春風の抱擁
マーディにパートナーはできるのでしょうか。
連載中に感想をもらい、その方とメッセージをやりとりさせてもらって考えていた話です。お話をさせてもらってから、二年以上経ってしまい、書き方が変わってしまったと思いますが、その方と、読みたいと言ってくださった方が少しでも楽しんでもらえますように。
全五話。二万字程度のお話です。
以下、あらすじ。
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カロリーナとアスワドが夫婦となって数年後、二人の間にはリリルカという名前の女の子と、セージュという名前の男の子が産まれていた。
リリルカはアスワドに似て、真っ黒な髪の女の子。セージュはカロリーナと同じアース・アイを持っていた。セージュはカロリーナみたいにドラゴンの呪いと呼ばれることもなく、すくすく育っていた。
季節は春。
筆頭侍女となったマーディは、子供たちの成長を見守る穏やかな日々を過ごしていた。
ところが、二人の家庭教師ジョルジュがマーディに好意をむけてきて、彼女は自身の幸せを考えはじめた。
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ふわっ。
春風がマーディの目元を通りすぎていった。
椅子に座って、うたた寝をしていたマーディはゆっくりと瞼を持ち上げる。うとうとしている彼女の体にむかって、また春風が吹いた。
ふわり。
起きて、と無邪気な子供が、彼女の体を揺り動かすような、強めの風だ。
瞳を開いたマーディは、居眠りをしてしまった失態に気づいて、背筋を伸ばした。慌てて姿勢を起こすと、座っていた椅子が床を引きずる不快な音がした。その音が、妙に耳に残り、マーディの動揺が大きくなる。
――寝ていたのか……?
呆然として前を見ると、春風を部屋にまねきいれたくて、窓を開けていたことを思い出した。
窓の外は陽光が差し込んでいて、穏やかな緑が広がっている。どこにも白い雪は見あたらない。今の季節は春。この国で尤も、過ごしやすいときだった。
命が芽吹き、緑が歌う季節は眠気をさそわれやすい。それでも、マーディが昼間から眠るのは、珍しいものだ。
カロリーナを守るために、マーディの意識は張り巡らされ、彼女の眠りは常に浅かった。ささいな物音で起きれると、自負していた。
それがどうだ。春の心地よさに身をあずけて、惰眠をむさぼっていた。
自分でも気づかないうちに、体はすっかりなまってしまったようだ。それが、おかしくて、嬉しい。
──私も年を取ったな……
この国に来て、もう二十年近くになる。
様変わりした自分を実感して、マーディは小さく笑った。
「やれやれ……」
マーディは肩に手をおき、首をまわして軽めの運動をすると、椅子から腰を持ち上げた。
立ちあがったとき、視界にさっと、鮮やかな金髪が入った。
マーディは流した視線を金髪に戻す。
壁面にあったのは、カロリーナの母、ローザの肖像画だ。
年齢よりも幼い顔立ちに、幸せそうにはにかむ口元。頬は薔薇色にそまり、マーディに向かって微笑んでいる。幸せな気持ちで微笑みを彼女に返し、絵の端に視線をうつした。
端には、焼け焦げた跡があった。それを見たマーディの唇が引き結ばれる。苦い過去が脳裏によみがえってしまい、マーディはじっと焦げた跡を見つめた。
この絵は、燃やされそうだったのだ。
ひどく寒い日に、その出来事は起きた。
ローザの死後、新たな王妃が誕生した。傷心の王に取り入った女は、ローザを憎んでいた。
「忌々しい女のものは、すべて燃やして灰にしなさい」
ローザは王の寵愛を一心に受けていた。女は嫉妬で心を醜くそめ、ローザの痕跡を消すように指示をだした。すっかり籠絡された王は、女の行動をとがめない。
王までもローザを心から消そうと、彼女が触れたものは全て燃やすように命令をくだした。
ローザが身につけていたドレス。使っていた家具。羽ペンひとつに至るまで、徹底的に燃やされた。焼却炉の前には、高価な調度品が次々に置かれ、連日、業火をあげていた。異様な光景だった。
「ねぇ、陛下。この国の王妃は、最初からわたくしだけですよね?」
女は膨れた腹をさすり、王にしなだれかかる。王は虚ろな瞳で微笑した。
二人の狂った思考のせいで、ローザの肖像画も、燃されそうだった。
だが偶然にも、薪を取りに塔の外にでたマーディが、その現場を目撃した。
