空き地のパティスリー【番外編】
智也は二階建ての我が家を見上げた。
生まれてこれまでずっと暮らしてきたこの家を今智也は巣立つ。3月の風はまだ冷たく、智也の新しい髪型を嘲笑うようだった。髪の毛が多く、根暗な印象を変えようと思いきってツーブロにしてみたがなかなかどうして似合わない。
たくさんの思い出が目の奥に甦ってくるが、その中心はすべてあの夏の昼下がりの出来事だった。
あの不思議なパティスリーで不思議なパティシエと例のホットケーキに出会ってから、親をなんとか納得させ製菓学校へ進学を決め、今日の引っ越しに至るまで半年以上も経つのに智也にとっては昨日の事のように鮮やかな記憶だった。
「また行きたいな。」
手を変え品を変え試しても自分にはあの味は出せなかった。
あれから何度も空き地を通るがやはり店は無い。あのパティシエに一言お礼を言いたいのに、進学が決まったと伝えたいのに。かえしの付いた釣り針が心に引っ掛かるような感覚を智也は抱えて車に乗り込む。
いつかまた店に行ける気がする、
漠然とだが同時に何となくそう考えるようになっていた。本当に何となく。
車が発車し交差点で信号待ちをしていたところで前の車が沢山の荷物を積んでいるのが目に入ってきた。後部座席には中学生くらいの女の子が座っている。
「前の車も引っ越しかな?」
と母が言う。
窓を開ければ、やはり冷たいが、もう冬の匂いではない風が両親と智也の髪を撫でていった。
引っ越しの季節ですね。