ドアスコープ
左の頬に衝撃が走り、熊田は絶望的な気分になった。なぜここまで真面目に生きてきた自分がこんな目に合わなければならないのだ。不公平だろ、と言いたくなる。
「金を出せ」「金はないんですよ、財布見ますか?」ズボンの尻ポケットから財布を引っ張り出そうとしたとき、財布がないことに気づいた。どこかで落としたのだろうか。
「あ、ありませんでした」局部を蹴られた。人生で経験したことのないような強烈な痛みが熊田の体全体を襲う。オレオレ詐欺に引っかかってしまったから金を貸してくれ、と言ってきた綾子さんの顔が浮かんだ。騙されたな、と今更のように思う。そもそも、自分のような冴えない男に美人な彼女ができること自体ありえないことだったのだ。
「来週までに30万は用意しておけよ」上から男の声がして、続いてドアがばたんと閉まる音がした。いつの間に自分は倒れていたのだろう。でもまあ、これで来週まで暴力をふるわれることもないな、と熊田は安心した。
なんとか局部の痛みも和らぎ、立ち上がることができたところで、インターホンが鳴った。熊田は心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。熊田の脳内ではインターホンの音と暴力が結び付けられてしまっているのだ。ドアスコープから外をのぞくと、どこかで見たような顔が並んでいた。「おかねトリオでーす」という声を聴いて、満員電車の中でお笑いを始めた、二人組のくせにトリオを名乗る愉快な若者たちを思い出した。今日はいろいろなことがありすぎて、朝の通勤列車の中ではじまった奇妙なお笑いライブのことが頭から完全に抜け落ちていた。
「あのー、財布を返しに来たんですが」ドアの外からさらに声が聞こえてくる。
なぜ、自分の財布があの若者たちの手にわたっているのだろうか?
気づくと熊田は、部屋の鍵をがちゃりとあけていた。