普通だよと僕は言った
彼女はクーと名乗った。メガネさんと知り合ったときに飲んでいたジュースからとったのだというどうでもいい情報まで教えてくれた。
「あなたの名前は?」質問と同時に視線を感じた。僕は前を向いたまま応える。
「夜行京太」
名乗ってから、偽名を使うべきだったかと後悔した。しかし、誰もいないとはいえ実家に連れていこうとしている相手に偽名を名乗ることの無意味さを考えるとどうでもよくなった。
それよりも訊きたいことは、駅で彼女が口にした言葉の意味。誰か一人を消す。それは、殺すということなのだろうか。しかしそのことを訊くより先に彼女が再び話を始めてしまった。メガネさんとのやりとりという本当にどうでもいい内容であったが、彼女とメガネさんが会うことになった理由が『誰かを消すため』ではないことだけは分かった。少し前に話題になった、神待ち掲示板。二人はそこで出会ったらしい。
「家出中ってこと?」
そう訊くと、彼女は「まぁ……」と歯切れ悪く答えた。そんな反応をされては追求する気にはならず、
「ああいうサイトはサクラばっかりだと思ってた」と話題を変えた。
「『神待ち』なんて書いちゃってるとこにはサクラしかいないよ。出会い系と一緒」
「そういうものなんだ」
「うん。まぁヤコウさんは興味ないだろうけど」
高校の頃、携帯電話でアダルト動画を見ようとして出会い系に登録されてしまったことを思い出しながら「まぁ……」と返事をした。歯切れが悪くなってしまった感は否めない。
話をしているうちに家に着いた。
「いいの? 家族いるんじゃない?」
バック駐車をしている際、他の二台の車を見ながら彼女が口を開く。
「親と住んでるけど、今は帰省してるから」
「置いてかれたんだ」
「昨日まで仕事だったからね」
「仕事なにしてるの?」
「色々」
一度切り返してから駐車する。ドアを開けると「このペットボトル、置きっぱなしでいいの?」と彼女の声が背中に飛んできた。
「忘れてた」と言ってペットボトルを掴む。
「こっちの袋は?」
「それは置いといていいよ」
「りょーかい。って狭っ。出れないんだけど」
ドアを開けた彼女の声。助手席に人を乗せて家に帰ってくることなんて殆どないから、いつもの癖で寄せすぎたらしい。
「ごめん。こっちから出て」
「ヤコウさん運転下手くそなの? 格好いい車乗ってるのに」
その言葉を僕は苦笑で流した。日が出てから車を見れば、それはわざわざ口に出して問うまでもない質問だと彼女も理解するだろう。夜だから傷が見えにくいだけだ。
家の鍵を開ける。車の鍵の主流がリモコンキーに変わってから十年以上が経ち、今ではキーレスやスマートキーなんてものまであるというのに自宅の鍵は子供の頃から変わらない。もっとも、こんな田舎で電子キー等に変えたらあっという間に噂になって、更に宝くじが当たったなどの尾ひれが付くこと間違いなしだろうけど。
ドアを開くと、彼女は躊躇うことなく家に入った。続いて入って、ドアと鍵を閉める。鍵を閉めなくとも安心して眠れるほどの田舎でもないのだ。中途半端な田舎。下の中か上の辺り。だから僕はこの町が好きなのかもしれない。
「ひろーい。吹き抜けだぁ」
「普通だよ」
「ふぅん」
靴を脱いで玄関に上がる。彼女は丁寧に靴を揃えて隅に置いた。良い子だなと思った。不良が子犬に、的なシチュエーションなんだと思う。
「ここがリビング。そっちがトイレ。トイレの左にあるドアは風呂場」
「はーい」
元気な返事。緊張はまるで見られない。この家の住人である僕が緊張気味だというのに。
リビングに入って、電気を付ける。ダイニングテーブルの上にゴミが入ったコンビニ袋が置かれている。リビングのカーペットの上には布団が敷かれていて、その近くにあるスイッチ付きの延長コードには携帯電話とゲームの充電器が差してある。そして枕元には携帯ゲーム。
「どんな生活をしてるか分かった気がする」
「多分当たってる」
「早速だけどお風呂入ってもいい? 二日前にシャワー浴びたっきりなんだよね」
「そこからも風呂に繋がってる」キッチンを通りすぎたところにあるドアを指差す。「だけどまだ掃除もしてないよ」
「いいよ。それくらいするから。ていうかもしかして今日お風呂入らないつもりだったの?」
「仕事があるわけでもないし一日くらい」
「うえー」と彼女は顔をしかめた。これほど自分の事を棚に上げられる人は珍しい。と思ったがそうでもないか。
彼女は手に持っていた小さなバッグをテーブルに置き、薄手のジャケットを脱いだ。ストライプの七分袖シャツに膝丈のスカート姿。ジャケットを椅子に掛けておいていいか訊かれたので頷いた。
「そういえば着替えとかは?」小さなバッグを見ながら問う。下着ならまだしも洋服が入るサイズではない。
「ないんだよねぇ。貸してもらえない? 服も洗濯したいし」
「いいけど、いつから洗濯してないの?」
「内緒」
思わず顔をしかめると「失礼な」と言われた。常識的な反応だろうと心の中で反論する。
「洗剤とスポンジは浴室の中にあるから」
「はーい」
