなと感じつつも、カロリーナの胸には暖かいものが灯っていた。
そして、七年の歳月が経った。
◇◇◇
「今……なんとおっしゃいましたか?」
後宮監督官に呼ばれたカロリーナは言われたことが理解できずにいた。
「お前の母国がクーデターにより滅んだ。新しい国となる。それに伴い同盟国の我が国と再度、講和が結ばれた。新たな側室を迎える手筈が整っている」
自分の家族に思い入れは薄いが国には思いがある。美しい雪の国が滅んだ。カロリーナは信じられない気持ちだった。
「陛下からお前を故国に戻すようにとお達しがあった。準備せよ」
帰れる……?
あの雪の国に。
頭はまだ混乱していたが、それだけは嬉しく思った。
一ヶ月をかけて船と陸路で母国に戻る。
その間、カロリーナには物々しい警備兵が常にそばにいた。まるで逃げ出すなと言われているような雰囲気だ。
聞いた話では新しく国を治めたものは王とはならず王の代理を名乗っているらしい。
どういうことだろう。
分からないことが多すぎた。
自分を母国に戻してどうするつもりなのだろう。よほど強い恨みを抱いて血を絶やしたいということなのだろうか。
カロリーナはぎゅっと体を抱き締めた。
迫り来る死に恐怖した。
しかし、それにも勝るものがある。
アスワドは……マーディは無事なのかしら
大切な二人の安否が知りたくて震える足を叱咤してカロリーナは顔を上げた。
雪の国までもうすぐだ。
帰国した季節は冬だった。
さくり、さくり。
懐かしい雪の感触を感じながら進む。
王宮は様変わりしていた。
遠い記憶に見ただけだったが、雰囲気が変わったような気がする。華やいで見えた王宮は静まり返っていた。それ自体が牢獄のように見え、カロリーナは体をぶるりと震わせた。
入ったことのない謁見の間で手をついて、頭を下げる。
カツン、カツン。
やがて、大理石の床に靴音が響きだした。それが赤い絨毯を踏んだのか音が無くなる。
「お帰りなさいませ。カロリーナ様」
聞き覚えがある優しい声にはっとする。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、黒い服を纏った国王代理がいた。
「っ……」
懐かしい優しい眼差しはそのままだ。
何も変わっていない。
騎士の服のままのアスワドにカロリーナはアース・アイを大きく広げた。
なぜ、アスワドがここにいるのか。
クーデターを起こしたのが彼だとはとても信じられなかった。
カロリーナは聞きたいことがたくさんあった。あったはずなのに……アスワドの顔を見ただけで遠い日に仕舞った恋心の蓋がカタカタと音を立てて開かれようとしていた。
そんな浅ましさを恥じた。
そして、また無理やり蓋をして鍵をかけた。
クーデターを起こしたということはアスワドにとって私は憎い敵のはずだもの。
浮かれる心を叱咤して、アスワドを見つめていた。
アスワドは優しい笑みのままだった。
何もかもが変わらない。
アスワドはカロリーナの前に立つとそのまま跪く。
「カロリーナ様。ずっとお帰りをお待ちしておりました」
「え……?」
促されるまま手を引かれ、立ち上がる。
そして、漆黒の瞳は細められた。近くでみた瞳にカロリーナの心臓はどくんと、音を立てた。声色は穏やかなのに、彼の眼差しはあの頃と変わっていた。
例えるならそう。
男が女を見る眼差しだ。
幼い姫に仕える騎士の眼差しではなかった。
ぞわっと鳥肌が立つ。
それは、自分の内から出る熱情なのか、それともアスワドの熱情にあてられたのかカロリーナは分からなかった。
黙ったままでいるカロリーナにアスワドはにこりと微笑んで手を繋ぎ直す。
「行きましょう。会わせたい人がいます」
カロリーナは繋がれた手の力強さを感じながら、足を動かした。
静かすぎる廊下を歩いてある部屋に案内される。錆びた音を立てて扉を開くと懐かしい顔が立っていた。
