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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

緑の死神のいた世界

作者: 西

書くことに慣れていないため、色々ご容赦ください。


私、アステリーヌ・メンデンは生まれた時から死を望まれていた人間だった。



イストリアム王国のある貴族の公爵令嬢として生まれた私は周りとは全く違った外見を持っていた。他の人たちは金髪に明るい色の目を持つ人が多いのに、私は真っ黒な髪に濃い緑色の目を持って生まれた。誰一人として見たことがない姿に、人は気味悪がって離れて行った。どんな人でも、もちろん家族ですら。

公爵令嬢という身分ゆえに殺すことも、放逐することもできず、私は一人、静かな森の中にある小さな別荘に住まわされた。世話をする侍女は二人だけで、彼女たちは必要以上に関わりを持とうとはしなかった。会いにくる人などいない。

自分のいる場所が家などという生易しいものではなく、ただ自分を閉じ込めるための檻だと気がついたのは五歳の時だった。



私の日常は平凡だと、自分では思っている。世の中の勉強をして、読書をして、草がたくさん生い茂っていた庭を綺麗にするために土いじりをした。侍女達は黙々と道具を握る私を気味悪そうに見ていた。そんな時間を私は流れる景色のように感じていた。

ただなんとなんとなく過ぎ去る時間に私は何故、この世界に存在しているのかと疑問を抱くようになった。何のためにここにとどまっているのか。他人のため?自分のため?



私は答えが分からぬまま、13歳になり、ある運命的な出会いをした。

私が日課となった土いじりに精を出そうとした時だった。

一人で手入れをした庭は、いつしか雑草もなくなり、綺麗な花が美しく咲くのを見られるように整えられていた。でも、まだ雑草が所々に見えるため、今日は草むしりでもしようと思っていたのだ。そんな時だった。その綺麗な花の陰に、とても毒々しい色をした草が生えていた。私は息を飲んだ。身体中が何かで撃たれたような衝撃を感じた。

震える手でその草を摘む。私は草を太陽に掲げて見つめた。

ああ、なんて美しいのだろう。そう思った。

私がやっと身近に見つけた“死”だった。剣なんて物騒なものは見たことがない。鋏は子供の力では死ねない。

私はここ最近、疲れていた。何かがあったわけじゃない。変わらない日常、誰にも会わない生活、この屋敷には自分だけしかいないんじゃないかと錯覚するほど静かな世界はゆっくりと私の中で崩壊していた。

一人は嫌だよ。誰にも必要とされてないなら、もう…


いいでしょ?


私は死神を口に含んだ。

これを一噛みすれば、私は……


「何をしてるんだ!!」


突然の怒声と横から伸びてきた手に肩を掴まれ、私は驚いて思いきり草を噛んでしまった。苦い液が喉を通ろうとする感覚が来ると思った瞬間に口の中に何か細くて長いものが入ってきた。


「んぅっ!」


気持ち悪い異物感に吐き気がする。引き剥がそうともがいて何か温かいものに触れた。これだと思いすぐさま力を入れて引き抜こうとし、爪を立てた。離れないものに苛立ち引っ掻くがそれらは意味をあまり成さず、長いものは器用に口の中を蹂躙し、草を全て取り去った。でも、まだ口の中には噛んだときに滲み出た液体が残っていてそれを咄嗟に飲み込もうとする前にまた侵入してきた。


「っ!!!!」


それは喉の奥に突っ込まれ、激しい吐き気に襲われた。草の液体と一緒に胃の中に消化されかけていたものを吐瀉物として吐き出した。

気持ち悪さがなくなるまでえずくと私は疲労感に見舞われた。肩で息をしていると口元がベトベトしているのに気がついて袖口で拭った。


「まだ付いてる」


聞いたことのない若い男の声だった。人から直接話しかけられるのは久しぶりで緊張して顔を上げられなかった。もう一度、袖口で口元を拭おうとするより早く、顎を掴まれて乱暴に口元を拭われた。

その行為で私は初めて相手の顔を見た。

金色の髪に新緑のような目を持った使用人達とは比べものにならない程、美しい顔立ちの自分より年上に見える少年だった。私の気持ち悪い髪や目が見えているはずなのに、彼は眉一つ動かさない。その少年の右手には汚らしい私の吐瀉物がついていた。

この少年が私の行為を邪魔したのか。


「…なんで、邪魔したの?」


目の前の少年の顔が怒りを表した。


「お前、あの草が何なのかを知っていて食べようとしたのか?」


少年の静かな怒りの声が私に向けられた。


「サミナ草」

「何?」

「一滴飲むだけで、苦しみも痛みもなく死を招く緑の死神と呼ばれる毒草。それがどうかしたの?」


私はなんてことないように答えた。


「私は死を望んだ。この世界は私を必要としてない。なら、いなくなったって同じでしょ?」


そう言えば、突然腕を引かれて無理矢理立たされる。そして、頬を力一杯叩かれた。


「何を言っている!そんな事で死を望むか!!自ら捨ててもいい命など存在しない!!」


頬が痛む。初めて人から痛みを受け、私は呆然と彼を見やった。


「お前がどんな暮らしをしていたのかは想像にかたくない。一人で辛かっただろう。しかし、死を望むことは許されない。それがこの世界に生まれた者の宿命だ」

「宿命…」

「そうだ」

「でも、私は望まれてここにいるわけじゃ…」

「私は望んでる」

「え?」


私は耳を疑った。今、目の前の少年はなんと言った?


