王女は灼熱の大地で雪を思い出す
目の前に広がる砂の大地。
太陽が肌を焦がす。
風は吹き荒れ、砂を巻き上げている。
何もかもが違う世界にカロリーナは呆然とした。
さらに彼女を呆然とさせたのは、迎え入れられた側室の生活だった。
カロリーナを娶ったのは砂漠の若き王で離宮にはすでに30人の側室がおり、ハマムの頂点として陛下の子を生んだ2人の夫人がいる。すでに夫人の一人は寵姫と呼ばれ夫人間で争いが繰り広げられていた。
ぽっと出の若い異国の娘など、そんな争いについていけるわけもなく、カロリーナは息を潜めて過ごした。
慣れている。
自分がいないものとして過ごすのは。
陛下が時折、カロリーナを召し出すことはあったが、寵を受けるほどではなかった。陛下は変わっており、カロリーナを召し出した時は房事はせずにただ本を読んでいた。
「たまには誰にも邪魔されずに本を読みたい。あぁ、お前は寝ててよい」
そう言われ続けたのでカロリーナは拍子抜けした。
この容姿を気に入っての輿入れかと思ったけど違うのね。
ちょっと肩透かしを食らったが、しかし、陛下へ全てを捧げる気になどなれなかったカロリーナにとっては都合が良かった。
カロリーナの容姿は珍しい。
特に瞳が特徴的だ。
アースアイとも呼ばれる瞳は明るいアクアブルーの色をしているが、瞳の中心にむけて茶色とオレンジ色が入っている。
アスワドに言わせれば、空から大地を見下ろしたような瞳だと言われた。小さな島が海に浮かんでいるような色彩。
カロリーナは海を見たことはなかったが、その表現は素敵だなと感じて、気に入っていた。
髪色は純白だった。
老人みたいだ、とカロリーナは思っていたが、アスワドが雪のようだと言ってくれたので、好きになれたものだ。
この容姿はカロリーナにとってコンプレックスだった。家族に疎まれる容姿をアスワドは誉めた。優しい声で誉められれば、本当に素敵なもののように思えてくるから不思議だ。
砂漠の大地を見ながらいつも思い出すのはアスワドのことだった。
異国から来た黒い騎士はカロリーナの生活を一変させた。
それは、白い世界に一点の黒の滴を垂らしたようなそんな劇的な変化だった。
◇◇◇
カロリーナは第一王女だったが塔に一人で暮らしていた。
母はカロリーナを産んですぐなくなり、父は生きているが、会うことはほとんどない。母の代わりに側室だった人が皇后となり、妹が産まれている。
彼女の世話をするのは、生まれた時からそばにいる侍女のみだった。
その容姿から人前に出るのは固く禁じられていた。時々くる父はカロリーナに繰り返し言った。
「お前の瞳を見ると皆、怖がってしまうんだよ。古い魔法が宿っている瞳だからね。だから、決して外に出てはいけないよ」
カロリーナは父の言葉を信じた。それは、父が彼女を見るときは決して目を合わさなかったのと、触れられたことがなかったからだ。
私の目は魔法がかかっている。
それは、きっと良くないことなんだ。
悲しむカロリーナを慰めてくれるのは、寄り添う侍女と、しんしんと降る雪だけだった。
カロリーナが12才の時、アスワドがやって来た。異国からやってきた騎士は全身黒ずくめで冷徹な印象だったが、瞳は優しかった。
「初めましてカロリーナ様。今日からあなた様の専属騎士となるアスワドです」
カロリーナは黒い騎士をまじまじと見つめふいっとそっぽを向いた。
「私に騎士なんて必要ないわ。だって、ここには誰も来ないもの」
もうとっくに諦めていたと思っていたのに、言葉に出すと心に空いた穴にひゅーひゅー風が吹く。それを認めたくなくて、胸の辺りをぎゅっと握りしめた。
「でも、あなた様の騎士にと、陛下に任命されました。お仕事をしなければ、私は明日のパンも買えません」
