黒の渇き
「アスワド様……?」
廊下でマーディに声をかけられ、アスワドは顔を上げた。足元ばかりを見て、彼女の気配に気づかなかった。詰まった距離に驚き、一歩下がる。
「おはようございます、マーディさん。あなたに様付けされるのはまだ慣れませんね」
いつも通り笑顔で話し出したが、マーディは訝しげにアスワドを見る。
「なんか変だぞ」
口調もくだけたものになり、アスワドは目をしばたたかせる。マーディはカロリーナが居なかった時の眼光の鋭さのまま、アスワドを見据えた。
「殺気を隠せてない。どうした?」
気づく者には気づかれてしまう。マーディだったら余計なのだろう。だが、彼女に思いを吐露するわけにはいかない。
「夢見が悪くて、つい苛立ってしまいました」
「夢……? お前ほどの男が苛立つなんて、どんな夢だ」
やや呆れぎみに言われて、アスワドは苦笑いをする。
「私とて、人の子ですからね。苛立つことはありますよ」
その答えにマーディは腑に落ちなかったようで、一歩前に出て、舐めるようにアスワドを見つめる。かなり居心地の悪い体勢になり、アスワドは視線を逸らした。
「まさか、カロリーナ様の夢でも見たんじゃないだろうな」
鋭い。マーディのこういうところが、アスワドは少し苦手だ。
「まさか。カロリーナ様に苛立つことはありませんよ」
「当然だ」
カロリーナを絶対としているマーディは当たり前のように即答する。
「しかし、自分自身に対しての苛立ちならあり得るだろう」
ますます鋭い。マーディは勘づいているのかもしれない。自分の鬼神が暴れたがっていることを。
「そうですね……カロリーナ様が可愛すぎて、自制心を抑えるのに苦労しています」
当たっているような、しかし芯には当たってないような、はぐらかした言い方をする。だが、この言葉は不味かった。
鋭くなったマーディの眼光を見つめ、アスワドはますます居心地が悪くなる。
「もし、カロリーナ様を泣かすようなことをしたら……分かっているよな?」
決して脅しではない。これは忠告だ。マーディは体術ではアスワドには敵わないが、彼女はカロリーナを使って精神攻撃をしてくるだろう。最も嫌な形で。それは避けたい。
「分かっております。今日から灼熱の国へ行って参りますね」
「まだ、時間が早いぞ。それに、カロリーナ様に挨拶はいいのか?」
アスワドは首を竦めて、おどけたしぐさを作る。
「顔を見ると、行きたくなくなりますから、先に行きます。それに……」
アスワドが近くの窓を見つめる。日が出始め、雪解けの大地はキラキラと輝き出していた。
「戻るときは雪が無くなっているかもしれませんからね。少し、散歩して行きます」
三ヶ月後には、雪は溶けているかもしれない。雪のない季節は初めてではないのに、カロリーナがいるこの国で、草原の大地を踏むのは不思議な気持ちだ。ただ、名残惜しいのかもしれない。
雪をまだ見ていたい。
「わかった。気をつけてな」
軽い挨拶をして、アスワドはまた歩き出した。
気温の低い朝の時間帯は、溶けた雪が凍っていた。パキリ、パキリ。氷を割るように歩く。ふと雪の中で、健気に芽を出す緑を見つけた。
アスワドは微笑み、身を屈める。瑞々しい新芽はカロリーナに似ていた。寒さに耐え、雪の中から顔を出して、葉を伸ばそうとしている。
少しだけ周りの雪を払ってやった。日の光りをより浴びれるように。
「手を伸ばして、欲しいものを掴むのですよ」
その言葉は新芽に言ったものなのか、それとも自分自身への言葉だったのか。
アスワドは立ち上がり、また歩き出した。
◇◇◇
一ヶ月かけて灼熱の大地へ行く。
その間、アスワドは黒と白の夢を繰り返す見るようになっていた。
最初は懇願して白を遠ざけていた黒も徐々に白との距離を詰めていく。
手を取り、体を抱き寄せ、顔を近づける。
そして一ヶ月後、黒は白を呑み込んだ。
白は跡形もなく消え、黒だけが残される。
黒は悦に浸っていた。
白を内に取り込み、一人笑う。
それは完成された黒い世界。
アスワドが真に望む世界だった。
「っ……」
飛び起きたアスワドは膝を抱えて呼吸を整えようと必死で口を開く。額には汗が滲んでいた。
無意識に隣のシーツを手繰り寄せる。そこには何もなく、ただ白いシーツが手の中で握りしめられるだけだ。それを見つめ、アスワドは笑って、はっと熱い息を吐き出した。