「マーディ……?」
「カロリーナ様!」
マーディはカロリーナの姿を見ると涙を流し抱きついてきた。肩を震わせ嗚咽まじりに何度も何度もカロリーナの名を呼ぶ。
カロリーナは顔をくしゃっと子供のように歪ませた。会いたかったぬくもりとようやく再会できた。
「マーディ……よかった。無事で……」
存在を確かめるようにマーディの背中を抱き締める。七年の空白の期間を埋めるように抱き合うと、ずいぶんと気を張っていたんだと改めて感じた。
「カロリーナ様こそご無事で。お元気そうで何よりです」
涙ながらに語るマーディを見て、カロリーナはやっと微笑みを出した。
「話すことはたくさんありますが、お茶を入れてきましょう。ミルクがたっぷりと入った甘いお茶を飲んでゆっくりお話しましょうね」
そう言うとマーディは一礼して部屋を出ていった。残されたカロリーナはアスワドを見据える。眼差しの熱は変わらない。それが居心地が悪くて、 視線を反らした。喉がヒリヒリしてうまく声が出せない。しかし、カロリーナは聞かなければならないと思っていた。
彼が国王代理である理由を。
「なにがあったの……?」
やっとのことで出た言葉は震えていた。アスワドが近づく気配を感じる。視線の先に彼の黒い靴が見えて、カロリーナは顔を上げた。
「私はあなたが在るべき元にお連れしたかっただけです」
それにカロリーナはアース・アイを大きく広げた。それはどういう意味……?と問いかけようとした時、ドアがノックされた。
マーディがお茶を用意して来てくれたのだ。
「カロリーナ様の大好きなホットミルクティですよ。さぁさぁ、あたたかいうちにお召し上がりください」
冷たく張りつめた空気が一瞬にして穏やかなものとなった。それにカロリーナがホッと胸を撫で下ろした。
久しぶりに飲んだミルクティは懐かしい味がした。砂漠の国では冷たいミルクティみたいなものを飲んだことはあるが、ホットは飲んだことがなかった。冷たい体を温める甘い味。飲むと、緊張がやわらぐ。
カロリーナの頬が赤く熱を帯びてきたのを見届けてマーディはゆっくりとカロリーナがいなかった七年間の話を始めた。
「この国の王家には祖先は白いドラゴンになった姫だと言われています。カロリーナ様も聞いたことがありますね。お伽噺としてですが」
カロリーナが雪を見ては慰められていた話だ。それが自分の祖先だとはカロリーナは驚きでミルクティのカップを落としそうになる。
「この国の王家の中では、白いドラゴンの娘と呼ばれる容姿を持つ者が稀に生まれました。そして、その者は……」
言葉を濁し俯いたマーディにカロリーナはそっとカップをソーサに置いた。察しはついていた。
「私がその白いドラゴンの娘なのね」
そう言うとマーディは皺の深くなった目を悲しそうに開いた。
「そうです。白いドラゴンの娘は白い髪に不思議な瞳を持っています。まるでドラゴンが天空から地を眺めているような」
自分のアース・アイを思い出す。父が疎み、アスワドが褒めてくれた瞳を。
「白いドラゴンの娘は王家から隔離されました。理由はドラゴンになる力を恐れてとか、ドラゴンの信仰の深いこの地に力を持たせないためとか言われていますが、確かなことは不明です。しかし、白いドラゴンの娘は不遇の境地に立たされたのは確かです」
理由が不明……
その言葉でカロリーナは全身から力が抜けたように感じた。
そんな理不尽なことで自分は閉じ込められ、得るべきものを得られなかったのか。
明確な理由があれば、その方がましだった。しかし、これではあまりにも……
「カロリーナ様……」
アスワドが心配そうにふらつくカロリーナの肩を抱いた。その支えに触れると涙が零れそうになる。それをカロリーナは懸命に押し止めた。
「ごめんなさい。続けて……」
