黒は苦く笑う
灼熱の国の滞在は三週間と予定通り終わった。
交渉自体はダハブの裁量とアスワドが折れたことにより日数より早く終わったが、外交関連の要人とあったり、自国の売り込みにアスワドは奔走していた。自分がダハブの弟だと知ると、相手は掌を返してこちらの話を聞く。それに笑いながらも雪の国の再建のため、アスワドは苦湯を飲み込んだ。
「じゃあな」
「兄上もお元気で」
出立前、改めて挨拶を交わしたアスワドの顔はここに来た時よりも晴れやかだった。
「今度は元妻も連れてこいよ」
ダハブが不敵な笑みで言うと、アスワドは笑顔で答えた。
「そうですね。妻が来たがったら、考えます」
ダハブはフッと笑い、二人は握手を交わした。
帰る一ヶ月間、やはりアスワドは黒と白の夢を見る。
その光景は日に日に生々しくなり、自分でも苦笑いするほどだ。白も黒も笑ってお互いに身を任せる。二色は溶けて一つの色になる。それはアスワドの願望か、それとも近い未来か。
ただ、一つ言えるのは、夢を見るたびにアスワドはカロリーナに会いたくてしょうがなかった。
三ヶ月ぶりの雪の国は様変わりしていた。剥き出しの大地になり、雪の影はない。それがいささか寂しく感じる。消えた白い世界を思って、唯一の白の元へアスワドは足を動かした。
「おかえりなさい……」
王宮の玄関ホールでは、カロリーナがアスワドの帰りを待っていた。白い髪が伸びている。それに時の長さを感じて、アスワドの胸に切なさが込み上げた。
「ただ今、戻りました」
一歩だけ近づき、頭を丁寧に下げる。形式的な挨拶をすると、カロリーナが近づいてきた。
「あのね……ディトルトと公務を頑張ったの。それで……」
カロリーナがおずおずとアスワドのマントを掴む。頬を薔薇色に染め、瞳は伺うようにアスワドを覗いている。
「今日はゆっくりできるから……一緒に居て」
ご褒美をねだるしぐさに、アスワドの心臓は急速に早まっていく。それは顔には出ないが、痛みは確かに感じていた。白い小さな手を掴んで、出来る限りの微笑みを作った。
「はい。喜んで」
そう言うと、カロリーナはほっとした表情を見せ、微笑んだ。
着替えをするために自室へ戻る。それにカロリーナも一緒に同行した。マントを脱いでクローゼットにしまっていく。
その間、すぐ側で食い入るようにカロリーナはアスワドを見続けていた。黙って着替えを見られるのは、少々、気恥ずかしい。
「あの、カロリーナ様……そんなに見られると照れます」
カロリーナははっとした顔をして、視線を下にする。
「ごめんなさい。見てないと、アスワドがいるって実感できなくて……」
素直な言葉はアスワドの理性を崩していく。
――まだ日が高いのに、困った……
アスワドとて、カロリーナを腕に閉じ込めてそこにいることを実感したい。しかし、それをしたら最後。夢のようにカロリーナを呑み込んでしまうだろう。それは、いくらなんでも早急すぎる。
気持ちを整えようと、深呼吸した後、カロリーナに向き合った。
「大丈夫ですよ。私はどこにも行きません」
まだ不安そうなカロリーナに微笑みかけた。
「雪がないこの国をカロリーナ様と一緒に見たいです。テラスでお茶でもしましょうか?」
そう言うと、カロリーナはパッと顔を上げて、いいわよと、愛らしい笑みを見せた。
雪の季節が終わったとはいえ、まだ寒さは残っている。テラスに出ると、風が冷たく感じた。見えた雪の国は、茶色い大地が緑色の美しさで彩られていた。遠くで人びとが働く様が見える。雪の季節にはあまり見れない活気づいた光景にアスワドは微笑んだ。
テラスの椅子に座って、カロリーナは三ヶ月間にあった出来事を話しだした。
驚いたのはカロリーナの口から年が近い女性の名前が出たことだ。彼女はカロリーナよりも一つ年上で名前をライラと言った。なんでも、職人らしい。
「ライラはね、白いドラゴンのモチーフをとても繊細に作るのよ。私、見惚れちゃった」
カロリーナの世界が広がったのを感じてやや、寂しい気持ちになる。
「アスワドにも会わせたいわ。無愛想だけどね、とてもいい人よ」
無愛想でいい人? 生真面目な補佐官を思い出してしまう。ディトルトは真面目だが無駄を嫌う男だ。カロリーナの補佐官も実はかなり渋られた。しかし、そんな彼も今ではすっかりカロリーナ信奉者の一人だ。
カロリーナは控えめな性格と、容姿で相手の庇護欲を掻き立てる。彼女を見ているとなぜか守らなければという使命感に掻き立てられるのだ。そして、無意識のうちにカロリーナは信奉者を作っていく。兄もその一人だ。