肩を竦めて言うアスワドにカロリーナは瞬きをする。王族の専属騎士になるのは、お金よりも名誉として受ける者が多いはずだ。専属騎士として勤めれば、王家に入り婚姻を結ぶこともある。
だから、妹のキャロラインは自分好みのお抱え騎士をたくさん引き連れている。
まるでコレクションのようにと侍女から聞いていた。
なのに、この黒い騎士はお金のためだと言う。
それにも驚いたが、何より低い穏やかな声が、カロリーナの警戒心を解いた。
「パンも買えないようではかわいそうね…いいわ。専属騎士になってください。でも、本当にやることないわよ?」
「カロリーナ様のそばにいるのです。やることはたくさんあります」
穏やかな微笑みのまま、アスワドはカロリーナに近づいた。そして、目の前で跪く。
「騎士の誓いをしてもいいですか?」
「え……」
騎士の誓いは主に服従を誓う儀式。跪き主のマントを手にとりそこに唇を寄せる。
この国の古くからの誓いの儀式だ。
「私……マントもないし……服だってこんな……」
カロリーナの服は王女とは言えないものだった。厚手のオーバーは古びてほつれている。その下のドレスも動きやすさを重視して、華やかさもなにもない。
王女というより使用人というような格好だった。
「カロリーナ様に誓うのですから、格好は関係ありませんよ」
心地よい低音の声が響く。
カロリーナは頬を染めてアスワドを見つめた。
アスワドは目を細め優しい笑みをカロリーナに向けていた。純粋に慕われているような笑みに居心地が悪くなる。困っていたカロリーナのスカートを音もなくアスワドが掴んだ。
はらりとスカートが広がった。
アスワドが目を閉じて、薄い布に唇を寄せる。
重厚なマントはない。
荘厳な部屋も、赤い絨毯もない。
誓いを見守る王の目も何もない。
それでも、それは騎士の誓いだった。
「っ……」
カロリーナは小さく息を飲んだ。
心臓が止まって、動かなくなってしまうのではないかと不安になる。
瞬きもできずに見つめていると、アスワドが目を開けてスカートから手を離す。
瞳が合ってまた、細められた。
今度こそ、カロリーナは心臓が止まってしまうと感じた。
――――――――――
白い何もない世界に一点の黒が落ちる。
すると、どうなるだろう。
白い世界がもし、紙だったのなら…
小さくとも黒い滴は紙を染める。
じわり、じわり。
薄く伸びながら。
ゆっくり、ゆっくり。
白は色を変える。
白が気づいた時にはもう。
黒は世界の一部となっていた。
――――――――――
カロリーナの日常は平坦で代わり映えしない。
絵本を読み、織物をおり、編み物をする。それだけだ。
織物は膝掛けにして恵まれない子供達へ寄付していた。
カタン、カタン
機織りに集中して一息つくと、視線に気づく。アスワドが微笑んでカロリーナの姿を見つめていた。
また、居心地が悪くなる。
慣れない視線のあたたかさに戸惑う。
アスワドは最初はカロリーナが話しかけなければ話しかけてこなかった。ただ、そばに居て控えている。
優しく微笑む姿に耐えきれず、カロリーナは口を開いた。
「アスワド……あの……」
「なんですか?」
「あまり見ないで……じっと見られると集中できないわ」
アスワドは首をすくめて笑った。
「それは困りました。私はカロリーナ様が機織りをしている音が好きなんです。聞いちゃダメですか?」
好きという直球の言葉に戸惑った。
心がぎゅっとして苦しい。
苦しいのに嬉しい。
変な気持ちだ。
「……なら、見ててもいいわ」
異性から好意を向けられたことのなかったカロリーナの口は素直に気持ちを言えずにいた。可愛いげのない言葉だったが、アスワドは「よかったです」と嬉しそうに微笑んだ。