マーディは深く息を吐き出すと続きを話し出した。
「私たちはカロリーナ様を悪意から遠ざけたかった。日の当たる所へ出てほしかった。だから、カロリーナ様を私たちの生まれ故郷へ遠ざけたのです」
二人は同郷? そんな話は今まで聞いたことがなかった。
「そこにいるアスワド様はあなた様が嫁いだ王の側近だったものです」
パッとカロリーナがアスワドを見つめると彼は目を優しく細めた。
「私は現国王ダハブ様の腹違いの兄弟です。母の身分が低く、王位継承からは離れていますが、ダハブ様が王となるとき色々手助けをしたのですよ」
淡々と告げられる事実にカロリーナは混乱した。何も言えずに、ただアスワドを仰ぐしかできない。
「カロリーナ様がこの国を出てから、あなたを傷つける害悪は排除しました。元々、貧しい人々に過度な納税を強いて権力を貪っていた連中です。しかも、白いドラゴンの娘を隔離していたことも反発心を生む原動になりましてね。最後は呆気なかったです」
アスワドの声は穏やかだと言うのに、カロリーナはその声の裏にほの暗い何かがあるような気がしてならなかった。
気がついたら、もう戻れないような……そんな恐ろしさが忍び寄っていた。
「それで、あなたは私に何を望むの?」
そう言うとアスワドは首を竦める。
「先ほども言いましたが、私はあなたが在るべき場所にいさせたかっただけです」
その言葉にカロリーナは一つのあり得ない未来に辿り着く。
「まさか、私に王になれとでも言うの?」
そう言うとアスワドはそれはそれは嬉しそうに微笑んだ。
「そんな……無理だわ。だって私は……」
カロリーナは何も知らない。この国のことも国民のことも。何も知らないただの人間が王冠など頭に乗せられるわけはなかった。
「私たちがいます。カロリーナ様」
マーディがカロリーナの手を取る。肩はアスワドが支えてくれる。
「あなた様は誰よりも優しいお心の持ち主です。きっと、民を導く女王となれます。お願いです、カロリーナ様」
マーディのすがるような声にカロリーナは眉を潜ませた。自分は王の器ではない。こんなのお飾りの王だ。
でも……何よりも大切な二人が望むなら……
自分はできることはしたいと思った。
「わかったわ。顔を上げて、マーディ。私にできることなら何でもするから」
そう言うと、マーディは目尻の皺を深めて涙を零れさせた。カロリーナを抱きしめながら、すすり泣く声を聞きながら、カロリーナはその背中を何度も何度も撫でた。
それからは、カロリーナにとって目まぐるしい日々が始まった。正式に女王の王位継承のお披露目をする準備に忙殺されていた。そして、同時にアスワドとの婚礼も発表されるという。その事態にカロリーナはこれ以上ないくらい驚いた。
「アスワドと結婚……?」
「はい。まだ聞いておられませんでしたか?」
ドレスを仕立てる準備最中、聞かされた事にカロリーナは今度こそ驚きすぎて目眩を起こしそうになった。
「アスワドがこの国にクーデターを起こした英雄だから? だから、ドラゴンの娘を花嫁にすれば、磐石の体制になるわ。だから……!」
興奮して言うカロリーナをマーディは悲痛な面持ちで見つめた。
違う。カロリーナとてわかっている。アスワドはそんな事をする人ではないと。でも、そう思った方が理屈が合うと思ってしまうほど、信じられなかったのだ。
「だって……アスワドは……今までそんな事微塵にも……」
本当に合っただろうか? ここへ帰ってきた時のあの熱い眼差し。時折見せる彼の激情をカロリーナは見ていた。
「カロリーナ様。アスワド様とよくお話ください。あの方はカロリーナ様を深く思ってますよ」
マーディの優しい言葉にカロリーナは小さく頷いた。
その日の晩、やはり雪は降っていた。
黒い空から白い雪が舞う光景は幻想的でこの世とは隔離された別世界のように感じる。
