君を信じると僕は言った
鹿屋に送ってもらって帰宅する。リビングに彼女の姿はなかった。靴はあったしどこかへ出掛けたわけじゃあない。身動きを取らずにいると、浴室の方から物音が聞こえた。シャワーの音はしない。風呂掃除でもしてくれているのだろうか。あるいはもう掃除を終えて風呂に入っているのかもしれない。
ゲームでもしていようかと思ったが、ふと、大和の電話番号を聞いたことを思い出して携帯電話を取り出した。大和を選んで通話ボタンを押す。三コール目で繋がった。
「もしもし?」と、少し訝しげな声。登録していない番号から電話が掛かってきたのだから当然の反応だろう。
「もしもし、大和? 夜行だけど」
「夜行? 夜行京太?」
「うん。久し振り」
「おー。本当に夜行か。知らん番号だから誰かと思った。久し振りだなぁ。どうした、いきなり」
「ちょっと用事があって」
「用事? 何? なんか嫌な予感」
「少し当たってるかも」
「まじでか」
大和は事件についてはなにも知らないようだった。まずそれについてざっと説明してから、昼間に鹿屋から聞いたことを伝える。話が進んでいくうちに大和の相槌は減っていき、最後はほとんど黙って聞いていた。
「なるほど」と大和は言った。それしか言えなかったのかもしれない。
「夕方に会ったときも精神的に不安定だったし、一応、大和も気を付けといた方がいいと思う。こっちにはいつまで?」
「明後日の予定だったけど、そんな状況なら明日にでも戻ろうかな」
「まぁそっちの方が安全だとは思う」
「夜行は? 今もこっちに住んでんの?」
「あぁ。実家暮らし。今は親も兄弟も帰省中でいないけど」
「マジで? じゃあ今から夜行ん家行ってもいい? さっきのこととか色々話したいこともあるし。酒でも買ってさ。飲み明かそうぜ」
「あー……」と答えに詰まりながら風呂場の方を見る。彼女がいることを考えれば呼ぶべきではないのだろうが、大和とこうして話をして、久し振りに会ってみたいという気持ちが生まれていた。
結局、彼女には夕食を終えたら和室にでもいてもらおうと考えて了承した。
「でも今からは無理だ。八時くらいからなら大丈夫だけど」
「分かった。八時な」
「酒は集合してから買いに行く?」
「それで頼む。こっちじゃ車がないからさ。親が旅行に行ってる間は自由に使えたんだけど、ついさっき帰ってきたし」
「旅行って、大和のこと置いてか?」
「そうだよ。ひでえだろ? 付いてきたいなら自分で金出せって言うんだぜ?」
非難めいた言葉を笑って流す。
「徒歩でコンビニにいこうと思ったら三十分もかかるし。やっぱ田舎は不便だよなぁ」
「車がないなら俺が迎えにいくけど」
「マジで? いいの?」
「そのまま酒買いに行った方が早いだろうし」
「じゃあ頼む」
それから一言二言交わして通話を終える。ちょうどいいタイミングで脱衣所の引き戸が開いて、スウェット姿の彼女が出てきた。その顔は見るからに血行が良く、頭にはタオルを巻いている。入浴していたらしい。
「おかえりなさい」
脱衣所にいたのなら話し声は聞こえていただろう。真っ先にその事を訊かれるだろうと予想していたから、その言葉には少々面食らった。
「ただいま」
「勝手にお風呂入ったよ」
「別に良いよ。掃除してくれたんだからむしろ有り難い」
顔を逸らす彼女。何故だろう。考えて、ふと浮かぶ。
「まさか、浴槽も洗わずに入ったの?」
返事はない。嘘だろう? 流石にそれは駄目だ。無精者を自認している僕でもやらない。風呂掃除の経験がある者ならまず出来ない。信じられない。
言葉を失っていると、彼女が不意にこちらをちらりと見て、小さく息を噴き出した。そして小さく笑う。
「冗談だよ。流石にそんなことしないって。ヤコウさん、すごい顔してたよ。毎日お風呂に入らないくせにそんなところはうるさいんだ」
からかわれたと気付いたが、怒りは浮かばなかった。ただただ安堵だ。
「洗ってない浴槽なんて垢に浸かっているのと一緒だよ」
「それは大袈裟な気がするけど……」彼女は呆れたように言ってから「ねぇ、それでどうだったの? 交番の女の子は」と訊いてきた。
「日馬の子供じゃなかったよ。どこの誰かは知らないけど」