カタン、カタン
静かな塔に響くのは機織りの音。それにパチパチと暖炉の火が燃える音のみ。二人にそれ以上の会話はない。
だけど、二人の距離は縮まっていった。
しばらくして、警戒心を解いたカロリーナはよくアスワドに話しかけた。
アスワドは物知りだった。
カロリーナの知らない異国の地をよく知っていた。
「まぁ、それじゃあ、異国には雪が降らない場所があるの?」
「はい。暖かい場所も多くありますからね。雪がこんなに降る土地は珍しいです」
「そうなの……雪が降らないなんてつまらないわね」
そう言うと、アスワドは珍しく驚いた顔をした。だが、それも一瞬で、またすぐに穏やかな表情に戻る。
「カロリーナ様は雪が好きなんですね」
アスワドの言葉にカロリーナは満面の笑みで答えた。
「好きよ! だってすごく綺麗じゃない」
弾むような声を出すと、アスワドはまた驚いた顔をした。それを気にすることもなく、カロリーナは続ける。
「アスワド、知ってる? この国には、古いおとぎ話があるのよ」
そのおとぎ話は、よくある姫と騎士の話だった。
ある国では白い姫が囚われていた。
そこへ、黒い騎士が現れ姫を助ける。
しかし、騎士は姫にかけられていた強い呪いに負けて、亡くなってしまう。
姫は嘆き悲しみ白いドラゴンとなる。天に昇った彼女は黒い騎士を思い、涙を流し続けた。
涙は雪となり、この地にいつまでも降り続けたというものだ。
「悲しい話だけど、私は好きなの。雪を見ていると、今でも泣いているのかしら? と思ってしまう。泣かないで、泣かないでって……声をかけたくなるわ」
そう言うと、アスワドは眩しそうに目を細める。
「お優しいのですね。カロリーナ様は」
アスワドの言葉に、カロリーナは首を振った。
「それは違うわ、アスワド」
カロリーナは苦笑いをする。胸に開いた穴を話すときはいつもそうだ。顔が自然と歪んでしまう。
「私はただ同情してるだけよ。自分より不幸になった姫に」
カロリーナが塔の外を見つめる。
今も雪が音もなく降っていた。
一人で泣いているように。
「自分より不幸な話を思って、自分のことを少しはましと思いたいだけなの。最低でしょ?」
悪戯っ子のように舌を出すと、アスワドの顔から笑みが消えた。
近づきすぎて、余計なことを言ってしまったかも…
カロリーナは不安に思ったが、なぜだろう。そんな醜いところも知ってほしいと思ってしまった。
そして、アスワドならきっと……
「いいえ、最低ではありません。人間らしい感情です」
きっと、受け入れてくれる。
「カロリーナ様は最低ではないです。ごく普通の女の子ですよ」
微笑みと共に言われた言葉は欲しかった以上のものだった。
普通の女の子。
異端として見られたカロリーナにとっては胸をつくものがあった。
緩んだ涙腺を見せたくなくて、カロリーナはくるっとアスワドに背を向ける。
「ありがとっ。ちょっと、こっち見ないでね」
最後の言葉は掠れてしまった。
そして、言葉を吐き出すと共に一つの涙がこぼれた。
「はい。見ませんよ」
だから、泣いていいですよ。
そう言われたような気がした。
きつく口を閉じる。
嗚咽が漏れないようにきつく。きつく。
アスワドはカロリーナが落ち着くまでそばにいた。何も言わずに、触れることもなく。ただ、そばに。
それが心地よくて、カロリーナはあぁ、ダメだなと感じていた。
胸に開いた穴が、ゆっくりと埋まる。
ちょっぴり切ない気持ちで埋まっていく。
この日、カロリーナは初めて恋を自覚した。
恋を自覚しても、それを伝えることをカロリーナはしなかった。
アスワドは異国の騎士だ。
