嘘吐きと彼女は言った
翌朝、目を覚ましたのは正午を過ぎた頃だった。自然な起床ではなく、玄関のチャイムによるものだった。来客の予定はない。何かの勧誘か、訪問販売か、そうでなければ昨晩彼女が言っていたように――――。
インターフォンを覗くと二人の男性の姿があった。受話器をとって眠たげな声のまま「はい」と言う。
「夜行さんのお宅ですか? 夜行京太さん?」と若い方の男が言った。再び「はい」と返すと、男は懐から手帳を取り出して広げて見せた。
「警察の者です。少々お時間よろしいでしょうか」
「はぁ」
受話器を戻して彼女に顔を向ける。まだ眠っているようだった。わざわざ起こすこともないかと一人で玄関に向かう。ドアを開けて、話をするのは玄関でいいかと聞くと、若い方の男は構いませんよと言った。
「奥にどなたか?」と玄関に入りながら訊いてきたのは四、五十代ほどの小柄な男だった。昨日見たドラマのようなコンビだと内心笑う。
「彼女が寝てるんです」
「そうですか。ご家族は?」
「両親と兄は父の実家に帰省しています。弟は大学の寮です。あの、用はなんでしょうか」
質問に答えたのは若い男だった。
「日馬義勝さん、ご存じですよね」
「はい。中学の頃の同級生で、昨日再会したばかりですけど」
「日馬さんのお子さん、日馬恵真ちゃんが行方不明になっています」
「行方不明? 昨日はそんなこと――」
「えぇ、行方不明になったのは、今日の零時から朝の五時の間です」
「誘拐ということですか?」
「いや、それはまだなんとも」
「夜行さん」と小柄な男が会話に口を挟む。「昨晩の零時から早朝の五時までどこで何をしてました?」
「彼女といました」
「それはここに?」
「いえ、カラオケです」
「カラオケ。そんな夜中に」
「はい。連休中はどうしても不規則な生活になってしまって」
「何時から何時までカラオケに?」
「十一時から六時くらいだと思います」
「七時間も?」と若い男が驚きの声を上げた。
「はい。最後の二時間は二人とも寝ちゃったんですけどね」
「どこのカラオケボックスかお聞きしても?」
「えぇ」
店名を言うと、二人の男は立ち上がった。あとはアリバイの裏をとるだけということだろう。
「お昼時に申し訳ありませんでした。ご協力、感謝いたします」
「あの」と二人を呼び止める。
「何か?」
「日馬は、その、ちゃんと父親をしていたんですか?」
「と、言いますと?」と小柄な男は踵を返しかけた身体を再びこちらに向ける。
「正直、中学時代の彼には良いイメージがなくて……」
「私が応対した限りは良い父親に思えましたよ」
その言葉に自然と笑みが浮かんだ。
「そうですか。それは良かった」
リビングに戻ると何か言いたそうな目と視線が合った。
「なに?」と布団で横向きに寝たままの彼女に問う。
「余計なこと言ったね」
「昨日話したとおりのことしか言ってないよ」
「最後に言ったじゃん。父親が怪しいと思うって」
「そんな風には言ってないけどね」
「そんな風に聞こえたの」そう言ってから起き上がるとカーテンを開いた。暖かい光を横顔に浴びながら僕を見る。
「次は誰を消す?」
「次?」
「だって、一晩泊めてもらったら一人消す契約でしょ」
当然のように言う。人を消すことなど彼女にとっては容易い事なのだろうか。
昨日の夕食後、僕と彼女は確かにカラオケボックスへ行った。『確実なアリバイを作るため』だそうだ。だがそこにトリックはない。七時間、彼女は確かに僕とずっと一緒にいた。そして帰宅して、先程まで眠っていた。そもそも彼女は日馬の家すら知らない筈だ。僕だって知らないのだから。考えられるとすれば“電話で誰かに協力してもらった”くらいだが、そんなことを頼める相手がいるならそいつの家にでも泊めてもらった方がいい。
「それを頼む前に、どうやって日馬の子供を消したのかだけ訊いてもいい? やっぱり内緒?」
「別にそういうわけじゃないんだけどね」と彼女はソファに腰掛けながら言う。「多分、信じてくれないと思うし」
「信じるよ」
彼女は僕の目をじっと見てから、顔の前まで上げた自分の右手に視線を移した。
「私にはそういうことが出来るの。視線を合わせる必要も、ノートに名前を書く必要も、呪いの言葉を吐く必要もなく、ただ消えろって思えば消える」
「信じられない」
「嘘吐き」
非難の視線に背を向けて脱衣所へ行く。後ろから「お風呂入るの?」という問いが聞こえてきたから「シャワーだけどね」と返した。
起きた時からずっと、全身にヘドロを被ったような気持ち悪さを感じている。
服を脱いでも、シャワーを頭から浴びてもその不快感が消えることはなかった。皮膚にこびりついているんだ。昼間だけ被っている常識の皮に、気持ちの悪い良心や罪悪感、綺麗事が。そしてそれらは邪魔をする。歓喜の声をあげたいという素直な心を。
浴室を出るとテレビの音と生の笑い声が聞こえた。彼女の笑い声を聞いたのは初めてだなとふと気付く。
脱衣所を出てキッチンで水を飲んでいると、物音に気付いたらしい彼女が「あがった? じゃあ私も入ってくる」と言ってキッチンの横を通り過ぎていった。家主にことわりひとついれないとは馴染みすぎじゃないだろうか。それとも一人消したからのだからある程度の自由は許されて然るべきという理屈か。いや、でも日馬の子供を消したのは一昨日の分のはずだし……。まぁ気を遣い過ぎるよりはいいか、とソファに腰掛ける。先程まで彼女が座っていたのだろう。そこに残った温もりが気持ち悪くて少し横にずれた。
テレビにはお昼の情報バラエティーが流れていた。確か、この時間帯ナンバーワン視聴率の番組だ。変わり者に思える彼女にもやはり大衆的なところはあるものだ。リモコンを取ってチャンネルを変える。民放三局のうち二局は興味のない情報バラエティー番組であるため、この時間にテレビを見るとなると選択肢は限られている。テレビに映った残りの一局では、昨日と同じ誘拐事件について報じていた。内容は昨日と代わり映えせず、新たな情報などはないようだった。犯人の若い男が連行されていく映像が流れる。彼に自分を重ねてみた。やはり、まるで理解できないということはないように思えた。
そもそも、今の僕と彼にどれほどの違いがあるのだろう。歳は彼が下だがそんなに差はない。そして、私欲のために子供を拐った。僕は、消した。どっちが悪だ? どちらもというのなら、どちらがより悪だろう。きっと僕だ。
ヘドロが降ってくる。常識の皮に浸食する。でも、その下の皮膚には付着することさえ出来ないだろう。
彼女は悪か? そうに決まっている。僕が悪で彼女が悪でない筈がない。僕にとっては、なんて馬鹿なことを言うつもりもない。今の僕にとって彼女は間違いなく悪であり、そして夜になっても、それが正義に変わることはない。ただ境界線が曖昧になるだけ。
自分自身を消してしまいたい夜に、正しさなど何の意味も持たないのだから。