「なーんだ。違ったんだ」つまらなそうな表情でテレビとゲームの電源をいれる。コントローラーを二つ持って、一つは僕の前に置いた。それを拾いながら隣を見る。
「本人であって欲しかった?」
「ちょっとね。消えてる間どこにいたのかーとか私も知らないから訊いてみたいし」
「どっちにしろそれは無理だったろうね。見つかったのが本人だったら僕がまた依頼してたよ。昨日の分を使って、日馬の子供をもう一度消してくれって」
「じゃあ使わなくて済んだね。どうするの? もう夕方になっちゃうけど、使う相手決めた?」
「保留っていうのは駄目?」
「別に良いけど、連絡先とかは教えないから、私がどっかに行く前に言ってね」
「何処かに行く予定は?」
「いつまでここに泊まっていいの?」
「明後日の夕方には家族が帰ってくる」
「じゃあそれまで、かな。ね、それより早くキャラクター選んで」
前を向くと、いつの間にかキャラクター選択画面が表示されていた。彼女はすでに選択済み。どういった理由で髭面の筋肉男を選んだのかは不明だ。四角ボタンを押してランダムでキャラを決める。戦場にいたら真っ先に殺されるか犯されるであろう若くて細身の女武将が選択された。逆だろうと心の中で突っ込んだら、隣から「逆じゃん」という笑い声が聞こえた。
戦闘が始まった。わらわらと出てくる雑魚敵を蹴散らしながら口を開く。
「今夜、知り合いが来るんだ」
「えっ。女?」
「いや、男」
「あはは。だよね」
なにが『だよね』なんだと言いたかったが、手痛い反撃を受ける様が目に浮かんだのでその言葉は飲み込んだ。
「多分泊まることになると思う。とは言っても明日の朝には帰すから、今晩だけ和室にいてくれない?」
「えぇー。一緒に飲んじゃ駄目?」
「昔の話が基本になると思うからいても楽しめないと思うよ」
「大丈夫。ヤコウさんが子供の頃の話とか興味あるし」
「分かった。正直に言う。昔の話を人にはあんまり聞かれたくないんだ」
「ふぅん?」と彼女は余計に興味をそそられたような笑みを向けてきたが「ま、それならしょうがないか。でもお酒の差し入れくらいしてよ?」
「あぁ、それくらいなら。ていうか飲酒できる歳だよね?」
「女性に歳を訊くなんて」
「この場合は不可抗力だろう。イエスかノーで答えてくれれば良いよ」
「じゃあイエス。バリバリ二十歳」
「なんか嘘臭いけど、まぁいいや。一気飲みとかして倒れるのだけは勘弁してよ」
「お酒の飲み方くらいは心得てるよ」
その言葉は本当っぽかった。
テレビ内での戦闘は僕達の負けに終わった。敵の中に一人だけとんでもなく強い武将がいたのだが、その事を知らない彼女は油断したまま戦いを挑み、見事返り討ちにあったのだった。初心者は通る道だ。操作キャラが地面に横たわった状態で画面中央に敗北という文字が浮かんだ。僕が操作していたキャラはピンピンしているのだが、このゲームはどちらか一人が倒されただけで負けになるのだ。
「えぇー、なに今の。一発で体力半分なくなったよ?」
「あのキャラは特別強いんだよ」
「なにそれズルい。初心者殺しってやつだ」悔しげな彼女を見ていると少し胸がスッとした。「現実だったら一瞬で消しちゃうのに」
よくズルいとか言えたな。
夕飯を済ませて家を出たのは約束の時間の十分前だった。大和の家は割りと近所で、車なら五分程度で到着する。ちょうどいい時間だろう。
通りから住宅地へ入ろうとすると、ちょうど歩いてくる人影が見えた。眼鏡をかけていてもこの暗闇では顔までは見えなかったが、シルエットだけで大和だと確信した。ハンドルを切って路肩に寄せる。すぐに助手席のドアが開いた。そこから大和が顔を覗かせる。
「夜行、だよな?」
「顔忘れたのかよ」
「あぁやっぱり夜行か。いや、そうじゃなくて、眼鏡掛けてるから別人かと思ってちょっと焦った」
「そういえばそうか」
「視力落ちたの? 中学の頃はかなり良くなかった?」大和は助手席に座ってシートベルトを付けながら言う。
「そこまで酷いわけじゃあないけどな。運転するにはギリギリセーフかギリギリアウトかって程度」
「ゲームのしすぎ?」
「ゲームやら読書やら。少ない趣味がいちいち目を酷使するようなやつだからなぁ」
「そりゃ下がるわ」