マーディは絵画を見て一目で、ローザだとわかった。
「何をしているんだ! やめろ!」
マーディは抱えていた薪を投げ出し、深く積もった雪に足をとられながらも、焼却炉に駆け寄った。絵画を持っていた使用人の女が、マーディの声に驚き手を滑らせる。
炎に吸い込まれるように絵画が、焼却炉に落ちていく。
マーディの脳天に、かっと熱が昇った。
なぜ、こんな仕打ちができる。理解ができない。ローザは生きていたのに、なぜ、なかったことにしたがるのか。
マーディは、ローザを忘れることなどできない。彼女は確かに生きて、笑っていたのだ。あの微笑みを、炎なんかに燃やさせてたまるか。
「きゃっ……なによ!」
マーディは女を突き飛ばし、端が燃えた絵を焼却炉から引き抜いた。ローザを燃やそうとする炎を消したくて、足元に積もる雪に絵画を押し付ける。
じゅっ、と音をだしながら煙が昇り、炎はすぐ消えた。
「なんなのよ、あんた! 気持ち悪いわね」
マーディは絵画を雪の中から取り出して、低くうなるような声をだす。
「失せろ。おまえを焼却炉に突っ込むぞ」
殺気を隠すことなく告げれば、女は怯んで去っていった。
辺りに誰もいなくなると、マーディは焦げた跡を確認する。
燃えて黒くなってしまったのは、背景に描かれた花だけ。彼女の髪の毛も、微笑みもそのままだ。
ほっと胸をなでおろし、絵画に向かってマーディは微笑する。
「ローザ様、もう、大丈夫ですよ。……もう誰にも、貴女を焼かせません」
絵画の淵についた雪を指ではらう。濡れたままだったら、絵の具がにじんでしまう。早くきれいにして、塔に持って帰ろう。
さっさと雪を払っていくが、白い結晶は次から次へと空から落ちてきて、マーディの邪魔をした。
かじかんだ指先を震わせて、絵画を守ろうとするが、白い汚れは落としきれない。
マーディは顔をしかめて、身につけていたローブを脱いで絵画を包み込んだ。
使い古したものだったので、絵画が汚れないか気になってしまう。
でも、今はこのローブしかない。
これしかないのだ。
──私は無力だ……
雪からも、人々からも、彼女を守りきれなかった。
悔しさがこみあげ、マーディの瞳から涙がこぼれる。
「っ……ふ、」
しばらくの間、マーディは背中を丸めて泣き崩れていた。
この時、マーディに声をかける者も、その涙をとめる者もいなかった。
雪だけが、彼女の孤独を知っていた。
塔に戻ったマーディは、カロリーナに見られないように絵を物置に隠した。
塔に居た頃のカロリーナは、幼くて、淡い雪のような存在だった。守らなくては、すぐに溶けてしまいそうな儚い少女。義母がした仕打ちを聞いたら、母親が彼女を拒否したことを聞いたら、彼女の心は雪のように溶けて、消えてしまうかもしれない。それだけは、嫌だ。
彼女はマーディにとって最後の希望。
カロリーナの笑顔を守れるなら、醜い出来事はいくらでも揉み消そうと、マーディは心に決めていた。
カロリーナが灼熱の国から戻ってきて、アスワドと結ばれても、ローザの絵画のことは隠したままだった。
筆頭侍女になったマーディには、王宮に私室が与えられている。普段、絵画は布で包み、クローゼットの奥にしまいこんでいた。
独りになったときに、絵画を取り出して眺めた。
「カロリーナ様が結婚されましたよ。相手は、くせのある者ですが、あいつ以上にカロリーナ様を思う人もいないでしょう。カロリーナ様、幸せそうですよ」
ローザが正気を失わなければ、二人で朗らかに会話していただろうか。失われた穏やかさが恋しくて、絵画に向かって、つい話しかけてしまう。答えはないが、微笑む彼女を見ると、マーディの心は慰められた。
切ない眼差しで絵画を見つめ、布をかけてしまおうとした時、ふいに自室の扉がノックされた。
「マーディ、いる?」
カロリーナの声だ。マーディは動揺して、絵画を手から落としてしまった。木の額縁が欠ける。その光景にマーディは瞠目して、呼吸をとめた。
「マーディ? いるの? 音がしたけど、どうしたの?」
伺うように扉が開かれた。ひょこっと顔を覗かせたカロリーナと目が合い、マーディの顔から血の気が引く。
「マーディ! どうしたの!」
蒼白したマーディに驚いて、カロリーナが駆け寄ってくる。マーディは顔を苦痛にゆがめて、とっさに絵画を胸の中に閉じ込めた。
──カロリーナ様だけには、知られたくない!