「…死を望むな。私はお前を迎えに来た」

「む、かい?」

「生きろ」


彼はただ一言言った。力強い言葉だった。私自身でさえ知らず壊すことができなかった心の鎧を一瞬で溶かす程にその言葉は胸に響いた。


「…い、生きてていいの?」


私が発した言葉は掠れていた。表情はきっと歪んでいるだろう。

そんな私の顔を見ているだろうに、少年は優しげに微笑んだ。


「ああ。俺はお前に生きていてほしい」


空っぽだった心が満たされた気がした。

ああ、この人は私の存在を受け入れた。存在しててもいいんだ。

私はきっと認めて欲しかったんだと思う。いつも無視されて、いないものとして扱われて来た私は死んだように生きてきた。屋敷の者とは事務的な事しか関わらず、家族とは話したことさえない。そんな私が生きてていいと言われた。光が射し込んだようだった。


「おい、泣くな」


いつの間にか私の頬には水が流れていた。次第にしゃっくりが起こる。


「ご、ごめっ」


慌てて止めようとするものの止まらない。私は顔を手で覆った。少年が笑った気配がした。

そして温かい彼の腕が私を抱きしめた。生まれて初めて触れる人肌はとても幸せな気持ちがした。


この日から、私は新しい世界を教えてくれたこの人のために何でもしようと決意した。それが、これからを生きる私の存在する意味。私は、彼のために生きる。


私の世界は彼が全てとなった。



* * * * *



少年は、クラウディーヌ・ソルダ・リトアスというこの国の第二王子だったことが分かった。そうと分かっても、私は全く気にならなかった。私にとってそれはとても些細なことで、彼自身に仕える目標が高くなったにすぎなかった。


何故彼が私を迎えに来たのかというと、私の実家が理由だった。私の父は国政に携わる程の実力者だが、国の金を横領し投獄。近々、処刑が行われるらしい。それに応じて横領した金額の返却、財産の半分を没収、地位を伯爵とする等と言った処分が下されたらしいが、母や私の兄弟達は皆、それらに耐えきれなかったのか自殺したらしい。私が唯一の生き残りらしく、それを王子が伝えに来たという顛末だった。


「私は伯爵になるんですか?」

「そうなるな。領主はそのままだから、君の家がなくなると厄介でな」

「だからあんなに必死だったんですね」


それでも私の心は揺らがないけど。


「……すまないな。いきなり家族の死を聞かされて伯爵になれだなんて。混乱してるだろうに」

「…そうなんですかね」

「アステリーヌ嬢?」

「あの人達は私を養ってくれている人っていう認識で、家族とは思えなくて。死んだって聞いても悲しくもなんともないんです。……私って薄情なんですかね」


よく分からない。

王子様はそんな私を見て悲しそうな顔で笑っていた。



* * * * *



あの鳥籠から出て2年の月日が経ち、私は15歳、クラウディーヌ様は18歳となられた。

私はまだ爵位を継いではいない。16歳から成人であるこの国は、未成年に爵位を持たせることを法で禁止している。そのため私は次の誕生日で正式に爵位を継ぐ。とは言っても既に領主としての仕事はしていた。最初は分からないことばかりだったが、知識は屋敷にいた時暇を持て余して本ばかり読んでいたので心配はなく、後は実践あるのみだったのだ。やり方さえ分かれば仕事はすぐにできるようになり、領民からは好かれる領主となった。

クラウディーヌ様とはあの日から友人の関係を結んでいる。他人に優しく、自分には厳しすぎるクラウディーヌ様は第二王子という立場から将来は宰相として兄を支えたいと未来を見据えていた。それが私には眩しかった。


「アスティは明日から成人だな」

「そうですね。ついでに爵位もいただけて嬉しいです」

「ついでってお前なあ」

「本当の事です。これからは胸をはって領民に領主ですって言えます」

「ははっ、そうだな」

「クラウディーヌ様は…」

「おっと、アスティ?二人きりの時は?」

「……クラウ、でしたね。分かっています。でも、何か気恥ずかしいです」

「いいんだよ。俺とアスティの仲だ。気の許せる友人にまで畏まられたくない」

「分かりました。ところでクラウは近々地方の視察でしたっけ?」

「そうなんだ。楽しみで仕方ないよ」

「これで夢に一歩近づきますね。私クラウの支えになれるように頑張ります」

「…ありがとう、アスティ」


照れたように笑う彼が作ろうとする道の手伝いを何が何でも守ろう。私はクラウに会ってからそう決め、そして既に実行していた。

随分前から秘密裏に彼の邪魔になる者を処分していた。大抵は貴族が多い。思慮の浅い大人達は次々と私が張った罠に落ちていく。それを見て最初の頃は恐怖が胸を押し潰して苦しい時期を過ごしたが、今では受け入れ、自業自得だとも思うようになった。そしてそれは私の罪だと思った。

私はクラウのために生きると決め、その決意が周りを殺す。はた迷惑な悪害でしかないと自分をよく笑った。

この事をクラウは知らない。知ってはいけない。心優しい彼が知れば、傷つくことは容易に想像できた。それでも、私はきっとやめない。それがこの国のためであり、私が生きるためであるのだ。彼が私に生きろと言った日から。