「……本当にどうしようもない」
シーツを無理やり引っ張り、掻き抱く。カロリーナのぬくもりなど在りはしないのにそうせずにはいられなかった。
そこでアスワドはようやく気づく。
恐らく自分はカロリーナの側にいないと、もうまともに寝ることさえできないのだと。
アスワドの背中を照らしていた月が黒い雲に覆われていく。月を呑み込むように、黒い雲は光を隠してしまう。アスワドもまた月の光が届かず、闇に閉ざされていった。
◇◇◇
「酷い顔だな……」
灼熱の大地に降り立ち、ダハブに会ったアスワドは出会い頭、そんなことを言われた。一ヶ月ほどまともに寝ていないアスワドの目の下は黒く、苛立った表情になっていた。
「夢見が悪くて……すみません、こんな格好で」
「夢見?……俺の元妻の夢でも見たのか?」
不適な笑みで言われ、アスワドの苛立ちが募る。
――マーディさんといい、兄上といい。どうしてこうも察しがいいんですかね。
アスワドは苛立ちながらも口元に笑みを浮かべて言い直す。
「私の妻です」
「そうだな。今はお前の妻だな」
いちいち癪に障る言い方だ。こちらの苛立ちを煽りたいだけだと分かっているのに、乗っかってしまう。これも不眠のせいか。
「無駄話をせずに本題に入りましょうか。ダハブ国王陛下」
「そうだな。敗走する敵を追っても時間の無駄だからな、アスワド公」
よく似た笑みを浮かべる二人の兄弟を見比べながら、事情をよく知るダハブの側近は、こっそり溜め息をついた。
話し合いは順調……とはいかなかった。
領土の拡大しか興味のなかった狂王とは違い、ダハブは戦乱で疲弊した国土の回復に念頭を置いていた。元々、豊かな資源がある国ではあったが、ダハブは無駄を嫌い、ただ甘い汁をを吸う輩には容赦がなかった。
雪の国はその過分な恩恵を踏みにじってきた国だ。いくら頭が変わろうと今までのように旨い汁を味わわせるわけにはいかなかった。
しかし、アスワドとてそこは引けない。新緑の芽を花咲かせる前に、枯らすわけにはいかないのだ。
「七年、余分な金をかけた。その金が無駄となったとは言わせんぞ」
「おっしゃってる意味は分かります。しかし、まだ種を撒いたばかりです。枯らすには惜しい花です」
ふんと鼻を鳴らすダハブにアスワドは食い下がる。
「三年だ……」
ダハブは赤い瞳を冷たく光らせた。
「三年も経てば、何もしゃべらぬ赤子でも言葉を話す。それ以上は待てない」
その言葉にアスワドは大きく息を吐き出した。
「ありがとうございます。陛下の寛大な処置に感謝いたします」
形式上の話し合いは終わったが、アスワドは頭が痛かった。
あの国は、雪のせいで自国の生産が少ない。雪に強い作物の改良は始まってはいるが、まだまだ時間がかかる。
「はぁ……」
三年も与えてもらって喜ぶべきか。短いと嘆くべきか。ここは喜ぶべきことなのだろう。アスワドはかの地を思って、また一つ、溜め息をついた。
「アスワド」
廊下でダハブに会い、アスワドは丁寧に頭を下げた。
「堅苦しくなるな。これからは、兄弟の夜だぞ」
きやすく声をかけてきたダハブにアスワドは嫌な予感がした。
「酒に付き合え」
「……酒が呑めないことを知っているでしょう」
「付き合うぐらいならできるだろ? それに全く呑めないというわけじゃない」
ニヤリと笑ったダハブに、アスワドは今までで一番、大きな溜め息をついた。
◇◇◇
灼熱の国の酒は度数が強く、酒に弱い体質のアスワドにとっては苦行以外の何物でもなかった。
一口飲むだけで、強いアルコール臭が鼻につく。
「それで? なぜ、俺の元妻と一緒にこなかったんだ?」
「今は私の妻です……兄上に会わせたくなかったのですよ」
酒が入ったせいか、いつもは隠しておく本音がつい出てしまった。それに気づいて、アスワドは口を軽く手で押さえるが、時すでに遅し。
ちらっとダハブを見て後悔した。ダハブは、満面の笑みでアスワドを見ていたからだ。
「ほぉー……なぜ、会わせたくないんだ? お前の妻なんだろう?」
アスワドは注がれた酒を飲み干して、首元を寛げる。
「兄上はお綺麗ですからね。おかげで側室選びはとても順調でしたよ」
「そうだろう。俺ほどの男を放っておく女はいないからな」
