それならよかったと僕らは言った
彼女の顔。肩、胸。カーテン越しに室内を照らす日の光。そのままぼんやりと彼女を眺めていた。ジャケットを脱いだTシャツにスカートという格好。下腹部が熱を帯びた。呼吸が渇く。朝の生理現象なのか、それとも彼女に欲情しているのだろうか。分からないということは分かりたくないということで、だから多分、後者なのだと思う。今更そんなプライドにはなんの意味もないというのに。
上体を起こし、真っ暗なテレビ画面を眺めながら昨晩のことをゆっくり思い出していく。大和を消した。言ってしまえばそれだけだが、それでじゃあおしまいとはならない。また警察が来ることになるだろう。それも、間違いなく昨日よりも詳しく事情を聞かれることになる。大和は家族に僕の名前を告げなかったようだが、しかし、僕と大和はコンビニに寄っている。店員が覚えていなければいいが、客が少なくなってくる時間帯だ。期待はできない。カメラを見れば大和と一緒に行動する僕も映っている。
テーブルに目を向ける。書き置き。役に立つと彼女は言っていたが、冷静に考えるとそれも怪しい。見るからに酔っ払いの字であるため泥酔状態でほとんど意識がなく言われるがままに書いたと思われるかもしれない。あるいは、僕が犯人だと決めてかかってくるのであれば脅して書かせたという考え方も出来る。
まぁ大和の失踪が事件化するとしても早くて明日だろう。二十歳を過ぎた大人が飲みに出掛けて翌朝に『帰ってこない』と騒ぐ親などそうそういない。大和の両親がそういうタイプでないことも知っている。せいぜい、夜に心配になってきて、今晩待って帰ってこなかったら警察に、という流れになるだろう。僕の家に連絡が来る可能性を考えると、今日は夜中まで外に出ておいたほうがよさそうだ。
そこまで考えて、ふとキッチンへ顔を向けた。喉が乾いている。立ち上がろうとすると頭に鈍い痛みが走った。二日酔い。棚から薬を取り出してキッチンへ行く。水道水をコップにためてカプセルを三錠口にいれた。水で一気に流す。それだけで少し気分が良くなった気がした。プラシーボ効果だろうか。あるいは軽い脱水状態だったのかもしれない。シャツの下にじんわりと酒臭い汗をかいている。
さっとシャワーを浴びて汗を流した。いつものようにドライヤーで髪を乾かそうとして、面倒になって止めた。どうせすぐには出掛けられない。
リビングに戻ると彼女はまだ眠っていた。側にしゃがんで肩を揺する。汗でじとっとした体温が伝わってきた。
彼女はすぐに目を覚ました。状態を起こして眠気眼のまま周囲を確認。無理に起こしたせいか、しばらく座り込んだままぼんやりとしていたが、僕がキッチンでお茶を飲んでいると「私にも」と言った。しかしこちらまで来るつもりはないらしい。仕方なくコップとお茶のペットボトルを持ってリビングへ行く。
お茶を二杯飲んだ彼女は先程よりも目がしっかり開いていた。
「二日酔いは大丈夫?」と訊いてみる。
「うん。ちょっとダルい感じはあるけど、二日酔いというより床で寝たせいかも」
「出掛けようと思ってるんだけど」
「どこに?」
「まずは映画。その後のことはそれから考える。でも夜中まで家には帰らないよ」
「ふぅん?」
「一緒に行く? それともここで待ってる?」
「ヤコウさんはどっちがいい?」
「来てくれた方が有り難い」
夜中に帰って来てもぬけの空だと困る。
「じゃあ行ってあげようかなぁ」と彼女は両腕を上げて身体を伸ばす。どこかの骨が小さく鳴った。「じゃあちゃっちゃとシャワー浴びてくるね。ってうわ。汗で服べとべと」
「それなら映画の前に服でも買いに行こうか」
「買ってくれるの? ふとっぱらー」
「何着でもいいよ」
「えぇ。なんかそこまで言われると気持ち悪い。キャバ嬢とヤりたくて必死にご機嫌をとる小金持ちって感じ」
「嫌な例えだね」
当たらずとも遠からずといった具合ではあるけど。
「気持ちは有り難いけど一着でいいよ」彼女は立ち上がりながら言う。「両手が塞がるの嫌だし、その分は美味しいもの食べるとかしようよ」
「何の映画観るの?」
映画館のあるショッピングモールへの道中、助手席でスマホを構いながら彼女が言った。
目当ての映画は少年漫画原作の実写映画。二部作の後編で、一部作はテレビで視聴済みだった。そのタイトルを言うと、助手席からは「えぇー」と不満気な声。
「それ続編じゃん。私前編見てないから話分かんないよ」
「ざっと教えようか?」
「映画を見るよりも面白く話せるならいいけど」
それは無理だ。というかそもそも映画自体そこまで面白かったわけでもない。せいぜい退屈はしない程度だ。
「あ、これにしようよ」
スマホを見たまま彼女が口にしたタイトルは、それもまた漫画原作の実写映画であった。ただし少女漫画。主演の俳優と女優が色々なテレビ番組で宣伝しているのを見掛ける。コテコテな恋愛物という印象しかない。
「そういうの好きなの?」
「意外?」
「少しね」
結局、映画は彼女が希望したものに決まった。スマホでチケットまで取ってくれたらしい。クレジットカードを持っているのかと訊くと、父親のカードの番号をメモしてあるらしい。