私は自分が既に後戻りのできない人間であることはとうの昔に自覚している。それ故に他の者達から恨まれ、目をつけられていることも知っていた。


だから、あの出来事は起きたのだ。



・ ・ ・ ・ ・



ーーー暗い自室のベットの上で私は一人目を閉じていた。背中のところで液体が布を通して広がっていく感触が気持ち悪かった。身体に開けられた穴から力が徐々に抜けていく。


ああ、これが死ぬって感覚。


自分が少しずつ消えてなくなるような気がした。それをどこか冷静に受け入れている自分がいることに気がついた。

こうなることが予想できていたのかもしれない。それなのに何の対策も打っていなかったのは、自分の落ち度だ。私は彼との約束を違えてしまった。彼は怒るだろうか。泣くだろうか。後悔が胸の中を広がっていく。その時だった……


「なあ、あんた死ぬか?」


男の声だった。重い瞼を無理矢理開けると目の前にはカーテンを開けたのか月明かりに照らされた黒服の男が佇んでいた。顔には黒く塗りつぶされたような面をつけている。彼は何が面白いのか仮面の下で笑っていた。


「……とどめでも刺しにきたの?」


男は肩を竦めた。


「まさか!ていうか、てっきり死んでるんだと思ってた。ここには確認に来ただけだし」

「私を殺そうとした奴の仲間?」

「 ……ねえ、どうしてそう思ったの?」


男の雰囲気がガラリと変わった。嘘は許さない、そんな空気だ。普通の女の子なら震え上がるんだろう。でも生憎、私は死にかけで元々の気質もあり、怯えるような精神を持ち合わせてはいなかった。


「愚問ね」

「……俺が怖くないのかよ?」

「それも愚問ね」


男は黙った。既に笑っていないことは明らかだ。

こうして話してる間にも、身体が動かなくなってくる。ああ、辛い。

男が突然ふらりと動いた。懐から小さな小瓶を取り出すとベットに腰掛ける。男は至極真面目に言った。


「ここにあんたを唯一助けられる薬がある。俺と取引をしよう、アステリーヌ嬢」

「…とり、ひき?」

「俺は生真面目な男だ。嘘は言わない。あんたを助けてやろう。ただし、あんたは元の生活には戻れない。伯爵の地位を捨てるしか道はない。でないとお前はまた同じ奴に狙われて死ぬ」

「…………」

「あんたが第二王子のために裏で動いてたことは知ってる。あんたがあの方に執着してることも、何からも守ろうとしてることも」

「………」

「それは今の立場じゃないとダメか?」

「…何が、言いたい」

「守る力が欲しくないか?分かってんだろ?今のままじゃ守れないって」

「じゃあ、どうしろ、と、いうの?」

「俺と来い。そうすれば、お前次第だが、自分の力であの方を守れる。…さあ、どうする?」

私は突然与えられた男の言葉に驚いていた。私がその提案を受け入れたとして、この男が約束を守らない可能性は十分にある。

それでも私は…

「提案に、乗り、ましょう。国の影殿」

「……くえない女」

男は小さく笑った。


守るんだ。必ず。



# # # # #



あの男はマディという国の影、つまりは密偵や暗殺を生業とする者である。私は最初から彼が何者であるかを知っていた。そして、自分を殺そうとした暗殺者とどういう関係かを知っていて提案を受け入れた。それが最善の方法であったから。


アステリーヌ・メンデンは死んだ。自室のベットの上で自殺したという噂を聞いた。誰が流したものかは知らないが。

アステリーヌの死は彼女の領民に涙を流させた。彼女はそれ程までに愛されていた。彼女の葬式には誰もが参列し、花をおくった。そして領民が来られるように配慮し、式を執り行ったのは、彼女の友人である第二王子だった。彼もまた、彼女の死を悼んでいた。


その姿を私は目に焼き付けるように見ていた。

私が薬を飲んだ後、私は意識を失った。その後は全てマディがやってくれたため、詳細は分からないが全て上手くいったらしい。アステリーヌは死に、私は生き残った。そして私はアルという名をもらい、私を殺そうとした奴らに分からないように髪を切って影の組織に入ったと同時につける黒塗りの面をかぶって、男として生きることになった。


後悔はしていない。でも、私を慕い胸を痛めてくれた領民。アステリーヌの棺の前で動かず、一人で涙を流すクラウの姿を私は決して忘れない。

全ては私が引き起こした。それを忘れてはいけないのだ。これから、領民達の行く末は苦しく大変なものになるだろう。そして、クラウはアステリーヌの死という心の傷を負った。

私は生きているのに。

心に渦めく罪悪感をそっと心の底に受け入れる。

また一つ、私は罪を背負う。



* * * * *



私は普通なら三年かけて行う訓練を一年半で終わらせた。辛い訓練ばかりだったけど、必死でやった。早くクラウ殿下の元へ行きたかった。早く彼を守れる存在になりたかった。


私がいない間、私の領地には別の領主がなった。そいつは高額な税金を領民から徴収しているらしい。領民は夜も働く生活のせいで過労死する者が増えていると聞いて、その領主を殺しに行こうとしてマディに止められた。