目をつぶり、体を震わせるマーディ。
そんな怯えた彼女の姿を見るのは初めてで、カロリーナは動揺した。
「……マーディ……?」
カロリーナに呼ばれてもマーディは、背中を震わせるだけ。カロリーナは身を小さくするマーディに寄り添うように、床に膝をつく。震える彼女の背中を、手でさすった。
「どうしたの……? なにかあったの……?」
マーディは耐えきれなくなり、ばっと立ちあがる。ひきつりそうになる口の端を持ち上げて、笑顔を貼りつけた。
「お母様の絵を見ていただけですよ」
カロリーナにはローザは優しい母親だったと伝えてある。拒否したことを隠せば、母親の姿絵を見せることはおかしなことではない。
「カロリーナ様は初めてご覧になられますね。ほら、カロリーナ様に目元も口元も、そっくりでしょう?」
声を上滑りさせながら、マーディは必死でカロリーナに話しかけた。カロリーナのアース・アイがじっと姿絵を見つめる。何もかもを見透かしそうな瞳に、嘘がばれるのではないかと、冷や汗がでる。
幸せそうなカロリーナの笑顔を曇らせたくはない。
今さら過去を蒸し返して、余計な傷を負う必要はないのだ。
緊張で体を強ばらせるマーディと、カロリーナのアース・アイが合わる。虹色の瞳が優しい色になった。
「この人が、お母様なのね」
にこりと微笑んだ彼女に、マーディは胸を撫でおろす。どうやら誤魔化せたようだ。
「ええ、そうですよ。今まで隠して、申し訳ありま──」
「──マーディ、謝らないで」
マーディの声に被さるように、カロリーナが声をだした。目を瞬かせていると、彼女はマーディの首に腕を伸ばす。細い腕で絵画ごと、マーディを抱きしめる。
「私、お母様のこと全部、知っているの。私を産んで心を病んでしまったことも、全部」
ひゅっと、マーディは息をのんだ。
心に沸き上がったのは、彼女に過去を伝えた人物への憎しみ。
「誰に……聞いたのですか……」
「そんな怖い声をしないで。私は平気よ」
カロリーナは、むぎゅっとマーディを強く抱きしめた。
「私はマーディの言葉を信じているわ。誰が何を言っても、マーディがお母様は優しい人っていうなら、それが真実よ」
マーディの耳元ですんと鼻をすする声がした。
「マーディはお母様を大切にしているって、気づいていたの。言い出せなくてごめんなさい……」
「そんな、こと……」
カロリーナが謝ることはない。むしろ、隠していたのは自分の方だ。悪いのは自分。
そう言いたかったのに、言葉にはならなかった。
彼女の声が、細い腕が、言葉が、春風のように優しくてマーディの心がうち震える。
肩を震わせたマーディから離れて、カロリーナは目を赤くして微笑む。マーディの頬が、白い手で挟まれた。
「マーディ、大好き。大好き、大好き。私を守ってくれて、ありがとう」
マーディの瞳から涙が流れた。
彼女はもう塔に居た頃の小さな少女ではない。小さな体にたくさんの傷をおっても、微笑むぐらいに強くなっていた。
マーディが守った小さな種は、彼女が気づかないうちに、芽吹いていたのだ。大地に根をはり、凛と咲いている。
今も微笑んで、マーディのそばにいた。
「私も……大好きです……大好きですよ、カロリーナ様……」
マーディは姿絵を片手で胸に抱きながら、カロリーナの額に自分の額を合わせた。カロリーナはくすぐったそうに、はにかみながら目を臥せてマーディにすり寄った。
絵画を抱いていても、マーディはもう一人ではなかった。
胸の中のローザもまた、幸せそうに二人に微笑みかけていた。
あの日から、数年経った今。
マーディの部屋には、額縁が直されたローザの姿絵が飾られていた。その横には、アスワドとカロリーナが並んだ絵画がある。そして、二人の子供たち──リリルカと、セージュの肖像画もあった。五人とも笑顔だ。
ひとりひとりの笑顔を眺めて、マーディは目を細めた。
ふわり――と、また窓から風がはいりこんできた。
足を止めていたマーディは、春風に背を押されて歩きだす。
そろそろリリルカとセージュの勉強の時間が終わった頃だろう。
お転婆なリリルカの様子が気になり、マーディは部屋を出た。