灯りをつけず暗い部屋でアスワドは空を仰いでいた。月が白い雪を照らし、夜だというのに随分と明るい。そして、アスワドの横顔を冷たく照らしていた。
カロリーナに気付き、アスワドは微笑んだ。
「カロリーナ様」
その声を聞いた時、カロリーナは胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
何度も何度も諦めた恋心がカタカタと音を立てて蓋を開けようとする。それを感じてカロリーナは目を伏せた。
伸ばせば手に入る距離に焦がれたものがある。欲せずにはいられない。
カチャリと、蓋が空いた。
「アスワド……その……」
解放された恋心に戸惑いながらカロリーナは頬を紅色に染める。言葉がうまく出てこない。たった一言がこんなにももどかしい。
「私とあなたが結婚すると聞いて……」
伝えたいことが羞恥心で隠れてしまう。これでは結婚したくないように受け取られてしまう。
カロリーナは高鳴る心臓の音を全身で感じながら、必死に口を動かした。
震え固まるカロリーナにアスワドはゆっくりと近づいた。
「私と結婚するのは嫌ですか?」
「っ……違う!」
弾けるように顔を上げたカロリーナにアスワドは瞬きをした。カロリーナはまだ動かしづらい口を必死に動かした。
「結婚したくないわけじゃないの! ただ……信じられなくて」
はらりと涙が零れ落ちた。雪のように静かに。
全てを諦めていた。
この雪の地の居ることも。
好きな人たちに囲まれて暮らすことも。
なのに……全てがカロリーナの望むままに手の中にある。
まるで淡い雪のようだ。太陽に照らされたら溶けて消えてしまいそうな……雪のような幸せ。
「カロリーナ様」
アスワドがカロリーナの零れ落ちた涙をすくい上げる。そして、これが現実だと教えるように抱き寄せた。
「愛しております。ずっと前から」
優しい声にカロリーナの視界が歪む。震える手でアスワドの背中に手を回した。確かなあたたか、力強さがカロリーナを七年前に戻す。
雪の中でキスをしたあの頃に。
「私も……ずっと好きだっ……たの……!」
声を出して泣いた。
もう泣くまいと七年前に思ったのに、アスワドの腕の中にいると、子供に戻ってしまう。もう離したくないとカロリーナは心で叫びながら、いつまでもアスワドの腕の中にいた。
その後、アスワドとカロリーナは夫婦となり、カロリーナは女王の地位に就く。アスワドは王配となり、彼女の全てを支えた。
忙しく過ごす中で、夜の一時だけが二人だけの時間になっていた。暖炉が灯る部屋でカロリーナは甘えるようにアスワドにすり寄る。その頭を優しく撫でながらアスワドは不意にカロリーナに尋ねた。
「カロリーナ様……幸せですか?」
すでに微睡んでいたカロリーナはふわふわと夢見心地になりながら、無邪気に微笑む。
「えぇ……だってアスワドがいるもの」
そう言うとアスワドの口元が弧を描く。歪んだ口元は微睡むカロリーナには優しい微笑みにしか見えない。
「私が居なくなったら悲しいですか?」
「とっても悲しい……きっと死んじゃうわ」
か細く呟きすり寄ってきたカロリーナをアスワドは笑って見つめていた。
「大丈夫ですよ。ずっと側にいます」
「二度と離れませんから」
アスワドの言葉に安堵して、カロリーナはふにゃっと笑顔になる。その愛らしい唇に自分のをおしつける。カロリーナはくすぐったそうに身じろいだが、眠気が勝ってすぐに夢の中へと旅立つ。
「ずっと一緒に……死ぬときも側に……」
アスワドの言葉はほの暗い熱情を孕んでいた。
外は雪が降っていた。
しんしんと静かに降るそれは、まるで二人だけの世界を作り、閉じ込めてしまったかのようだ。
それをアスワドは心の底から喜んでいた。
ここまでが王女視点の本編になります。
ダークサイドは騎士と侍女編になります。