あの雪の日に
──酒場に行くなど、何年ぶりだろう。
マーディは、この国に来てから数えるほどしか酒場に行ったことがない。
酒は好きだが、一人で静かに飲むことが多い。
アスワドは酒に弱いし、カロリーナは飲ませたらキス魔になった後に、泣き上戸になる。彼女には飲みたかったら、アスワドの前で飲むようにと口酸っぱくいっていた。
キス魔になったカロリーナを誰かに引き合わせてみろ。アスワドが相手を殺してしまう。
そんなことで血をみたくはないので、マーディはカロリーナと飲んだことは一回きりだ。
その時も、勢い余ってカロリーナにキスされた。現場を見たアスワドの笑顔は、思い出すだけで背筋が凍る。もう二度とみたくはない。
そのあとすぐ、アスワドが笑顔でカロリーナを横抱きにして丸一日ひきこもったおかげで、リリルカが生まれたのだから、終わりよければ全てよしとも言うが。
過去を思い出して苦笑を浮かべながら、マーディは酒場に入っていった。
中は活気に満ちていた。春の陽気に誘われて騒ぐものが多いせいだろう。辺りを見渡すと、カウンターに座っていたジョルジュと目があった。ばつが悪そうな顔をしている。
くすぶっていた怒りは腹におさめて、マーディはカウンターに近づいた。
「こんばんは。急にすみません」
「いい。カロリーナ様に何か言われたのか?」
ジョルジュは乾いた笑みをもらした。顔が疲れている。
「……まあ、それなりにお話しました」
「それなりか」
「嘘です。洗いざらい吐かされました」
遠い目になったジョルジュに、思わず同情してしまった。
何を話したのか分からないが、女王であるカロリーナの前では嘘はつけないだろう。
それに、カロリーナは公務では女王として滞りなく勤めているが、私情を挟むととたんに無邪気な子供のようになる。
目を輝かせながらジョルジュの思いを根掘り葉掘り聞き出したのだろうな、とマーディは想像した。
なんと声をかけていいのかわからず「そうか……」と微妙な返事をして、マーディは酒を注文した。
ジョルジュは淡々と酒を受けとるマーディの横顔を見て、ふっと表情をゆるめた。
「女王陛下には洗いざらい吐かされましたが、そのおかげで、マーディさんと飲めるようになったので、結果的にはよかったです」
「そうか……?」
「はい。そうですよ」
彼はジョッキを持ち上げた。乾杯をしようというのだろう。マーディはジョッキを打ち合わせた。カキン。いい音がジョッキから鳴る。
「今宵の奇跡に」
「おおげさだな」
「そんなことありません。マーディさんと飲める日がくるなんて、夢にも思いませんでしたから」
笑顔で言われると気恥ずかしい。
マーディは、一気に酒を飲み干した。ぬるい酒は乾いた喉にしみたが、マーディの心は落ち着かなかった。
デートなんて、したことがない。何を話せばよいか、さっぱり分からない。会話に困っていると、ジョルジュから話しかけてきた。
「いい飲みっぷりですね。お酒、強かったんですね」
「まあな」
ジョルジュの声が甘く聞こえてしまい、マーディは続けて二杯目を店主に注文した。
酒を待つ間、会話が途切れてしまった。それでも彼の視線だけはこちらに向かっていて、マーディは目を合わせられずにカウンターに肘をつく。
彼の熱い視線が突き刺さってくる。
ちらりと横目で見れば、何が楽しいのか嬉しそうな顔をしたジョルジュがいる。
気まずい。
マーディはわざとらしい咳払いをすると、ジョルジュが頼んでいたつまみを指差した。
「塩豆か?」
「ええ。嫌いですか?」
「いや……」
「では、どうぞ」
ジョルジュが皿を前に差し出す。
マーディはひとつ摘まんで口に放り込んだ。
塩気の効いた固い豆をかじる。そうこうしている間に、またジョッキがマーディの前に置かれた。
塩気を流すように酒を口に含む。半分ほど飲んでほろ酔いになったところで、マーディは息を吐いた。
回りくどいことは苦手だ。ジョルジュの告白を聞いてしまおう。答えはどうせ、否だ。彼との関係を変えるつもりはないのだから。
マーディはジョッキから手を離し、彼と目を合わせた。
「もう一度だけ聞くが、おまえは私に好意があるのか?」
どこか夢見心地だったジョルジュの瞳が、真剣なものに変わる。
「はい。私はマーディさんに惚れています」
はっきりと言われた。思いの外、動揺してしまい、マーディは残りの酒を飲み干す。