きっと、この地に留まることはない。
だから…そっと仕舞っておこう。
大切な宝物のように。
そうは思っていても、世話をする侍女のマーディには気づかれたようで、「最近、姫様の声は嬉しそうですね」と言われてしまった。アスワドがいない時に。
カロリーナは、頬を染めて「気のせいよ」と言ったが、マーディは目尻のシワを寄せて嬉しそうに微笑んでいた。
アスワドは塔を離れることがしばしあった。騎士の稽古だと言っていたが、そのついでにカロリーナか織った布を寄付するのを助けてくれた。
「アスワド。外に行くならこれもお願い」
「あぁ、マフラーを編まれたのですね。暖かそうだ。こちらの膝掛けも模様が綺麗ですね」
アスワドに誉められるとソワソワしてしまう。それを誤魔化したくてカロリーナはふいっと視線を逸らす。
「少しでも綺麗な方が使うときに気持ちいいでしょ? 素人が作ったものだから大したことないけど」
白いドラゴンがモチーフとなっている膝掛けは侍女の勧めでおとぎ話をイメージして作ったものだ。小さい白いドラゴンが飛ぶモチーフは苦労したが、自分ではうまくできたと思っている。だから、誉められて嬉しい。それを口にすることはまだ難しいが。
「必ず人の手に渡るようにお届けしますね」
「うん。お願い」
アスワドの言葉にカロリーナはやっとのことで微笑んだ。
出かけるアスワドを見送るとカロリーナはほっと息を吐き出す。
「喜ばれるといいですね」
優しい声をかけてくれたのは、侍女のマーディだった。
「そうね。喜んでもらえたら嬉しい」
そう言うカロリーナの表情は曇っていた。
「こんな私でも誰かの役に立つことができれば……」
そうなれば、きっと何のために生まれてきたのか少しは分かる気がした。
「カロリーナ様……」
曇った表情のカロリーナをマーディは優しく抱き寄せた。
「カロリーナ様が生きておられるだけでいいのです。お母様もきっとそれを望んでいますよ」
「お母様が……?」
聞き返すとマーディは切なく瞳を揺らした。
「ええ、お母様はカロリーナ様をとっても愛しておられましたよ」
母の代わりのようにマーディがカロリーナの頭を撫でる。それが心地よくてカロリーナは甘えるようにマーディにすり寄った。
カロリーナの中に母の記憶はない。どんな人かと聞いても優しい人としか言われなかった。だから、愛されていたといわれてもカロリーナはピンとこなかった。
マーディが優しく撫でてくれる方がずっと、ずっと愛情を感じた。
◇◇◇
塔の外へは基本、出られないカロリーナだったが、アスワドはこっそり連れ出してくれた。塔の見張りが代わって、いい加減になったんですよ、とアスワドは笑って言っていた。
頻度は多くなかったが、王宮で晩餐が行われるなど、他に意識が向いている時に外に出ていった。
「うわー。すごい! すごいわ、アスワド! 雪がお布団のようよ!」
「カロリーナ様。あまり、はしゃぐと転びますよ」
「あら、私、もう子供ではないのよ」
むくれると困ったようにアスワドは笑う。
膝まで積もった雪は歩きづらかったが、それでも懸命に足を動かした。雪を踏みしめる感覚は心地よく、いつまでも歩き続けられると思った。
「あっ!」
「カロリーナ様!」
雪に足がとられ、そのまま顔から雪に埋もれてしまう。慌ててアスワドが近づいてきた。カロリーナはカッコ悪いと思いながら、体を起こした。
雪のおかげで痛みはない。ただ、顔が冷たいだけだ。
「大丈夫ですか?」
心配そうに手をのばすアスワドを見つめてカロリーナはあることを思い付いた。
アスワドの手をとらず、カロリーナは雪の上に大の字になって寝転んだ。
カロリーナの行動にアスワドは目を丸くしている。