実際、カロリーナの代わりとして自国から側室を選んだのだが、その候補者が殺到した。ダハブは世界で有数の国王だ。小国で燻るよりは大国に嫁ぐのは夢のある話だった。かつ、ダハブは蠱惑的な顔立ちをしている。女性ならば惹かれずにはいられないだろう。
実際、アスワドはここでのカロリーナの七年間を知らない。二人の間に何かあったとは思いたくはないが、再会して何かあったら、それこそ狂ってしまいそうだ。
ただでさえ、ダハブはアスワドをいたぶる気満々でいる。獅子が口を開け、甘噛みするようにアスワドに牙を立てる。それがただのじゃれあいだと分かっていても痛いものは痛いのだ。
カロリーナがいたら、甘噛みどころではなく、牙を立てて食いつかれるかもしれない。その時は、こちらも食い付けばいいのだが、そんな醜態をカロリーナの前で晒せない。
無言で酒を煽るアスワドを観察していたダハブがおもむろに尋ねた。
「アスワド。お前……カロリーナと情を交わしてないな」
「っ……!? ……ごほっ……!」
「当たりか」
むせて苦しむアスワドを横目にダハブは酒を煽る。鼻歌でも歌い出しそうな横顔だ。
むせて涙目になったアスワドは、ダハブを睨みつけた。
「兄上には関係ないことです」
「そうでもあるまい。元妻だしな。あれは中々、いい女に育っただろう?」
挑発など聞き流せばよい。
アスワドの勘だが、ダハブはカロリーナに手を出していないだろう。それはアスワドに殺されるのを恐れてではなく、単なる嫌がらせだと思っている。思っているのに苛立ちがおさまらない。
そんな胸中を知ってか知らずか、ダハブはアスワドの傷口に遠慮なく塩を塗り込む。
「あの白すぎる肌は簡単に朱に染まるからな」
ピクリとアスワドの手が止まる。
思わずカッとなって、ダハブの胸ぐらを掴かみかかった。殺気を隠さずにアスワドはダハブを睨む。ダハブは、それも折り込み済みなのか、余裕の表情を崩さない。
「そんなに大事なら、早く手にすることだな」
「っ……」
「言っただろう。”お前の色に染めることを恐れるな”と」
アスワドは掴んだ手をゆっくりとほどき、大きめの息を吐き出す。
「恐れるに決まってるじゃないですか……」
情けないほど弱々しい声が出た。
思い出すのはカロリーナの純真な笑顔だ。美しく育った白い姫はアスワドにとって眩しすぎる。
「あの方の色に染まりたいと願ったのに、結局、私は彼女を染めることしかできない」
自分はあまりにも黒を纏いすぎた。赤をすすってきた強すぎる黒は白に染まることは叶わない。
結局は喰らい取り込むことしかできない自分にはできないのだ。
これが自分が選んだ道の果てだというのなら、もう、いっそのこと……
ダハブはうつむくアスワドを横目に見て、息を吸い込む。限界まで息を吸ったのち、口を開く。
「バ――――――カ」
ダハブはアスワドの苦悩を、軽い言葉で一蹴した。アスワドが鳩が豆鉄砲をくらったような顔になる。
「クソ真面目野郎が。なんでもかんでも、自分で結論付けるな」
手に持った杯をバンと叩きつけるように置いた。ダハブは乱暴に酒瓶から、琥珀色の液を杯へ注ぐ。
「お前の考えはカロリーナを軽んじている。全く信用していない。あの娘はお前が守っていたか弱い姫のままじゃないんだぞ」
飲んでは酒を注ぐダハブのピッチは止まらない。ついに酒瓶が空になり、新しいそれごと口を付ける。ある程度飲み干し、乱暴に口元を拭ったダハブは、ギロッとアスワドを睨んだ。
「お前にその気がないのなら、カロリーナを取り戻す」
赤い瞳は本気だった。その凄みに触発され、漆黒に炎が蘇る。
「ご冗談を……兄上に差し上げるものなど髪一本もありませんよ」
そう言って、アスワドはダハブから酒瓶を奪い取る。一気に煽る姿にダハブは、呆れた声を出した。
「さっきまで、情けない声を出していた奴が何言ってる」
「っ……!? ……ごほっ……!」
その言葉にアスワドは、やはりむせた。
◇◇◇
ダハブに解放された夜遅く、アスワドはふらつく足取りで用意された部屋にたどり着く。
そしてそのまま、酒の酔いに負けて、ベッドに身を投げ出した。
――これだから、酒は嫌なんですよ。
着替えるのも億劫でそのまま仰向けになる。ゆっくりと瞼を閉じれば、夢の中へと誘われる。
また、黒と白の夢を見た。
黒が白を喰らう夢だ。
だが、今度の夢は少し違った。
食らわれるはずの白に手を伸ばした時。
白は嬉しそうに微笑んでいた。