「いつからだ。正直言うと、さっぱり気づかなかった」
「ははは。そうでしょうね。私もリリルカ様に気づかれなかったら、貴女に思いを伝える気はありませんでした」
マーディは首をひねる。
「私が王宮勤めを目指したのは、貴女に会いたかったからですよ」
そんな前から想われていたのか?──と、思ってしまうのは、ジョルジュが王宮に勤めだしたのは、リリルカが産まれる前だったからだ。
彼は貧しい平民の生まれで、学校も行けずに独学でここまできた。
彼は王族の教育者としては異例の身分であるが、カロリーナは能力があるものは等しく機会を与えている。特に子供の教育には熱心で、どういう者が教育者としてよいのかを、模索していた。
それは、カロリーナが塔にいた頃、絵本しか与えられなかった経験があるからだ。
小さい頃から、学びを。
知識は、子供の世界を広げると信じて、カロリーナは教育への予算を足している。
元々、雪の国の人びとは、勤勉で辛抱強い。そうでなければ、長い冬を越せないのだ。学ぶことは好きな国民性だった。
彼女の精神は国民に広く受け入れられ、学校に行ける子供が増えていた。
彼女の方針で、ジョルジュは知識と人柄で重用され、カロリーナが女王に即位後、王宮入りしていた。
「私に会いたくて、か?」
初めて聞いた彼の言葉に動揺しつつ、聞き返した。彼は頷く。
「ええ。あの雪の日のクーデターを覚えていますよね? 私はあの時、クーデターに参加して王宮に来ました。その時に、貴女の姿を見たのです」
それは、カロリーナが戻ってくる前の出来事だ。アスワドが民を先導して、先王を血祭りにあげたクーデター。
あの時は、雪崩のように民が王宮に押し寄せてきていた。
「あの時に……」
「はい。私の家は貧しくて、父も母も、冬をこせずになくなりました。私は叔父のところに身を寄せていました。叔父は機織りの職人でしたが、本好きで、書物をよく読んで学んでいました。叔父の仕事を手伝うために、学校には通えませんでしたけど、色々なことを叔父から教わりましたね」
懐かしげに語っていたジョルジュの表情がすっと冷える。雪にでも触れたみたいに凍りついた。
「でも、叔父も病気でなくなりました」
彼は教会で懺悔するみたいに、手を前でくんだ。彼の声が重く、低くなる。
「今は施療院ができましたが、当時はそんなものはありませんでした。薬の買えない者は死ぬしかなかった。……数年後、王の堕落を酒場で聞きました……」
ジョルジュが組んでいた手をほどき、自分の手のひらを見つめた。
「彼が新王妃を迎え入れるために、前王妃の高価な調度品を次々と燃やしていると聞いたとき、許せませんでした。まだ使えるものまで、燃やしていたときいて……一体、幾らの金を灰にしているのかと、腹立たしくなりました」
ジョルジュの瞳が怒りと悔しさで赤くなる。
「燃やすぐらいなら、私がその家具をほしかった! その家具を売れば、きっと……きっと、叔父の薬だって買えたはずなんです……」
彼の悲痛の声を聞いていたマーディの瞳が大きく見開かれる。
それは、ローザの持ち物が焼かれた出来事だ。彼は金を惜しむことを言っていて、ローザを悼むわけではない。
だが、それでも。
あの日の怒りを、目の前の人は、同じように怒っていてくれる。
無力感を嘆いていたのは、自分だけではなかった。
マーディの顔が歪み、胸がうち震えた。
ジョルジュはマーディの表情が見えていないのか、手のひらをじっと見つめた後、力強く握りしめた。彼の瞳が赤から、黒になる。
「初めて、人を殺したいと思いました」
静かな口調で、ジョルジュは語る。
「私は王が、王家が許せませんでした。あの雪の日に、家にあった包丁を持って、私は王宮に行きました」
マーディの脳裏に血塗られた光景がよぎった。
華美な王宮に押し寄せる群衆。
先頭に立つのは黒い死神。
痩せこけた王が奇怪な声をだして、死神に向かって、何かを言っていた。
「騒がしいですよ」
死神は酷薄な眼差しで王を見下ろし、なんのためらいもなくその腹を剣で切り裂いた。
飛び散る鮮血が、死神の黒い騎士服を濡らす。人々がざわめきたったが、死神は踵を返した。人々に向かって、彼は微笑した。
「みなさん、これは王ではありません。王冠を被っただけの、ただの人です。刺せば私たちと同じように、血が流れます。殺すのは簡単ですよ」