そんな表情を心で笑いながら、カロリーナはツンとすました表情をする。
「私は今、眠り姫なの。だから、一歩も動けないわ」
カロリーナが思い付いたのは絵本で読んだ眠りつづける姫を王子さまが助けるというものだ。自分は姫で、アスワドが王子だ。そんな夢のようなお芝居をカロリーナはやりだしたのだった。
「それは困りましたね。眠り姫はどうやったら、目を覚ましてくれるのでしょう」
アスワドはカロリーナの思い付きをバカにすることなくのっかってくれた。優しい眼差しで子供をあやすように言われる。
子供を扱いされたことにカロリーナは面白くないと思ったが、お姫様扱いされるのはいい。
「眠り姫だから、抱っこして運んで」
そう言って目を閉じる。ついでに手を胸のところで組んで本当に眠っているような格好になる。
耳に聞こえたのは、はぁと、アスワドが息を吐き出す声。それに雪を掻き分ける音。
肩に手が添えられる。少し体が浮いたと思ったら、一気に持ち上げられる感覚がした。
目を開けると穏やかな顔が思ったよりも近くにあってドキンと心臓が跳ねる。
「起きられましたか? 眠り姫様」
「っ……!」
からかいを含んだ声にカロリーナはまたドキドキした。まるでアスワドが本当に王子さまになったように感じられた。アスワドの逞しい体に身を委ねる。
それを察してくれたのかアスワドの抱き締める手が強まった。
それ以来、外に出るときは眠り姫になることがお決まりとなった。
アスワドは眠り姫を呆れることなく雪から救いだし、ぎゅっと抱きしめてくれる。その瞬間が、カロリーナは何よりも好きだった。
このまま時が止まってしまえばいい
何度も何度もそう思った。
城内の様子も一度だけ見に行ったことがあった。ただの好奇心だった。王宮での暮らしがどんなものなのか知りたかった。
マーディとアスワドは渋い顔をしたが、遠くでそっと見るだけならと許してくれた。
カロリーナははしゃいだが、すぐに二人の気持ちがよくわかった。
中庭で騎士を引き連れた妹のキャロラインが笑顔で父と義母と過ごしているところを見て。
「もう、寒い、寒い! なんでこんなに雪が降るのかしら。雪なんて全部なくなっちゃえばいいのに!」
「ははは。そうだね。お父様も雪は大嫌いだ」
「そうよね。ささ。暖かな部屋に入りましょう。キャロラインの新しい騎士の話を聞きたいわ」
「そうね。すっごくカッコいい人なのよ! お父様もお母様も見たら気に入るわ!」
目の前で消えていく三人たち。
それを隠れてみるしかできない自分。
そっか、本当に私はいない子なのね……
もうとっくの昔に諦めていたと思ったのに、バカな期待をした。
いつかは、あの中に自分が入れると思ってしまった。
「はっ……」
歪んだ表情で息を吐き出す。
愚かな自分が心底嫌いだった。
「カロリーナ様」
優しい声と共に手を引かれる。
「帰りましょう」
アスワドの声にこくりと頷いた。帰るべきはここではない。あの塔だけが自分の居場所なんだ。
「っ……」
泣くもんかと思っていたのに次から次へと涙はこぼれ落ちた。
何に対して泣いているのかよくわからない。
声を殺すように泣くカロリーナをアスワドは黙って手を引いた。
その手の強さに泣いていたカロリーナは気づかなかった。
家族との関係はすっかり諦めた。
塔で暮らす生活がすべてだ。
そこにアスワドと侍女がいれば、カロリーナは満足だった。箱庭のような世界でのささやかな幸せ。それ以外は望まないというのに、カロリーナの幸せは突然、奪われる。
それは、アスワドが来てから三年経った寒い冬の日のことだった。
「私が輿入れですか……?」
何年ぶりかに会った父に言われた言葉はカロリーナの幸せを全て奪うものだった。