――また一人、やっかいな人が増えていかけなければいいんですけどね……
まだ見ぬライラという女性がアスワドの前に立ち塞がる壁でないことを願いながら、こっそり溜め息をついた。
カロリーナは饒舌だった。会えなかった三ヶ月間を取り戻すようにお喋りに花を咲かせる。
マーディがね、ディトルトがね……
カロリーナから出る声は弾んでいて明るかった。彼女が呼ぶ名前の中に自分はいないというのに、その明るさがアスワドの心をほの暗くする。
あなたがいなくても、大丈夫だったわ。
そんなこと言われているような気がして、我慢ができない。今すぐお喋りな口を塞いでしまおうか。そんな黒い感情に飲まれそうになる。
――早く夜になればいい。
アスワドはカロリーナの話を聞きながら、自分の色となる時間が来ることを切に願った。
◇◇◇
「アスワド様、お帰りなさいませ。ちょっといいですか?」
茶器を片付けにきたマーディが笑顔で話しかけてきたのは、アスワドの我慢がそろそろ限界だった頃だった。
「どうしましたか?」
「少し、お話が」
マーディは笑顔だったが、どことなく殺気立っていた。
「私も一緒じゃダメなの?」
カロリーナが少しむくれて言うと、マーディが彼女に耳打ちする。声は小さくてアスワドの耳には届かない。マーディが囁きかけると、カロリーナは弾けたように立ち上がった。
「そうだったわ……アスワド、ちょっと席を外すわね」
そう言うと、カロリーナは忙しなく出て行ってしまった。それをポカンと見つめていると、すっとマーディがアスワドに近づく。
――ダン!!
マーディの拳が勢いよくテーブルにぶつかり派手な音を立てた。テーブルはマーディの鉄拳に耐えきれずぐらつく。それを唖然と見ていると、マーディが低い声で話し出した。
「どういうことか説明しろ」
久しぶりに見るマーディの怒気にアスワドは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
マーディの話はこうだ。
自分がいなかった間にカロリーナの不安を聞いたらしい。愛されていないと感じていると。それを聞いたのはアスワドが旅立った直後で、マーディはこの三ヶ月間、怒りを熟成させアスワドにぶつけていた。
「言ったよな? カロリーナ様を泣かせたら、ただでは済まさないと」
そこまでは言っていない……と言いたいところだったが、言ったら火に油を注ぐようなものだ。
「なぜ、カロリーナ様に”愛してる”と言わない。お前の世界の中心は、カロリーナ様だろう」
マーディはダハブとは違ったやり方でアスワドに噛みつく。飾らない真っ直ぐな言葉で追い込む。それはある意味、ダハブの言葉よりもアスワドに響いた。
「本当に……誰もかれも……やかましいんですよ」
自嘲の笑みが出てしまい、それを見たマーディは眉をひそめた。
アスワドが天を仰ぐ。視界に広がるのは、腹立たしいほどの青空だ。それが嫌で目を瞑った。
「マーディさん、誰かを愛したことありますか?」
「はぁ?」
呆れたマーディの声が耳に届く。答えを待たずにアスワドは独り言のように話し出す。
「初めてなんですよね、私……誰かを愛することって……」
愛と呼ぶには禍々しい思い。重く、深く、どろっとした感情だ。一度、相手を取り込んだら離さない粘着性も持っている。やっかいで、手に余るものだ。
「愛ってなんなんでしょうね……」
手に余るのに離しがたい。無くしたら、きっと自分は自分でなくなる。
「知るか」
不意に聞こえたマーディの切り捨てるような声にアスワドの目が開く。マーディは先程までの怒りを沈めて、目を細めて遠くを見つめた。
「それが分かれば、誰も悩みはしないだろう」
率直なマーディの言葉はやはり、アスワドの心に響いた。アスワドは珍しくクスクス笑い出す。それをマーディは訝しげに見た。
「そうですね。分かったら、誰も悩みませんよね」
脳裏にカロリーナがうつる。
愛しい人は恥ずかしげにこっちを見ている。やがて、その表情は微笑みに変わる。
それに微笑み、マーディに笑いかけた。
「話を聞いてもらったので、マーディさんに春が来たら、遠慮なく言ってください。相談に乗りますよ」
そう言うと、マーディは大きく息を吐き出した。
「そんなことがあっても、お前だけには絶対、話さない」
強く言われ、アスワドは肩を竦めた後に確かに、と笑った。