死神の声は甘美に響いた。人々は熱に浮かされたように、持っていた武器を握りしめる。
殺せ、と言い出したのは誰か。
王が形を無くすのは、その後すぐだった。
これは当然の結果だろうと、マーディは後方に控えて見ていた。憎い王の末路を、まばたきもせずに、見据えていた。
それは、雪が嵐のように降る日の出来事だった。
過去を思い出し、マーディの意識が今に戻る。ジョルジュを見ると、まだあの日を思い出しているのか、瞳の奥が暗くなったままだ。彼を今に呼び戻すように、声をかける。
「おまえも王に包丁を突き立てたのか?」
ジョルジュの瞳がマーディを見た。瞳の中の闇は払われ、苦笑と共に首を横にふられる。
「いいえ。あまりの光景に吐いていました」
苦笑いをした彼を情けないとは思わない。あのむごたらしさは、血を見慣れていない者なら、耐えられないものだ。
「そうか」と端的に答えると、ジョルジュはマーディをまっすぐ見つめた。
「吐いた後、ふらふらになりながら立ち上がったときに、貴女を見つけました」
「私をか……?」
「えぇ。あなたは神話にでてくる女神のようでした。立ち姿がとても美しかった」
「おおげさだな……」
「そんなことありません。貴女は動揺することも、争いに加わることもなく、ただそこに居た。狂気に染まるわけでもなく。私のように弱腰になるわけでもない。悠然と立っていた」
光を見つけたかのように、彼の瞳が細められる。
「美しい貴女を忘れられなかった。会いたくて、しかたなかったのです」
マーディは参った、とばかりに嘆息した。彼は本気だ。瞳を見れば分かる。羨望が入り交じった純粋な目をしている。
言葉は全て、本物だろう。
──困ったな……
真っ直ぐな想いは心地よい。絆されそうになる。だけど、やはり彼との関係を深める気にはなれなくて、マーディは事実を淡々と告げることにした。
「私は何もするなと、アスワド様に言われていたんだ。私の手はカロリーナ様を抱きしめるためにあるものだと言われてしまってな。……殺せるなら、私が王を殺したかった」
彼が見た自分は、女神ではない。それは幻想だと、突きつけるように彼を射ぬいた。
「私はこの国に来る前は傭兵をしていた。人を幾人も殺してきたんだ。それこそ、今のリリルカ様の年齢からな」
彼が小さく息を飲んだ。違う人種を見ている人の反応だ。マーディは凛とした笑顔になる。
「驚いたか?」
「ええ……」
ジョルジュが頷くと、マーディは満足そうに酒を飲んだ。口元を手の甲でぬぐい、軽い調子で言う。
「おまえが見た女は、血に慣れていただけだ。女神ではないよ」
艶やかに微笑めば、ジョルジュの瞳に熱がこもった。とろけた表情をされ、マーディは笑みを消す。
「どうした? 酔ったか?」
「……酒には酔っていません。酒に強くて、酔えない体質なんです」
マーディは片方の眉をつり上げた。
「じゃあ、なんでそんな顔をするんだ?」
よく分からず、ジョッキに口をつけた。
「貴女は素敵な人だと、改めて思っただけです」
「っ……!」
マーディは酒を喉にひっかけ、むせた。彼が心配そうな顔をして、マーディの背中をさする。
「大丈夫ですか?」
「げほっ……大丈夫じゃ、ない……」
「そうですか。水を注文しますね。すみません」
「そうじゃないっ!」
きょとんとしたジョルジュを見て、目眩がしてきた。こんな少量の酒で酔うはずないのに、体が熱くてしかたない。なんなんだ、これは。不快な熱をはらいたくて、マーディは憮然と言う。
「なぜ、素敵という発想になるんだ。私はおまえと違って、人を殺すのに躊躇いのない女なんだぞ」
ジョルジュは店員から水の入ったグラスを受けとる。それをマーディに差し出しながら、熱のこもった目で微笑む。
「貴女の過去が、あの時、貴女を立たせていた。貴女は戦いを生き抜いた女神。貴女は、美しい人です」
彼の言葉は、無意味と思っていた暗い過去を、まるごと抱きしめるようなものだ。
こそばゆい気持ちになりながら、マーディは彼からグラスを受け取った。
「おまえはどうかしている……」
ぼそぼそとした声で言うと、くすりと笑われた。
「そうかもしれませんね。貴女を見たときから、貴女に会いたくて必死に学び、今の地位まで上りつめたのですから」
それは執念といえる行動だ。
マーディは恥ずかしさに耐えきれなくなり、グラスの水を一気に飲み干した。
