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そうなのかもしれないと僕は言った



 昼食。少し前にオープンしたラーメン屋に行った。会社の人の評判は微妙なものだったが、実際に食べてみると普通に不味かった。メニュー選びに失敗したかと思ったが、対面の席でとんこつラーメンを食べている彼女の表情を見るとそういうわけでもなさそうだった。

 なんとか完食して店を出ようと腰を浮かせた時、テーブルの端に置いていた携帯電話が振動した。職場の誰かだろうかと思いながら開くと昔の友人の名前が表示されていた。名前を見るのは一年振りくらいだろうか。

「私が払っとこうか?」

「じゃあ頼むよ」

 財布を渡してから先に店を出る。そうしている間に着信は切れてしまったが、掛け直すとすぐに出た。軽く挨拶を交わした後、「で、どうした?」と早速用件を訊く。電話で他愛もない話をするのは嫌いだ。

「日馬のこと聞いた?」と元友人、鹿屋は言った。

「やっぱりそのことか。さっき、家に警察が来た」

「マジで? なに訊かれたの?」

「アリバイ。カラオケにいたから疑われることはないと思うけど」

「カラオケ? 一人で?」

 話題がどうでもいい方向へ逸れたことに若干苛立ちを覚えた。

「いや、知り合いと」

「へぇ。いいなぁ」

「で、用事って? 日馬のことを話したかっただけ?」

「いや違う違う。さっきまで日馬と会ってたんだけど、今すごい取り乱してて、それで……夜行、昨日日馬と会ったんでしょ?」

「あぁ」

「それもあって、夜行が犯人に間違いないって日馬が言ってて……。ほら、中学の時にも色々あったし」

「うん」

 色々、ね。

「まぁ馬鹿なことはしないと思うけど、一応、家に日馬が来たりしても顔を合わせないようにしておいた方がいいと思う」

「分かった」

 じゃあ、と別れを切り出す言葉を元友人の声が遮る。

「でも日馬も大変だよね。夜行は知ってる? 日馬の一人目の子供――」

「病気で死んだんでしょ? それなら昨日聞いた」

「う、うん。それに今回のことで、日馬も奥さんも大分参ってて……」

「あのさ」

「なに?」

「ゴメンけど、俺は今でも日馬のことが嫌いなんだよ。そんなことを言われても同情しないし、むしろいい気味だとしか思わない」

 受話器越しに息をのんだのが分かった。そして戸惑うような沈黙。

「えっと、なんかあった?」

「なんで」

「夜行はそういうこと言うやつじゃないだろ」

「そういうことって?」

「他人の不幸を喜ぶような」

「どうしようもなく嫌いな相手が不幸になって嬉しくない奴は頭がおかしいと思うけど」

「やっぱりなんかあった? 今の夜行、絶対おかしいよ」

 いつからだろう。こいつと話すたびに苛立ちを募らせるようになったのは。

「冗談」

 全身の力を抜いてそう言った。背中を車にもたれる。

「え? 冗談って?」

「ごめん。冗談じゃ済まないような冗談だったな。仕事のことでちょっと苛々してて」

「もしかして今も仕事中?」

「いや、今日は休み」

「よかったら飯でも食べに行かん?」

「昼飯食べたところ」

「晩ご飯でもいいけど」

「人と食べる約束してるから」

「そっか。じゃあまた空いてる時に連絡して。休日くらい仕事のこと忘れてしっかり休みなよ」

「あぁ、ありがとう」

 待ち望んだ別れの挨拶を交わして電源ボタンを押す。携帯電話を畳んでポケットにいれながら振り返ると、助手席側に暇そうに立っている彼女と目が合った。車の鍵を開けてそれぞれ乗り込む。

「友達?」財布を差し出しながら彼女が訊いてくる。

「中学の頃のね」受けとりながら答えた。

「今は友達じゃないの?」

「うん」

「どうして?」

「さぁ」

「いつから友達じゃなくなったの?」

「分からない」

 きっと少しずつだ。嘘と言えない嘘が増えて、そのうち嘘しかなくなった。嘘で塗り固めていない僕は、元友人にとって『おかしくなった夜行京太』であるらしい。でも元友人が悪いわけじゃない。この件に関しては悪いのは僕だと断言できる。でもどうしようもなかったんだ。嘘で塗り固めなかったら、僕らの友情がこんなにも長続きすることはなかったのだから。そう。全部嘘。謝れと言うなら謝ろう。だからもう解放して欲しい。