そして、殿下はまた心の傷と疲労を負った。実の兄である第一王子が死んだのだ。外交のために王都を出た第一王子は国境付近で事故にあったというのを同僚の影が話しているのを聞いた。結果、殿下は慕っていた兄と宰相という夢を失い、将来王になるための目標を無理矢理立てられた。

私は彼を見守ることしかできなかった。

そのことに苛立ち、それを自分を酷使することである程度周りに八つ当たりすることを抑えた。夜遅くまで訓練を積む私をマディは諌めようとしたが私には全く届かなかった。血反吐が出るまで自分の身体に戦いのやり方を覚えさせる。手が血まみれになっても満足できなかった。これ以上の痛み、苦しみをクラウや領民は受けているのだと思うと苦にもならなかった。

そしていつの間にか、師であるマディよりも強くなっていた。経験を積んで周りの影達にも実力が認められるまでに一年半かかった訓練から二年の月日を要した。私が十九歳になる頃には“神童”と呼ばれるようになり、やっと殿下の専属の影になることができた。


しばらく見ないうちに彼は逞しく成長していた。二十二歳になった彼は男らしい精悍な顔付きの青年となり、昔ながらの優しい面はそのままに王に必要な冷酷さ、冷静な判断力、そして知識を身につけて私の目の前にいた。

新人として彼の前に立った時、面越しに緊張したのを覚えている。その時の高揚感も。

彼は私の黒髪を見て、染めてるの?と聞いてきた。否定の返事をすると彼は笑った。私はその時、心の中で引っかかるものを感じた。それを無視してもなお、私の口は反射的に動いてしまった。


「悲しい時に笑ってはいけません」

「え?」

「自分の心には嘘はつかないでください」

「それはどういう…」

「…で過ぎたことを申しました。申し訳ございません。御用がございましたらお呼びください。では、失礼いたします」


言い過ぎたと思う。しかも言い逃げだ。こんな無礼な部下を彼は使うだろうか。


結論から言うと、そんな心配は杞憂だった。

彼は私を使って色々なことを調べさせた。国の行く将来を懸念し、寝る間も惜しんで働いていた。そんな彼は何かに取り憑かれているかのように必死で、それは私を見ているようだった。訓練をしていた時私を諌めてきたマディの気持ちが少しだけ理解できた。

殿下は時々私に心を許すように笑かけてくることが多くなった。最初こそ警戒し、私がどのような人物かを探るように私を試すような任務を言い渡すこともあった。だが最近では仕事の時は公私混同せずきっちりと分けているが、たまにひとり酒の席や話し相手が欲しい時に私を呼ぶようになった。

だが、そんな機会も父である王が民に圧政をし始めた頃から減った。

ある時あまりにも彼の過労の色が強い夜があり、苦言を言ったことがある。


「殿下、今日はもうお休みになられた方が良いと思いますが」


私から殿下に話しかけることはまずない。それなのに、音もなく突然現れた私に彼は驚くこともなく書類に目を向けていた。彼の目の下には濃い隈ができていた。


「殿下」

「…分かっているよ、アル。だが民が昼夜頑張っているのに、私が休む訳にはいかない」


こうと決めたら自分が納得するまで動かない頑固さは昔から変わらない。


「ならば尚更お休みになられた方が良いと私は思います。今殿下に倒れられては民も貴方の味方である臣下も困ってしまいます」


他人を第一に考える彼のことである。長年付き合ってきたアステリーヌ時代の友人の経験から学んだ正論を突きつけた。

案の定、彼の走っていたペンが動きを止めた。


「…だが」

「自分本位の意見であれば言う必要ありません」


殿下はペンを置いて苦笑した。


「手厳しいな」

「そうでしょうか?」

「ああ。こんな事を言うのはお前くらいだ。側近でも言わん」

「それはで過ぎたことを…」

「いや。…お前はそれでいい」

「………」


殿下は遠い目をしてその中に私を映した。その奥にアステリーヌの面影を見つめている気がして私は落ち着かない気分になった。


「アル」


私は背けていた目を殿下に戻した。

殿下はちゃんと私を見て微笑んでいた。そのことに私は安堵してしまった。


「君が私のそばに居てくれることが何より嬉しいよ」


殿下が私を信じてくれている。そのことに私は喜びを感じた。


「私はいつまでも殿下のためにあります」


大切な貴方のために。


月が窓辺に立っていた私に影を作った。



+ + + + +



その夜、影達の緊急集会が開かれた。

真っ暗な地下が本拠地の我々は、蝋燭の火の元に集まった。黒い服を着た人間が密集した場所は、異様な空気感が漂っていた。

そこで上がった議題は隣国について。

つい先程、隣国の王から密書が届けられた。隣国の王はこの国の王と同じようで違う狂王と呼ばれる男である。戦好きの男で兵力に力を入れていた。そんな国の王がこの国に侵攻を図っているらしいという。この侵攻を止めたくば、この国の第一王子、つまり、殿下を殺せと要求して来たのだ。


「私たちにそれを実行しろ、というのですか」


呆れた考えにそれしか言えなかった。


「馬鹿馬鹿しいということは重々承知している。だが、それしか今の時点では手立てがないのだ。分かっているだろう、アルよ」


理解はできる。だが、愚策としか思えなかった。

隣国の王の兵は圧倒的な武力をもって戦争を仕掛けるらしい。戦争の大義名分など他国を踏み躙ることだとのたまっている。糞にも劣る外道だ。今回の密書などこちらを弄んでいるとしか思えなかった。