車を発進させる。コンビニまでの道中、そこから自宅へ帰る間に近況を話し合った。大和は高校卒業後に運輸関係の会社に就職。一年前に腰を痛めてからは事務になったという。しかし若者が机仕事をしているのをサボっていると見る者も少なくないらしく、最近は肩身の狭い思いをしているらしい。
「転職先もあっちじゃなかなかなくてなぁ」と呟いたところで自宅に着いた。玄関のドアを開けて、酒の入ったコンビニ袋を持った大和を迎え入れる。
「ん? この靴は?」と鹿屋と同じ疑問が聞こえた。
「親戚が来てるんだよ。まぁ気にしなくて良いから」
「ほーん」
「先にリビング行っといて」
「ん、分かった」
大和が歩き出す前に、コンビニ袋から適当に三缶取り出した。和室のドアをノックすると小さな返事が聞こえた。ドアを開く。彼女は布団にうつ伏せになって漫画を読んでいた。枕元には何十冊もの漫画が重ねて置かれている。僕の部屋にあったものを彼女が選んで持ってきたものだ。
「はい、これ」と布団の横に缶を置く。改めて見るとビール一缶とチューハイ二缶だった。「あとで水も持ってくる」
「サービスいいね」
「そりゃどうも」
「楽しそうだね」
「そうかな」
「うん」と彼女は迷いなく頷く。「昨日なんか死んじゃいそうな顔してたのに」
「あぁ、そうかもね」
和室を出てリビングへ。大和はテレビの前にしゃがみ、先程まで彼女とやっていたゲームのパッケージを見ていた。コンビニ袋はテーブルの上に置かれている。
「やる?」椅子に座りながら問う。
「あぁ。あとでやろうぜ。まずは普通に話したいし」
大和は立ち上がると僕の向かいに座った。コンビニ袋からそれぞれビールを取り出す。
「やっぱり夜行の会社の飲み会も最初の一杯はビールなのか?」
「うん。好きじゃあないけど、こればっかりはしょうがないし」
「俺もだ。一人だけ別のもの頼んで待たせるのも悪いしなぁ」
「最初の一杯の我慢だ。まぁ慣れておくに越したことはない」
「だな」
二人揃ってプルタブを開ける。炭酸ガスの抜ける音。
「何に乾杯する?」と大和。
「楽しい連休……ってわけにもいかないしな」
「普通に、再会に乾杯でいいか」
「あぁ」
「じゃあ十年振りの再会に……」
缶を前に出して軽く触れ合わせ、同時に「乾杯」と言った。缶を口につけて傾ける。ビールが嫌いな人間にとって、美味いと感じるのは最初の一口が精々だ。ここで出来る限り飲んでおかないと後が辛い。といってもそれは飲み会での話。三分の一ほどを飲んで口から離した。大和も既に缶をテーブルの上に置いて苦々しい表情をしている。
「こっちに戻ってくる気はないの?」おつまみとして買ったお菓子の袋を開けながら大和に問う。「こっちなら就職先も見つかると思うけど」
「あぁ、そう思って探してみた。確かに良さそうなところはあるんだけど、俺としては向こうにいたいんだよなぁ。夜行は? 転職したいとか考えたりしない?」
「まったくないわけじゃないけど、今のところその気はないな。ようやく慣れたのにまた環境を変えるってなると、現状の不満よりも面倒臭さの方が勝る感じ」
「そっかぁ」
「大和は不満の方が勝ってる感じか」
「不満というか視線が痛いんだよなぁ。虐められてるってわけじゃないけど、もともと肉体労働要員で入ったわけだし」
「野球推薦で進学したけど怪我で退部したみたいなもんか」
「そんな感じ」大和はお菓子を摘みながら言う。
「腰、そんなに酷いのか?」
「最初痛めた時に仕事中で言い出せなくて、そのまま無理したら余計に悪化して、って具合」
「あー、なるほど。転職じゃなくて大学に行くっていう道は?」
「ないなぁ。高校で勉強したこととかすっかり忘れてるし」大和は缶に残っていたビールを飲み干すと、どこか自棄な笑みを浮かべた。「まぁ俺のことはいいよ。それより、日馬のこと、ちゃんと教えてくれよ」
「ちゃんとって言われてもな。正直、電話で話した以上のことは俺も知らないんだよな」
「まだ見つかってないのかな」
「多分。見つかったら鹿屋から連絡来るだろうし」
「あー、鹿屋。また懐かしい名前だな」
「あいつ、結婚するって知ってる?」
「え、マジで!? 誰と?」