「そうだ。かの大国は我が国の友好国で多大なる資金援助をもらっている。友好国へ側室を送るのは義務だ。しかし、年頃の娘はお前しかしない。キャロラインは王配を迎え、この国を治めなければならないのだからな」
抑揚のない父の声が心を凍らせる。
「お前も曲がりなりにも王女ならば受け入れよ」
王女扱いなどされたことなかった。
娘扱いさえも。
それなのに、父と名乗るこの男は今になってそれをする。
カロリーナの心の中に再びぽっかりと穴が開いた。
いや、本当はずっと開いていたのかもしれない。
埋められたと思っていたそこにあったのはただの雪で、太陽に照らされば溶けて消えてしまうものだったのだ。
そう思わなければ、正気を保てなかった。
この無慈悲な人生に。
「アスワドは……どうなりますか?」
やっと出た言葉は震えていた。父と名乗る男はつまらなそうに淡々と答える。
「キャロラインが気に入ってな……専属の騎士になる」
今度こそ、倒れそうになった。
目の前が暗くなるというのはこういうことをいうのか。震えだす両足を気力で支え、カロリーナは声を出す。喉がひきつって上手く声が出せない。
「そう、ですか……わかりました」
男に頭を下げるとさっさと去れと手を振られる。足は機械的に動き出した。
ゆっくりと動いていた足が徐々に速まる。気がつけば駆け足になっていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」
カロリーナは無我夢中で扉を開き、雪の中を駆け出した。
雪に足をとられ、倒れる。
雪の中で両手をつく。冷たさで手の感覚がなくなっていった。
「っ……」
ポタリと雪の上に熱い滴が落ちる。
ポタリ、ポタリ。
熱い滴が雪を溶かす。
声を潜めカロリーナは泣いた。
もう嫌だと泣き叫びたかった。
自分が何をしたのだと、怒り狂いたかった。
家族と名乗る人を恨み
生まれてきたことを悔やみたかった。
ただ、声もなくカロリーナは泣いた。
彼女の背には、こうこうと雪が降り積もった。
「…………」
どれくらい泣いていただろう。
ふと体を起こすと背中に積もっていた雪が崩れ落ちる。
ボーッとしていたカロリーナが思ったことは一つ。寒いということだけだった。
相変わらず雪は降り続いている。
音もなくしんしんと。
不意に白いドラゴンの話を思い出した。
あの話では、姫の好きな人は亡くなっている。
だけど、自分はどうだろうか。
額に。
頬に。
唇に。
白く冷たいキスが降る。
慰めのように感じられて、カロリーナは少しだけ笑った。
そうね……
私の好きな人は生きているもの。
それで充分じゃない。
楽しくて忘れていたけど、いつかアスワドとはお別れすると思っていたじゃない。だから、その日が来ただけよ。
カロリーナは、ひゅーひゅーと風を吹かせる胸の穴にそっと手を当てて立ち上がった。
侍女とは涙ながらにお別れしたが、アスワドとは別れの言葉は特に言わなかった。
一週間前に言葉を交わして以来、話をしていない。
ふと顔を上げるとアスワドの顔が遠くで見た。これが最後かと思うと、やるせない気持ちでいっぱいだ。
“今までありがとう”
“どうか、元気で”
言葉に出さないように口だけを動かす。
いつもの優しい微笑みを返されるかと少し期待したが、アスワドは笑っていなかった。
冷たい感情を殺した表情。
そんなアスワドを見たのは初めてでカロリーナは戸惑った。
なぜ…と問いたくてもカロリーナを乗せた馬車が走り出してしまう。
カロリーナは窓に顔をつけてアスワドを見た。
アスワドはずっとこちらを見ていた。
でも、瞳は冷たいままだった。
その顔がトゲのように心の中でずっと刺さっていた。