反対にこの国はこの前にやっと戦争を勝利させたものの兵は疲弊し、次の戦争をする余力などないに等しい。よって、隣国を迎え撃つことは不可能に近い。

だからと言って、殿下を殺して戦争を回避しようなど次世代の芽を引き千切る行為だ。


「…影の誇りはどうした。長」


私は今だ影として生きる老人を見た。老人にして発達した胸や腕の筋肉が黒い戦闘服の上からでも分かるぐらいあるこの男は昔から冷酷な男として暗躍し続けている。長が目で私を威圧する。だが、そんなもの吹く風とばかりに飄々として自分を睨みつけている私を見て鼻で笑った。


「貴様なんぞに言われるまでもないわ。これも国のためよ」


よくもぬけぬけと。その口切り刻んで…。


「アル」


肩にマディの手が乗せられた。更に肩を撫でられて苛立っていた思考が冷静になった。深呼吸を促されて、やや渋ったものの師匠の言うことに逆らえずやる。


「マディか。貴様も何か意見があるのか?」


長が鼻を鳴らして突然現れたマディを見やった。若干驚いたように見えたのは気のせいか。


「ええ。あるっちゃあありますよ。でも、アルが他に打開策を持っているようなので、後は弟子に任せますよ」

「アルが?」


長が胡乱げに私を見た。

私は手を強く握った。私の案が通らなければ殿下は…。冷や汗が背筋を流れる。足が震える。

その時、マディの手がまだ肩に乗せられていることを思い出した。その力強さに後押しされて私は口を開いた。




結局、私の意見は受理され、10日の猶予を得た。私は自由に行動できるようになり、殿下の身は10日の間保障されることになった。言い換えれば運命の時計の針は10日のみ動きを止めることになり、10日過ぎれば殿下は死ぬ。

私は私の全力をもって殿下を生かすために尽くす。これは絶対だ。

本当なら今すぐにでも行動を起こすべきなのだろうが、私は今殿下の寝台の側にいる。

殿下は眠っていらっしゃる。最近は仕事が立て込んで忙しいらしいが、私が進言したおかげか、睡眠はちゃんととるようになったらしい。普通の人と比べたらまだ少ないくらいだが。

私は殿下の寝顔を見て苦笑した。安らかとは言い難い程硬い表情で寝ている。ベットサイドには眠気を誘うための強い薬が入った瓶が置かれていた。安眠できていないのか、眉間の皺が痛々しい。


「殿下…」


私は殿下の姿を目に焼き付けるように見た。

これが最後じゃない。最後にさせるつもりは微塵もないのに私は殿下に会いに来てしまった。よく分からないもやもやとした気持ちが心を覆っている。


「私はあなたを守ります。必ず、帰ってきます。部下も置いていきます。だから、無茶はしないでください」


「ちゃんと食事は三食とってください。ちゃんと休憩は入れてください。ちゃんと睡眠をとってください」


「政務は体調と相談してほどほどに。きっと殿下はすぐに無理をしてしまいます」


言い始めたらきりがない。きっと延々と言ってしまう。それぐらい私はこの方の心配事が絶えない。それはきっと大切だから。それはどういう意味で?恩人として?友人として?

さあね。でもきっと私はこの気持ちを形にしちゃいけない。だからそっと箱の中にしまって鍵をかける。でもこの箱は大切にさせて。

誰かに言ったりなんてしない。ただ大切にさせてほしい。


「では」


私は殿下を振り切って闇に紛れる。…予定だった。

服が引っ張られる感覚がした。

見れば、殿下が私の服を掴んでいる。殿下の表情は更に険しくなっていた。

私はそれを見てつい笑ってしまった。まるで行かないでと言う子供のようだ。

少しもやもやとした感情が晴れた気がした。

私は殿下の手に自分の手を合わせて撫でて、緩んだ手を彼の身体の上にそっと置いた。


「いってきます。クラウ」


ちらりと見た彼の眉間の皺は少し薄くなっていた。



* * * * *



10日という猶予の中で私は自分の持てる能力や部下、あらゆるつてを使って暗躍した。

何度も死にかけたがその度にもがき足掻いた。殿下の命をこんなところで使ってなるものかと憤然とした思いでこの9日を駆け巡った。

そして、やっと結果を出すことができた。そんな中で突然の報告が上がった。


「殿下が追われてるだと?」

「はい。影の長が殿下を殺すよう命令したそうです」

「私の報告はまだ届いていないのか!」

「おそらく長はもともと聞く耳をお持ちでなかったのやもしれません。伝令は死体でかえってきました」


くそっ!マディがギリギリまで抑えてくれたのか。

私と長の関係は殺伐としていた。それをマディが今迄とりなしてくれていたのだ。もう少し仲良くなる努力でもするべきだったか。…全ては今更か。


「残してきた者は殿下を連れて森に隠れたようです!それもいつまでもつかは不明」

「急ぎ国に帰還!すぐに馬の準備をせよ!」


部下たちが弾かれたようにその場から消える。


「なんだか慌ただしいねえ。君は」


クスクスと静かな笑い声が耳の鼓膜を打った。


「申し訳ないな。急ぎ帰ることになった」

「構わないよ。それが君の役目なんだろう?行くといいさ。運命は止まってはくれないからね」


彼は意味深な言葉を紡いだ。


「色々ありがとうね。王子様にはちゃんと会わせておくれよ、…これからのためにもね」

「もちろん。私の命に代えても」


私は深く一礼をして立ち去ろうと扉を開けた。


「…死神は呼びよせちゃいけないよ」

「え…」


扉が閉まる直前に見えたのは終始笑顔のままの彼だった。



* * * * *



早く、早く。急げ、急げ。

もっともっと速く!