「五年くらい前から付き合ってる彼女。式の日程とかは未定らしいけど」
「夜行、出るの?」
「招待状が来るかも分からないしなぁ」
「絶対来るって」
「まぁ、仕事がなければ行くよ」と嘘を吐いた。誤魔化すように話の矛先を変える。「大和は? 結婚の予定とか」
「あるわけないだろー。そういう夜行は?」
「ないな。親は『そろそろ……』みたいなことを言ってくるけど」
「うちと同じだ」
二人で笑い合う。それから焼酎を開けて、小さめのグラスに注いだ。水で半分ほどに割る。
「それにしてもあれだな」と大和はグラスに軽く口をつけてから言った。「日馬も大変だな。子供がいなくなるなんて。二歳なんだろ?」
「うん。しかも一人目の子を一年前に病気で亡くしてるらしいし、あれほど取り乱すのも分かる」
「でも俺や夜行を疑うのはおかしいよな。前の日に偶然会ったからってよ」
「まぁ、仕方ないよ。鹿屋も言ってたけど、誰かを疑っていないと正気を保てないんだと思う」
「にしたってさー。中学の頃に虐めてたことを謝るならまだしもいきなり疑ってかかるなんて間違ってるだろ」
「確かに良い気分はしないけどな。実際、俺も腹が立って鹿屋にも八つ当たりしちゃったし」
「それくらい別にいいだろ。どうせ鹿屋は日馬の味方なんだろ?」
「味方というより……あー、でもまぁその言い方が一番近いのか」
「昔からそういう奴だろ、あいつは。弱い方に味方する振りして、更に弱い方に我慢を強いるんだ。それでなにもかも解決した気になってる」
「大和、鹿屋と仲悪かったっけ」
「歳を取って気付いたんだ。同じように思ってる奴は少なくないと思うぞ」
「へぇ。そうなんだ」
「夜行もよく鹿屋と付き合っていられるな」
「いや、実はここ一年くらいまったく会ってなかった。遊んでても楽しくないどころか苛々するようになって」
でもそれは鹿屋のせいではなく僕の問題だ。少なくとも、僕はそう思っている。しかし大和は違うようだった。
「やっぱ夜行も気付いてんだよ。しっかり分かってはいないかもしれないけど、無意識に感じ取ってんだ」
「感じ取ってるって……何を?」
「鹿屋の嫌らしさだよ! 偽善的な心って言い替えてもいい」
「偽善」
僕の嫌いな言葉だ。
それから大和はヒートアップしていき、鹿屋や日馬の身勝手さを持論とともに捲し立てた。しかしその言葉は不意に途切れる。
「どうした?」
「コンタクトがずれた」
大和は立ち上がってリビングを出ていった。洗面台の明かりが点る。そしてすぐ、トイレの水が流れる音が聞こえた。続いて「こんばんは」という彼女の声。大和も少し口ごもりながら挨拶を返していた。彼女はそのまま和室に戻る、かと思いきや、リビングに入ってきた。
僕が口を開く前に「注文した水がいつまでも届かないので」と若干赤みがかった顔で言った。僕が遅いんじゃない。酔うのが早すぎるんだ。
彼女はコップに水を入れてから大和と入れ替わる形でリビングを出ていった。
「親戚って、男かと思ってた」大和は椅子に座りながら言う。
「靴見れば分かるだろ」
「見ても分かんねえよ。あの子一人?」
「いや、親もいる。さっき三缶持ってっただろ?」
「そういやそうだな」
それぞれグラスに口をつける。前に向き直ると大和は若干目を見開かせながらこちらに身を乗り出してきた。
「なぁ、俺のこと紹介してくれよ」
「無理だよ。叔父さんに殴られる。めちゃくちゃ怖い人なんだよ」
「なんだよー。紹介くらいいいじゃん。中学の時、日馬から助けてやったのによー」
「それはそれ。これはこれ」
「くそー。恩知らずめ」
軽く笑って話を流す。自然な感じを装って鹿屋の名前を出すと、大和はまた火がついたように罵詈雑言を捲し立て始めた。
変わったな、と、適当な相槌を打ちながら思った。中学の時の彼は――――いや、よそう。虚しさしか残らない懐古など。彼は変わった。それだけだ。おかしくなったとは思わない。十年も会っていなかったんだ。環境次第で性格や考え方くらいいくらでも変わるだろうし、もしかしたら彼は元々こういう人だったのかもしれない。
ふと、気付くと、大和の斜め後ろでドアが僅かに開いていた。そこから彼女が顔を覗かせていて、目が合うとさっと引いた。
なんだろう。来いってことか?