「ヤコウさん?」

 その声で我に返った。車内。右手はハンドルを、左手はサイドブレーキを握っていた。「ごめん」と謝ってから車を発進させた。帰路と逆方向に走行しているのは、日馬の職場にいくためではなく、ゲームショップに向かうためだった。

 バイパス近くの信号で渋滞に引っ掛かった。周囲のナンバープレートを見ようとして、眼鏡を掛け忘れていることに気が付いた。彼女に言ってグローブボックスから眼鏡ケースを取り出してもらう。

「来るときもしてなかったね」

 ケースから眼鏡を取り出して渡してくれた。

「うん。よく忘れるんだ」

「そんな視力が悪いわけでもないんだ?」

「まあね。夜がちょっと危ないくらいかな」と眼鏡を掛けながら返す。ナンバープレートの文字が読める程度に視界が明瞭になった。大阪、川越、神戸、広島の地名が記された、普段は殆ど見ることのないナンバープレート。

「川越ってどこの県か知ってる?」と訊く。答えは期待していなかったが、彼女は「埼玉県だよ」とさらっと答えた。

「よく知ってるね」

「たまに遊びに行ってたもん」

「へぇ」

 そういえば、彼女が消したという緒方舞は長野県に住んでいたと記事に書いてあった。普通に考えるなら彼女も同じ中学に通っていたのだろうし、何の不思議もない。不思議に思うとすれば『なんでこんな田舎にいるのか』だが、親の都合でこちらに引っ越してきたという可能性もある。どちらにせよ、わざわざ訊くことではないし、訊いたところで『内緒』という単語しか返ってこないだろう。まさかメガネさんに会うためにこんなところまで来たわけでもあるまい。交通費だけでもホテルで何泊も出来てしまう。というかメガネさんは結局駅に来たのだろうか。

「メガネさんから連絡は?」

「なんで急にメガネさん?」

「思い出したから、なんとなく」

「『何処にいるの』ってメールがきてたから『外に出たのが親にバレたからごめんなさい帰ります』ってメールしといたよ」

「ていうかメガネさんが駅に来たんならうちに泊まる必要なかったんじゃ……」

「そういうこと言っちゃう?」

「いや、迷惑なわけじゃなくて純粋な疑問」

「メガネさん、ちょっとぽっちゃりしてるんだよねー」

「へぇ」と返してから数秒後、今の言葉が理由だったのかと思い至った。呆れて、少し笑ってしまった。彼女も「へへ」と笑って、僕を見た。

「次に消すのは、さっきの元友人さんでいい?」

 優しげな微笑み。同じような表情を努めて応じる。

「いや。彼を消す気はないよ」

「そうなの?」

「うん。別に嫌ってるわけでもない」

「あ、そうなんだ。てっきり嫌いなのかと思った」

「どうして?」

「話を聞いてて、なんとなく」

「じゃあそうなのかもしれない」

「消す?」

 首を横に振ると、彼女は「はーい」と車窓に顔を向けながら答えた。



 定番のアクションゲームを買った。最新のナンバリングではなく一つ前のものだ。パッケージを見比べてもそれほどの違いは感じなかったし、なにより四千円もの差額は大きい。さて帰ろうかと店を出たところでコントローラーが一つしかないことに気付き、店内に戻った。結局、ソフトの差額分は吹き飛んだ。

 帰宅後にゲームを始めて一時間ほど経った頃、玄関のチャイムが鳴った。ちょうど一戦終わったところだったため「一人でやっといて」と言って立ち上がる。一日に二回も誰かが訪ねてくるなんて、今日は随分と来客が多い日だ。誰だろう。日馬かな。