ショッピングモールに着いたのは午後一時前だった。上映まで二時間ほど。予定通り彼女の服を買い、それからモール内の適当な飲食店に入った。遅い昼食だ。店内に僕達以外の客はいなかった。
四人席に向かい合って座る。彼女が着ている半袖のワンピースに裾の長いカーディガン。ほとんど店員に勧められるがままに買ったものだが、予想していたより値段も安く、そしてよく似合っていた。少なくとも、元々着ていたものよりかは。
店員がお冷やを運んできた。それを口に含みながらメニューを手に取る。多種多様な和洋中。値段もお手頃。ドリンクバーまである。要するにファミリーレストランだった。ざっと一通り目を通し、和風ハンバーグにしようと決めて顔を上げる。
「んー」とメニューを睨んでいる彼女に「オムライスもあるよ」と言うと、
「一昨日食べたじゃん」と返された。
それから一分ほど「んー」を繰り返した後、彼女は顔を上げて呼び出しボタンを押した。すぐに店員がとんでくる。お先にどうぞというような彼女の表情を見てから和風ハンバーグを頼んだ。
「私は塩ラーメンで!」
昨日食べただろ。
それぞれ注文したものを完食した後、時間と満腹具合を見てフライドポテトを注文した。それを摘まみながらぼんやりと過ごす。僕達の間に会話はなかった。数分前に入ってきた中学生の話し声が店内に響く。馬鹿騒ぎをしているわけでも大声で話しているわけでもないため、その声はむしろ店のムードを良いものにしていた。
テーブルの上で携帯電話が震えた。手に取って開く。メールだった。差出人は母親。内容は、予定通り明日に帰るというものだった。
携帯電話を閉じながら、日馬の方はどうなっただろうかと考えた。いい気味だという気持ちが七割。罪悪感が三割。昨日の様子を思い出すともう少し割合が変わる。だがそれを改めようとは思わない。罪悪感を抱くくらいなら最初からしなければよかったとも思わない。僕が罪悪感を抱くということもまた、彼への復讐なのだから。思う存分、後悔する。そうして自己正当化する。
「ヤコウさん」
「なに?」
「今日はどうするの?」
「どうするって?」
「昨日泊めてもらった分」
あぁそうか。大和で使ったつもりでいたけど、よく考えればあれは一昨日の分なのか。わざわざ教えてくれるなんて律儀だな。
「今度こそ保留。今日は誰とも会う予定もないし、使わないままかもね」
「期限は明日別れるまでだよ?」
「それまでには使い切るよ」
「まぁどっちでもいいけど」そう言いながらポテトを摘まんで口へ運ぶ。言葉とは裏腹に、出来れば使い切ってほしいというような口調だった。一日一消を心掛けているのだろうか。多分それはないけど。
特に話をするでもなくそこで時間を潰してから映画館へ行った。やはり少女漫画原作ということもあって観客の殆どが若い女性で、男性は彼女と一緒に来ている人しか見当たらなかった。
女性の実年齢ほど察しにくいものはないが、連休中であるため学生の割合が高かったのだろう。盛り上がる場面――ヒーローがヒロインに迫る、告白する、ヒロインをめぐって男が喧嘩する等々――ではそこらじゅうから黄色い声があがった。こういう映画ではそれが当たり前なのだろうか。アニメ映画のギャグシーンで子供が笑い声をあげるようなものか。いつだか見に行った映画で唐突にベッドシーンが始まり、近くに座っていた中学生だか高校生の男子グループがそわそわと話を始めたのを思い出した。
映画はヒロインの恋が成就して終了。お手本をなぞったようなシナリオだったが、視聴後に空っぽになるような強い刺激もなく(これは僕が男だからかもしれないが)、普通に楽しめた。少女漫画とはおそらくこういうものなのだろう。少年漫画だって忍者やら海賊やらの細かい違いはあれど基本的に戦っているのはそれが受けるからだろうし、少女漫画ではそのジャンルが恋愛だというだけのことだ。
黄色い声どころか、僕が横目に見ていた限り殆ど表情も変えなかった彼女は映画館を出て数歩進んだところで足を止めて「面白かったね」と笑った。本当だろうか。
「それならよかった」
「ヤコウさんは面白くなかった?」
「いや、思ってたよりずっと面白かったよ」
「それならよかった」
彼女はそう言って再び歩き出した。時刻は夕方の五時を回っていて、そろそろ夕飯を食べる店を決めて向かってもいい頃だ。
エスカレーターに乗って上の階へ向かった。屋上駐車場に停めていた車に乗り込んでエンジンを掛ける。オーディオの音量を少し下げた。
「夕飯、どこか行きたいところある? 食べたいものとか」
「んー……。肉」
「肉」
なんとも大雑把なリクエストだ。そして肉と言われても、美味しいと評判のトンカツ屋か焼肉屋くらいしか僕は知らない。
「ちょっと待って」と彼女はスマホを取り出した。店を探しているのだろう。僕としてもその方が有り難い。
座席に深くもたれて瞼を閉じる。目にじわりとした痛みを感じた。起きて数時間だというのに目が疲れていた。眠くはないが、そのまま目を閉じていたくなる。