袖を捲りながら風呂場に入っていく背中を見送った後、リビングを出た。普段着ないような服は和室の箪笥に収納されている。昔使っていたスウェットと、小さめのサイズのTシャツを取り出した。母親の服ならサイズも合うだろうが、知り合いならまだしも見ず知らずの相手に勝手に貸すのは憚られた。
脱衣所に着替えを置いてからキッチンに入った。洗面台には二日分の食器が溜まっている。鼻から息を吐いてからスポンジと洗剤を手にとった。
食器洗いが終わった頃、ちょうど風呂掃除も終わったらしく、シャワーの音が止んだ。続いて風呂蓋を閉める音。浴室の引き戸が開く音。そして僕が目を向けると同時に脱衣所のドアが開いた。
「終わったよー。どのボタン押せば良いの?」
「湯張りってやつ」
「あーい」
再び脱衣所に入っていった背中に少し大きな声で問いかける。
「ご飯は食べた?」
「まだー」
ピッ、という電子音。給湯口からお湯が出る音も聞こえてきた。二種類のカップラーメンを左右の手に持ったとき、彼女が戻ってきた。
「今、オムライス食べたい気分」
「作れるの?」
「ううん」
「とんこつか塩、どっちがいい?」
「塩」
右手の塩を渡してとんこつは棚に戻した。やかんに適当に水を入れてクッキングヒーターのスイッチをいれる。出力最大。
彼女はその間にカップラーメンの下準備を終えていた。その素早さにどことない親近感を覚える。
やかんの水はすぐに沸騰して、お湯を注いだ容器を持ってテーブルに移動する。向かい合わせに座って、ようやく駅での言葉の意味を訊く場が出来たと思ったのだが、先手を取ったのはまたしても彼女だった。
「あれ?」と視線を隣の席に向けた。次に斜め向かいの、つまり僕の隣の席を見て、最後に僕と目を合わせる。
「ここって誰の席? お客さん用?」
「誰ってわけでもないけど、大学の寮に入る前は弟が使ってたよ」
「弟いるんだ。ヤコウさん、お兄さんっぽくないのに」
「兄貴もいるよ」
「あ、それっぽい」
どういうことだろう。
僕が本題を切り出す前に、彼女はカップ麺の蓋を開けて後入れの粉末スープを入れた。二分も経っていないと思うのだが、硬麺が好きな気持ちはよく分かるため何も言わなかった。
顔には出していなかったがよほど空腹だったらしい。あっという間にラーメンをたいらげ、さっさと風呂場に入っていった。食後すぐに風呂に入ると太りやすくなるという情報が頭をよぎったけど『なんでこのタイミングで言うの』と不機嫌になられても嫌なので黙っておいた。それに衣服から伸びる細い手足を見ると少しくらい太った方がいいように思える。
カップ麺の容器をさっと洗ってからソファに腰掛ける。不意に布団が目に入って、なんとなく畳んで部屋の隅に置いておいた。
その際、布団から滑り落ちた携帯ゲームを拾って、再びソファに腰掛ける。スリープモードを解除するとデータロード画面が映った。クリアしたデータには星マークが付いている。そのデータをロードすると一ヶ月前に見たオープニングが始まって、思わず電源を切った。いくらステータスが強化されていようと同じ道を歩くなんて冗談じゃない。
テレビを点けた。時計を見るとちょうど日付が変わる頃。深夜ドラマやバラエティーが放送していたけど、どれも見る気にならずに結局電源を切った。こうなることは分かっていた。だから僕は車で出掛けたのだ。
立ち上がって、再び和室へ。客が来るときは大体ここで寝泊まりしてもらっている。彼女を客だとは思わないけど、リビングよりはこっちの方がいいだろう。押し入れから来客用の布団を出して部屋の中央に敷く。掛けるものは毛布があれば十分だ。
用意が終わったとき、僕を呼ぶ声が聞こえてきた。廊下に出てリビングへ向かいながら「どうかした?」と返す。
「タオルどこー」
「洗濯機の上」
答えながらリビングに入ると、彼女は脱衣所のドアから顔を出していた。
「よかった、まだいたんだ」
「出掛ける予定はないよ」
「コンビニにでも行ったのかと思った」
「なんで」
「んー。なんとなく」
「タオルは洗濯機の上」
「はいはい。あと洗濯機の使い方教えて」
「僕がやっとくから」
「はーい」
横顔と白い肩がドアの陰に消える。浴室の引き戸の開閉音が聞こえてから脱衣所に入った。洗濯機の中には僕の二日分の衣服と彼女が最低でも二日間着続けた衣服が入っている。下着も入っているが、替えはあるのだろうか。
まぁどうでもいい、と蓋を閉めて電源を入れる。コースは『念入り』にしておいた。
そうして脱衣所を出ると、また退屈になった。いや、退屈とは違うのかもしれない。するべきことがないのではなく、何もする気になれない。無気力。無活力。それなのに、心の隅では焦りばかりが募っていく。こうなると考えることさえ煩わしい。何かしようと思ってみても、それを邪魔するのはいつも自分自身であり、そしてそんな自分を消すように眠りへ逃げる。浅い眠りだ。起きても疲れは取れないし、怠さだけが増す。妙な夢を見た時なんかは尚更だ。
ソファに寝転がって目を閉じる。
それでも今は耐えられた。彼女が風呂からあがれば、また少しの間はこの気分を味わわなくて済むから。