 インターフォンの画面を見る。一人のようだが、ちょうど顔の見えない位置に立っている。受話器をとると、その音に反応したのだろう。顔をこちらに向けた。

 日馬ではなく、昼間に話した元友人、鹿屋だった。誘いは断ったはずだけど、と昼間の記憶を思い出しながら「どうした?」と訊く。

「近くを通ったから寄ってみた。今、大丈夫?」

 玄関へ行き、彼を招き入れる。

「この靴は?」という声に振り向くと、鹿屋は彼女の靴を見ていた。オーソドックスなスニーカーだが、男が履くには可愛すぎるし、第一にサイズが全然違う。隣に僕の靴が並んでいるから一目瞭然だ。

「親戚が来てるんだ」

「女の子?」

「多分ね」

「会ってみたいなぁ」

「もうすぐ結婚する奴がなに言ってんだ」

「そういう意味じゃないって。ただ単に夜行の親戚に興味があるだけ」

 じゃあ性別を聞く必要はないだろうと思いながら和室へ案内する。敷きっぱなしだった布団を畳んで部屋の隅に置き、座布団を畳の上に敷いた。鹿屋はそこに、僕は畳んだ布団の上に腰を下ろして向かい合う。

「てか知ってたんだ」と鹿屋が言った。

「母親から聞いた。母親はおばさんに聞いたらしいけど」

「初耳だよ」と彼は照れたように笑った。

「で、こんなところに来てる暇あんの?」問いが自然と口から出た。だが答えが欲しかったわけではないため、すぐに「日馬の様子は?」と、別の質問をした。

「あ、あぁ、うん。少しは落ち着いたよ」

「俺への疑いは?」

「警察からはアリバイが立証されたって説明を受けたんだけど、日馬はあまり信じてないみたい。夜行は気分が悪いだろうけど、多分日馬も誰かを疑ってないと気が保てないんだと思う」

 この元友人は地元の同年代のなかではなかなかの人気者だ。僕と比べるまでもなく良い奴だし、それは理解できる。当然、日馬とも仲が良く、本人同士だけではなく家族ぐるみの付き合いらしい。

「別に疑うのはいいよ。俺が誰かに頼んだって可能性もあるわけだし」

「実は日馬もそう言ってるんだ。夜行、大和おわのこと覚えてる?」

「オワって、大和基之?」

 名前を聞いただけで顔を思い出せる数少ない人物だった。

「うん。日馬は、夜行と大和が協力してやったんじゃないかって言ってるんだよね」

「大和の連絡先すら知らないんだけどな。大体、あいつ県外で就職したんじゃなかったっけ?」

「そうなんだけど、今は連休中だし――」

「戻ってきてるのか」

「うん。日馬もそれを知ってたから余計に怪しんでるみたい」

「っていうかそもそも、なんで大和なんだ?」

 その理由はなんとなく分かっていたが、敢えて聞いてみた。

「中学の頃、大和は日馬のちょっかいから夜行をかばってたでしょ?」

「そんな良い奴が誘拐をしたなんて言ってんの?」

「日馬も余裕がないんだよ。そこは分かってやってほしい」

 針のように鋭い苛立ちが脳を刺した。余裕とかいう話だろうか。日馬の中で僕や大和はどういう立ち位置にいるのか。悪だとでも思っているのか? 目の前の友人面している男に訊いてみたい。十年前の僕と大和と日馬。誰が一番の悪人だったか。

「このこと、大和には?」

「後で電話しようかと思ってる」

「俺がするよ。番号教えて」

 互いに携帯電話をポケットから出す。鹿屋はこの一年の間にスマホに替えたようだった。それすら話題に上がらないほどには距離が空いたのだ。

 電話番号を登録して、携帯電話をポケットにしまう。前に向き直ると、鹿屋はまだスマホを構っていた。

「ごめん、彼女から連絡きてて」

「もしかして彼女も日馬と一緒にいるの?」

「うん。今は日馬の家に十人くらい集まってるよ」

「へぇ」と呟いてから、ふと、あることを思い付いて口にしてみる。「あのさ、俺も色々考えてみたんだけど、警察が誘拐って断定しないってことは、証拠がないっていうことだろ?」

「うん」

「それってつまり、誰かが家に侵入した形跡がないっていうことか?」鹿屋の表情が若干動いたのを見て追い討ちを掛ける。「もっと言えば、家の鍵は全部ちゃんと閉まってたとか」