守るんだ、必ず。何があっても。例え、自分の命を差し出そうと。



* * * * *



急ぎ戻った私の目に映ったものは、私の中の理性を簡単に失わせた。目の前に見える全てのものがが真っ赤に染まって、突然光が瞬いた気がした。

部下の制止の声が遠くで聞こえた。でも、私を止める枷などないに等しい。事実、私は理性をなくしたケモノとなった。



目の前には無残な死体の山。吐き気がするほどの死の臭い。切り離された身体の一部がいたるところに落ちている。それは何十人分のものだろうか。しかし皆、無の表情で息絶えている。それもそうだ。彼らに心などない。死に対する怯えなど必要ないのだから。そういう私も似たようなものだ。だが、心まで失ったことはない。


「貴様、よくも、よくも!」


言葉にならないのか口を開け閉めし、私を睨む老人がそこにはいた。



おびただしい量の血液が玉座の周りを濡らす。誰も動かない。いや、動けない。


誰もが信じられない光景を見たがために。


「アル、アルか」


掠れたような声が聞こえた。その微かで小さな声は確かに耳の鼓膜を打った。

私は声の下方に振り向いた。そこには明らかに痩せてしまった殿下が手を後ろ手に拘束されて広間の中央にいた。


私は何も言わず、殿下を拘束していた縄を解いた。手に付いていた血がうつってしまったので着ていたマントの内側で拭いた。だが、それもまた濃くなってしまい拭き取るには至らなかった。身体中傷だらけだった。殿下は拭き取ろうとした時に中の衣装も汚れているのが見えてしまったらしい。彼は眉を顰めていた。


「アル…」

「貴様!よくもやってくれたな!!」


長が叫んだ。顔面は青を通り越して白くなり、顔中血管が浮いている。

私は殿下を支えて立ち上がった。


「儂の手駒を殺しおって!殿下もろとも切り刻んでやるわ!!」

「お前を殺すのは私じゃない」

「何?」


私は上を見上げた。


「マディ」


その時上から人影が降ってきた。


「呼ぶの遅すぎ。お前、…殺しすぎ」

「……」

「まあお前だもんな。仕方ないか。…師弟揃って大馬鹿ものだしな」


吐息のようにつぶやかれた言葉に身体が震えた気がした。


「マディ!!貴様アルに味方するつもりか!!」


長の激昂に彼は聞き分けのない子供に言い聞かせるように言った。


「味方も何も俺は最初からあんたを殺したくて仕方なかった」

「貴様っ…」

「あんたのせいで国は衰退の一途を辿った。影1人制御できず力を与えてしまった国の責任だが、それ以前にあんたは、部下を無駄死にさせすぎた。捨て駒として仲間を殺したんだ。長として、人間としてどうかしている。残念だよ。俺を拾ってくれたあんたを俺は…」

「貴様の言い分なんぞどうでもいい!まだ王は死んでいない。そして儂もな!再起はまだある!さあ立ち上がれ!!儂の死神たちよ!この国のために力をふるえ!!!」


その時、私はにわかには信じられなかった。

地を埋め尽くすほどの死体の中から半数ほどの影たちがふらふらと立ち上がったのだ。それはまさに死神。


「…サミナ草とユーケラか」


殿下が苦々しくつぶやいた。

サミナ草は私が昔自殺しようとした時に使った通称"緑の死神"と呼ばれる毒草。そしてユーケラは生命力を強制的に上げる薬、通称"生命の天使"。この相反する二つは一緒に調合するとどんな致命的な傷を負っても痛みを感じなくなり、身体能力を僅かに残った生命力で無理矢理上げる。そして今のような状態になるのだ。それはまさに命を削る危険な行為。