「好意を寄せられても、私は返せないぞ。私は男女の色事をするつもりはないからな」
「それでいいですよ」
拍子抜けするほど、あっさり言われた。マーディは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。ジョルジュは穏やかな微笑みを絶やさない。
「私は貴女のそばにいたいだけです。たまにこうして飲みに行くだけで充分です」
「そう、か……?」
「ええ、そうです」
「そうか」
妙にほっとした。
彼との関係を変えなくてよいのだ。
「飲みに行くだけなら、付き合うよ」
「嬉しいです。他にも酒場はありますからね」
「ざるなのに、よく知っているんだな」
「酒場が好きなんですよ。喧騒を聞いていると、ほっとします」
「そうか……」
マーディは店内を見渡した。気楽に笑い合う人々の姿を見て、マーディは微笑んだ。
「悪くない光景だな……」
「そうですか?」
「あぁ……人の笑顔をみるのは好きなんだ」
ジョルジュも同じように、店内を見ては笑顔になる。
「それなら、また飲みに行きましょう」
「いいよ」
答えると、ジョルジュは満面の笑顔になった。
マーディは気づかなかったが、ジョルジュの想いは一心に彼女に向いていた。彼の世界の中心は、マーディであると言いたげに、ひたむきな思いを寄せていた。
まるで、太陽を仰ぐ雪原のように。
溶けても構わないから、光を見ていたい。
その輝きを、ずっと、ずっと見ていたい。
ただ、彼女のそばにいたい。
触れることがかなわないのなら、せめて、一番、近くに。彼女の視界に入っていたい。
そばにいることのみを切望するジョルジュは、マーディが望む以上の関係を深めようとしなかった。
*
二人の日常に変化はなかった。
マーディは筆頭侍女としてリリルカとセージュを見守り、ジョルジュも二人の成長を彼女と話し合った。
ほのぼのとした大人の付き合いをする二人に、やきもきしたのはカロリーナだった。
カロリーナはマーディの夜の仕事を完全になくした。もう寝かしつけをしなくてよいと言ったのだ。
「わたし、大人になったのよ」
「ぼくも、大人になるよ」
甘えん坊だったリリルカとセージュも背伸びをしてマーディを突っぱねた。マーディは手が離れて寂しく思ったものだ。
「私もマーディさんの春を応援していますよ」
アスワドは自分を微笑ましそうに見てきたが、なぜか彼にいわれると無性に腹が立った。
「アスワド……おまえ、楽しんでいるだろう」
「そんなことありません。マーディさんはジョルジュさんの前だと可愛くなるなと思っているだけです」
それを、からかっていると言うのだ。カチンときたマーディは腰に手をあてて、不適な笑顔になった。
「……今晩、カロリーナ様と寝てやる」
「やめてください。私がカロリーナ様のそばじゃないと眠れないの知っていますよね?」
「知っているから、やるんだ。一日ぐらい徹夜しても平気だろ?」
「……絶対、やめてくださいってば、」
微笑を消して、本気で嫌がる彼に、マーディの腹いせは少しおさまった。
リリルカとセージュの成長と共に、ジョルジュとの飲み会が月に一度になり、いつの間にか週に一度となった。
週に一度が、三日に一度になり、マーディがべろんべろんに酔っぱらうということが起きた。
困ったジョルジュが、彼女を王宮に届けたとき、カロリーナが興奮して言った。
「もう一緒に暮せばいいんじゃないかしら」
「え?……それは……」
ジョルジュはしどろもどろになるが、カロリーナは願いをたくして、彼に微笑みかける。
「あなたならマーディを頼めるわ。マーディのことを宜しくお願いしますね」
「……女王陛下……」
「一緒に暮らすことは私からマーディに伝えるから、安心してね」
なし崩しに同棲が決まってしまった。
ジョルジュは困惑しつつ、嬉しさを隠しきれなかった。
翌朝にはマーディの部屋の荷物は王宮から、城下にあるジョルジュの家に運ばれていた。
指示を出したのは、勿論、カロリーナだった。
呆然とするマーディに彼女は話しだす。
「ジョルジュの家なら王宮に近いし、すぐに駆けつけられるわよ」
頬を赤く染めて、爛々と輝く瞳で言われてしまえば、頷くしかなく。
「そう……ですね」
マーディは照れがまじった笑みをこぼした。
セージュが学校に通う頃、マーディはジョルジュと一緒に暮らすようになっていた。四枚の肖像画と共に。