 そうであることを願っていた。そして鹿屋は「あんまり言ったら駄目なんだろうけど、夜行も巻き込まれてるからね」そう前置きしてから「実はそうなんだよ」と頷いた。

「通報で警察が駆け付けた時も窓の鍵は全部閉まってたらしいし、麻友子さん――日馬の奥さんもちゃんと閉めたって言ってる。玄関もしっかり施錠されてたみたいだし……」

「それを聞くと怪しいのは日馬夫婦じゃないか? それかどっちか一人の犯行」

「夜行、そんな風に言わなくても――」

「嫌いだからとかじゃない。あくまで客観的に見た感想だ。お前だって、まったくそう思わないわけじゃないだろ? 口に出さないだけで」

 元友人は口をつぐむ。

「第一、誰かが合鍵を作っていたとしても、簡単に子供を連れ去れるような状況だったのか?」

「いや……、日馬も麻友子さんも恵真ちゃんと同じ部屋で寝てたらしい」

「それは警察も困ってるだろうな。寝てる赤ん坊を持ち上げて何処かに連れていこうとしたらどうなるかなんて子供にだって分かる」

「日馬は、眠らされたんじゃないかって」

「一声あげる隙もなく? ドラマじゃないんだからさ。それなら殺されたって考える方が辻褄が合う」

「夜行――――」

「やめてくれ。俺は疑われてるんだろ? 身の潔白を晴らすため冷静に状況を分析するのは悪いことか?」

「悪いとは言わないけどさ」

 そうだろうな。こいつはいつもそう言うんだ。

「でも、日馬と麻友子さんが恵真ちゃんに何かする筈がないし、殺されてるとかは仮定だとしても言ってほしくない」

「なら日馬にも言ってほしいんだけどな。夜行がそんなことするはずないって」

「それは……」

「人を虐めておいて、今度はそれを理由に人を疑ってんだぞ? 勝手過ぎると思わないか? 間違ってるのは俺か?」

「いや、夜行は間違ってない。ただ、状況が状況だから仕方ないんだ」

 僕の脳みそは苛立ちの針がところ狭しと突き刺さってウニのようになっているのだろう。頭の感覚が鈍くなっていく。

 その時、スマホの着信音が響いた。電話のようだった。

「もしもし?」と電話に出てすぐ、鹿屋の目が大きく見開かれた。僕に視線を向けながら会話を続けて、今から行くと早口で告げると電話を切る。

「どうかした?」

「二歳くらいの女の子が交番で保護されたって」

 耳を疑った。

「日馬の子供?」

「それはまだ分からない。日馬は家を飛び出していったらしいから、俺も早く行かないと」

「俺も付いていっていい?」

 是非確認したい。驚いたが、確かに彼女は『二度と見つからない』とは言っていなかった。今まで見つかったことはないと言っただけ。

 鹿屋は迷うような素振りを見せたが「分かった」と頷いた。思った通りの反応だった。

 和室を出ると、リビングに戻って鍵や財布を取りながら彼女にさっと事情を説明して「ちょっと出掛けてくる」と告げた。

「晩御飯は?」

「それまでには帰ってくるよ」

「はーい」

 彼女は操作キャラクターを選びながら言った。

 家を出て鹿屋の車に乗り込む。一年前と車も変わっていた。

 子供を保護したのは、ここから車で二、三十分ほどの距離にある交番らしい。遠回りして、鹿屋の恋人と見知らぬ女性を拾った。女性は日馬の奥さんの友人らしかった。鹿屋の恋人とは前に一度だけ会ったことがあった。軽く挨拶を交わす。それから彼女は不安げに鹿屋を見た。

「ねぇ吉人、夜行さん連れていっても大丈夫なの?」

「見つからないようにしてれば大丈夫だって」

 二人の会話はそれで終わったが、後部座席からは小さな話し声が聞こえた。僕の名前が聞こえてきたから、きっと『あれが夜行京太?』とでも話しているのだろう。気分の悪さを感じて、誰にでもなく口を開く。