「ゲスが…」


私は苦々しくつぶやいた。

もう長は狂っていた。この国に取り憑かれ、国の事しか考えられず、人間を捨ててしまった。

話が通じるどころではない。それに緑の死神に手を出してしまったのだから。

緑の死神はおとぎ話にも出てくる程殆どの人が知っている毒草で、手を出したが最後死神に魂を握られてしまう。魅せられてしまうのだ。


「マディ…」

「分かってる」


私たちは剣を構えた。

かつての同胞を二度殺さなくてはいけない苦しみに胸が焼き焦がされた。


× × × × ×



腕が、重い。剣を持つ筋肉が細かに震えている。


瞼を開ければ、外界の光に照らされていたのは先程よりも凄惨過ぎる赤に塗りつぶされた世界。


マディは悲しそうに老人の身体を見下ろしている。


殿下は私達と一緒に戦った。その顔は悲痛に歪んでいる。

…殿下も汚してしまった。そんな顔をさせたいわけじゃない。私はあなたの…、これ以上はやめよう。私には最期の仕事が残ってる。


「陛下」


私は微動だにせず、ただ玉座からこちらを見下ろす王に歩み寄った。階段を一段一段上がる。


「あなたの命、いただきます」


私が最も殺したい相手。そして、殺さなくてはいけない男。

王はぼんやりと私を見た。その瞳の奥に安堵が見える。私はそれを見て身体の中心が冷たくなるような気がした。

私は罪の上に罪を重ねる。


「せめて、楽に死んで」


鮮血が飛んだ。

皮膚から溢れんばかりの赤い色。それは予想できた事象。しかし、予想外の事でもあった。


「で……ん、か?」


血を流し痛みに呻いているのは、さっきまで玉座の下にいた殿下だった。


「な、ぜ…」


誰かが男を庇った。そう思った瞬間に剣の軌道をズラし剣の威力を下げた。しかし、完全に避けるには私の体力が少なすぎた。

殿下は小さな笑い声を上げた。腹部の傷口から手を離して私を見た。殿下の瞳は初めて出会った時と変わらない新緑の瞳。その瞳は静かに凪いでいた。


「アル」


私の身体は殿下の声に震えた。殿下の瞳は私が父親を手にかけようとした事を怒ってはいない。しかし、それ以上は分からなかった。


「あ……」


どちらが発した声か分からなかった。


全ての音が、一瞬消えた。

直後の鈍い痛み。

さっきの殿下よりも多い血。それが自分の胸から出てくるものである事に激しい笑いが込み上げてきた。

流れる血は見慣れたもの。それはいつも自分が殺す相手のものだったが、今回は違う。自分のものだった。


「貴様、も…連れていく!」


そう息も絶え絶えの声はマディが殺したはずの長。


「長っ!」

「かっ、貴様の思い通りに、なるものか。きさまの、弟子も連れていく!」


身体に刺さった剣が引き抜かれた。

体力も血もない身体はその瞬間に力を失って崩れ落ちる。


「アル!」

「死者の…国で、会おうぞ。罪人よ」


息が止まった気がした。

にやりと笑った老人はそうしてゆっくり身体の力を抜いて、死んだ。

死んだ、長も、かつての仲間も、今までの敵も、殿下を害する貴族も、あのアステリーヌも!皆死んだ。


「ふっ。あ、あは。あははははははは!」


殺したのは私だ。皆私が死の状況を作り、この手で殺した!しかし、その対象に殺されるとはなんたる不覚!

狂ったような笑い声が腹の底から湧き出る。溢れる血にも構わずに、私は笑った。


「なにが可笑しい…」


この異常な私の笑い声を遮ったのは、この間にきて初めて喋った王。

王はただ長のいいなりになっていたハリボテの王だった。それも終わり。ただ生きるためだけに人形となった王はこれから法の裁きを受けるのだろう。当然死罪。国に民に裁かせるために殿下は庇ったのだろう。アステリーヌの元領民を思い浮かべたときに分かった。


「これが笑わずにいられるか。これで私の役目が終わってしまったのだから」

「どういうことだ!」


マディが叫んだ。

その音が遠くに聞こえ始める。


「私は隣国の王子に停戦を持ちかけた。あちらの王も狂っていた。だから9日間の間で信用されるためにあちらの王を殺し、これからは王子が政権を握るように工作し、この国と長きにわたる友好関係を結ぶよう要求した。その交換条件に向こうはこちらも政権を殿下に渡す事そして、私が死ぬ事を条件に入れた」

「何を言ってるんだ!」

「何って、犠牲なしにこの戦争を回避できると思ってるのか?殿下でないだけ全然マシだ。私の命だけで済むのだから!」


向こうは私を警戒していた。話は信じてもらえたが、私があまりにも手際よく動くから今後厄介になるとふんだのだろう。


「私はこの国のために死ねる。それでいい」


私は胸元から小さな丸薬を取り出した。これは私がこの国の影になると決めた時に私自身が作ったものだった。いつか死ぬ時誰かの手ではなく、まぎれもない自分の手で死にたかった。そしてらこの丸薬は私にとって思い出のあるものだった。

隣国の王子が言っていた。「死神は呼び寄せちゃいけないよ」と。呼び寄せるんじゃない。私がそいつの元に出向くのだ。


「殿下、きっと貴方は素晴らしい王になる。貴方と国の幸福を死者の国から願っております」

「アル!」

叫ぶ殿下に私は最期の言葉を伝える。

「生きて貴方の側に居られなくてごめんなさい…」


丸薬を口に含み、私の意識は水が静かに流れるように消えていった。



・ ・ ・ ・ ・


真っ暗な闇の中に私はいた。深い闇は私を食い尽くそうと這い上がってくる気がして私は震えた。叫びたかった、泣きたかった。でも、そうしても自分で何をしているかわからない気がした。走ろうとしても、手を伸ばしても、闇が深すぎて脳が麻痺しているのか自分の動きを脳が教えてくれない、分からない。

多分蹲ったと思う。何も分からなくて泣きそうな自分がとても怖かった。

その時膝と腕の隙間から光が見えた気がした。真っ白で清潔で、触ってはいけないような神々しい光。

自分が見るとは思っても見なかった。

私は無意識のうちに光源に手を伸ばす。伸ばした自分の手が見えた気がした。



○ ○ ○ ○ ○



自分の瞼が開く。そう認識すると同時に目に眩しいくらいの光が飛び込んできた。咄嗟に顔を顰め眩しいのをやり過ごす。慣れて目に入ったのは豪奢な天井。ふかふかの布団。身体を起こそうとすれば白い包帯で巻かれた自分の腕が目に入った。

「…………い、きてる」

酷く嗄れた声に私は我に帰った。

生きていた。死んだはずなのに自分は…!