立ち上がると、大和は口を止めて僕を見上げてきた。
「ごめん、叔父さんが呼んでる」と言ってリビングを出た。廊下は真っ暗で彼女の姿はない。和室の前まで行き、ノックはいらないだろうとノブを掴んで押す。
彼女は布団の上に座っていた。ちょいちょいと手招き。招かれるままに布団の横に腰を下ろす。
「何?」
彼女は僕の耳元に顔を近付けて「あの人、メガネさんだよ」と言った。
「めがねさん?」と思わず繰り返した後、その名称の意味を理解して「嘘だろ」と口にした。
「少なくとも、顔はすごい似てる。あ、送られてきた写真見る?」
スマホを操作しながら彼女は続ける。
「あと、ぽっちゃりしてるでしょ。それに眼鏡。今はしてないけど、さっきコンタクト直してたみたいだし。あ、あった。はいこれ」とスマホの画面を眼前に突き付けられる。断言できるほど顔がしっかり映っているわけではないが、確かにそれは大和のように思えた。
「でもあいつは――」実家に帰ってきてるだけ、と言おうとして口を止めた。電話での会話を思い出す。親の旅行。
「あいつは?」目を細めて笑いながら首を傾げる。まるで僕の心境を理解して楽しむように。
「君を見ても何も言わなかった」
「私は写真送ってないもん。服装を伝えただけ。だから」彼女は壁に掛けてある私服を横目に見る。「あの服を着れば、きっと何か反応してくれると思うよ」
どうする? と言外に訊いているのは分かった。どうもしないさ。そう答えようとしたけど、何故か口が開かなかった。
「僕は今から風呂に入る」
「うん」
「その間に、君はその服を着て大和と会ってくれ」
「うん」
「もし大和がメガネさんなら」
彼女はただじっと僕を見ていた。
「大和を消してくれ」
「ちょっと風呂に入ってくる」と言って、返事も聞かないまま脱衣所に入った。服を脱いで洗濯機に突っ込む。浴室に入ったが、浴槽には浸からずにシャワーを出した。この方がリビングの様子が分からないと思ったからだった。
頭から足の爪先まで、いつもの三倍近い時間を掛けて洗った。シャワーを止めて、浴槽に溜まったお湯に指先を付ける。彼女が昼間に浸かったお湯はほとんど水になっていた。高温のお湯を出して温まるのを待つ。浴室にはお湯が流れる音だけが響いた。リビングからは何も聞こえない。
湯船には五分ほど浸かった。その間も物音はなく、たまに強い風が吹いて、家の裏に植えられている植物の葉が窓に当たるだけだった。
脱衣所に出て、バスタオルで身体を拭き、ジャージを着た。引き戸を開ける。キッチンを通り過ぎる。テーブルを囲む椅子には一人。振り返った彼女と目が合った。言葉も交わさず、目でも何も語らないまま、僕は顔を逸らしてリビングを出た。洗面台の前にたって、棚からドライヤーを取り出す。四ヶ月ほど前に切ったきりで大分長くなってきた髪を乾かし、それが終わると冷水で顔を洗った。
踵を返してリビングに戻る。彼女は、さっきまで大和が使っていたグラスで焼酎をちびちびと飲んでいた。向かいの席に座ると、テーブルを滑らせて一枚の紙を見せてきた。そこには明らかに酔っ払いが書いたと分かる文字で『わるい 勝手に帰る 大和』とあった。
大和は帰ったのか? そう問おうと顔を上げると、それを遮るように彼女が口を開いた。
「書かせといたよ。これなら勝手にいなくなってそのまま行方不明ってことで言い訳できるでしょ。メガネさん、家族には『知り合いと飲みに行く』としか言ってないって言ってたから大丈夫だと思うけど、念のためにね」
「書かせといたって、どうやって?」
「今から二人で出掛けようって言ったら書いてくれたよ」スマホを取り出して顔の横に上げる。「聴く? 一応、証拠のために録音しておいたんだけど」
「いや、いいよ。君を信じる」
「それ嘘?」
「本当だよ」
グラスに半分ほど残っていた焼酎を一気に煽る。
「人には一気するなって言ったくせに」
不満気な声。何気なく部屋の中を見回して、テレビの前に視線を固定したまま彼女に言った。
「ねぇ」
「ん?」
「ゲームしようか」