「保護された子供っていうのは交番まで一人で来たの? それとも誰かと?」

「どうだろう」と真っ先に反応したのは鹿屋。前を向いたまま「なにか知ってる?」と後ろの二人に問う。

「お爺さんとお婆さんに連れられてきたらしいよ」と鹿屋の恋人が言う。「道端で泣いてるところを見つけたって」

「写真とかは送られてきてないの?」

「そのつもりだったみたいだけど、それより先に義勝君達が出ていっちゃったから」

「そっか」

 まだ確定はしていないようだ。別人ならどうでもいい。もしも本人だったら――――。

 大した会話もないまま交番の近くに着いた。辺りを見回そうとすると、鹿屋が少し焦った様子で「夜行、隠れて」と言った。膝の間に入るくらい頭を下げる。

「日馬がいる」

「様子は?」

 数秒の沈黙の後、鹿屋は「違ったみたい」とだけ言った。

 後部座席の二人が車を降りる。鹿屋も「ちょっと行ってくる」と言ってそれに続いた。

 そっと頭をあげて窓の外を窺う。小走りで駆けていく鹿屋を目で追うと、そのうち日馬の姿が見えた。おそらく隣に立っているのがマユコさんという日馬の奥さんなのだろう。昨日溌剌と仕事をしていた表情は死にかけの病人のようになっていた。たった一日で人間はあんなに変わるものなのか。

 不意に、日馬がこちらを見た。目が合う。やば、と思った頃には時すでに遅し。日馬の表情は怒りに染まっていた。元が死にかけの病人みたいな顔だったから、その表情はそこらのホラー映画よりも恐ろしい。

 鹿屋達も当然その変化には気が付いた。しかし制止するより先に日馬はこちらに向かって走り出していた。

 選択肢は二つ。一つ目は、このまま車内に立て籠る。これなら怪我をすることはまずないだろう。問題点は、おそらく買ったばかりであろう鹿屋の車に傷が付けられる可能性が高いこと。二つ目は、車外に出る。これなら車に被害が及ぶことはない。ただし、近くに交番があるとはいえ、最低一発は殴られるだろう。しかしそれさえ耐えれば弱みを握ることが出来る。そんな風にすぐ感情的になるから恨みを買うんじゃない? とでも言ってやろうか。

 ほとんど考えることもなく車外に出る。車のドアを閉めて振り返ると同時に胸ぐらを掴まれた。そのまま車体に押し付けられる。車に傷が付いたらどうするんだ。

 目前には歯を食いしばって目に涙を溜めた顔。日馬の顔は嫌いだけど、その表情には特に嫌悪感を抱くことはなかった。

 少し待ってみたが、日馬は睨み付けてくるだけで手を出そうとはしない。胸ぐらを掴むだけで暴行罪にはなるらしいが、現状を考えるとそれだけでは弱みとしてはいまいちだろう。

「日馬、俺を疑うなら教えてほしいんだけど、俺はどうやって鍵の閉まった家に入ったんだ? どうやって子供を連れ去った? 俺がカラオケにいたっていうのは知ってるよな?」

「大和だ」と日馬は絞り出したような声で言った。「あいつとお前が協力して、恵真を拐った」

「なら警察にそう言ってくれよ。それで俺と大和がここ何年も連絡を取ってないことが分かるだろ。今回のことは気の毒に思うけど、なんの根拠もなく疑われる方の身にもなってくれ。こんな時にこんなこと言いたくはないけど、変な噂が近所に流れたらと思うと黙っていられない」

 近所の目を気にする奴が見知らぬ女を家に連れ込むのか、と考えると笑ってしまいそうになった。必死で堪えて日馬を睨み返す。これだけ言えば殴ってくるだろう。

 そう確信していた。

 だが不意に、胸ぐらを掴んでいた日馬の手から力が抜けて、身体の横にだらんとぶら下がった。慌てて駆け寄ってきていた鹿屋と警官が視界の隅で足を止めた。

 日馬は小さく口を動かすと、ふらふらと踵を返し、そのままおぼつかない足取りで交番の方へ戻っていった。警官が日馬に肩を貸して、それを見てから鹿屋が近寄ってきた。

「夜行、大丈夫?」

「胸ぐら掴まれただけ」

 早口で答えて、さっさと車内に戻った。荒い息を整えようと試みる。しかしむしろ息切れは加速していく。胸ぐらを掴まれた恐怖でも、怒りでもない。たった一言、日馬が最後に口にした言葉。

『ごめん』

 それだけが、心臓を掻き乱していた。



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