息が上手く吸えなくて苦しい。どこ、どこにある。何か!

ベッドの横に付けられた小さな机の上に清潔な纏まった包帯と鋏が目に入った。私は真っ先にその鋏に手を伸ばした。

「何をしている!!」

手に取った鋏を何者かの手でむしり取られた。力強い手に更に混乱した。

「離して!!!死なせてぇ!!」

抵抗した。必死だった。死なないと、死なないと殿下が困る。私が生きていたら殿下が幸せになれない。

「死なないと駄目なの!死なないと皆幸せになれない!私なんかの命で皆幸せにぃっ……っっっ」

力強い手で頬を張られた。勢いがよすぎて口の中が血の味になった。

「…………痛い」

「すまない。……落ち着いたか?」

「……はい。殿下」

低い滑ならかな音程には聞き覚えがあった。

私は脇に立っている人物を見上げた。

殿下は痩せていた。しかも完全に栄養が足りていない痩せ方だった。目の下には隈があり、 頬は痩けている。そしてその表情には安堵が浮かんでいた。

「ご飯、食べてないでしょ」

敬語を忘れた言葉がぽつりと出ていた。はっとして殿下を仰ぎ見れば、殿下は呆気にとられた顔をした後笑っていた。

「君が心配でね、眠れなかった。そうしたら必然的に食欲も失せてね。申し訳ない」

「…出すぎたことを申しました」

「いいや。やっぱり君は変わらない」

殿下の言葉は室内に消えて、沈黙が落ちた。

何故か落ち着いていた。殿下に頬を引っ叩かれたせいかもしれない。

「殿下」

「なんだい」

「何故私はここに存在しているのですか?」

私は生きているのではなく存在を問うた。殿下は静かに微笑んでこう言った。

「君が私にとってかけがえのない存在だからだよ」

その言葉だけで私は救われたんだと思う。


私が死ぬ間際に飲んだ丸薬は死を促進させるものではなく生への力を引き出す薬にすり替えられていた。殿下の命でマディがすり替えたらしい。殿下も師匠も悪い人だ。

内戦はあの後国王の捕縛により終結し、殿下は新たな国王となった。そしてその時に王は処刑され、アルは国王を守って死んだのだそうだ。首は隣国の王子の元に送られたらしい。そう聞いて私は死ぬ必要がなくなったのか、と事実として受け止めた。


「あの、私は何故陛下の寝室にいるのですか?」

「陛下なんて水臭い。クラウでいいんだよ。アスクラーナ」

「え?」

陛下はベッドの脇、私の隣に座り私の頬を撫でた。雰囲気がかわった事についていけず、私は微動だにできない。

「君は私の妻になるんだ。だから君には名前でよんでほしい。そして、アルという名は申し訳ないが捨ててもらう」

「アルを捨てる?」

「君はあの時死を選んで丸薬を飲んだ。あの時に君はアルを捨てている。違うかい?」

「い、いいえ」

「君の命は私が貰った。だから君には新しい名をあげる。アスクラーナだ」

「…貴方は気づいているのでのしょう。この顔、彼女とそっくりだと。それなのに貴方は私に彼女と似た名前をつけるのですか」

アステリーヌ。彼女は死んだ後も殿下の側にいた。私を通して殿下は彼女を見ていたように思う。私は、彼女の名と似たその名前に耐えられるだろうか。

「これは罰だよ、アスクラーナ。君は私をおいて勝手にどこかへ行ってしまう。私は怒ってるんだ。君はついに私の手の届かないところに行こうとした。…生きてずっと私の側にいておくれ。もういいだろう?君に首輪をつけても」

彼は泣いていた。泣きながら笑っていた。そして私を静かにゆっくりとそれでも強い力で抱きしめた。

「好きだったよ、アスティ。好きだったよ、アル」

頬が温かくなった。頬を流れるものは何だろうか。

「好きなんだ。アスクラーナ」

私は人生で2度目の大泣きをした。



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のち、後世に伝えられた文献にはこう記されている。

悪政が行われていた国は内戦を起こし新たな王を迎える事で安定を手に入れ、王によるさらなる国政の発展を遂げ平和を手に入れた。そして王となったクラウディーヌは妻に平民の娘を王妃として迎え入れ、王妃たった一人を生涯愛し、4人の子宝に恵まれた。

内戦の原因となった国の暗部は解散し、たった一人生き残った男はクラウディーヌに忠誠を誓い国王の守護神となったという。

隣国との和平は保たれ、隣国の新たな王は王妃と仲の良い友人関係を築き、国王はそれに嫉妬していたとか。


王妃の文献は少ない。よって嘘が多く含まれている事が多い。身体が病弱だったとか、実は貴族の出だとか、剣の腕前が素晴らしく騎士を20は軽く倒したとか。


でも確かな事が一つある。それは、王妃がクラウディーヌを生涯愛していた事である。

彼女とクラウディーヌは死ぬ時まで一緒だった。

楽しんでいただければ幸いです。

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