消してあげると彼女は言った
二十四年間、何の気なしに生きてきた。
人生の道筋とやらは物心着いた頃から大雑把ながら決まっていて、あとは自分の能力に合わせて選択するだけでよかった。いつだか無名ロックバンドが馬鹿にしていた敷かれたレールとやらを僕は歩き続けている。それを歌っていた彼らも多分同じだ。
小学生の頃に不思議なモンスターと一緒に世界を救う旅に出ることはなかったし、中学や高校でも異世界に転移されてうんたらということはなかった。そういった現実離れした出来事はこの先もないだろうし、運命という言葉の前ではそれすらも用意されたレールに過ぎない。あってほしいと願っているわけでもない。転生なんて、特に。
ゴールデンウィーク。連休初日の夜。一ヶ月ほど前に始めたゲームをクリアした後に眠ってしまったらしい。起きたのは二十三時。最後のセーブ時間を確認すると十八時過ぎだった。
起き上がり、ダイニングテーブルの上に置かれた鍵束を取る。僕以外には誰もいない家を出ると肌寒さを感じた。昼間の雨は止んでいたが、向かいの家の自転車を横倒しにするほど強い風はまだ吹き荒れていた。
暴風から逃げるように車に乗り込む。走行距離は二十万キロメートル。小学生の頃からの付き合いになるステーションワゴン型の乗用車。自動車免許を取ってから六年。傷がついてもいいようにと父から譲り受けたこの車には、それでは遠慮なくと言わんばかりに細かい傷が刻まれている。
眼鏡を掛けてから両手でハンドルを握る。数年前に知り合った女性に猫背を指摘されたことを不意に思い出したけど、アクセルを踏む頃にはすっかり忘れていた。
目的地はない。しかしただのドライブというわけでもなく車を走らせる。周囲は畑で見通しの良い道。オーディオではインディ落ちしたロックバンドが世界へのアンチテーゼを叫んでいる。心のどこかでそれを馬鹿にしている自分がいるが、それを言葉に出来ない、綺麗事を吐くことすら出来ない僕は、ただ耳を傾けて口元に笑みを浮かべた。
着いたのは駅だった。地元の小さな駅だ。最短距離で十分もかからないほどの場所だが、気の向くままに運転してきたため家を出てから三十分が経っていた。昼間は駅員が一人。この時間は無人駅になる。
駅前の路肩に寄せて停車する。高いフェンスの向こう側には電車が停まっていた。時間的に終電だろうかと考えてから助手席に目を向けた。ビニール袋にはガムテープとお茶のペットボトル。昨日の仕事後に買って置きっぱなしだったものだ。眼鏡を外してからペットボトルを手にとって口に含む。妙に美味しく感じて、起きてから水分をとっていなかったことに気がついた。
ペットボトルを手に持ったまま、駅の狭い入り口を眺める。
最初に出てきたのはスーツ姿の中年男性だった。連休中にまで仕事だったのだろうか。その表情には明らかな疲労が浮かんでいる。暴風によろめきながら男性は駐輪場の方へと歩いていった。
彼に続いて出てきたのは一組の若い夫婦だった。歳は僕と同じくらいかも知れない。夫の方は大きな旅行鞄を肩にかけていて、服装や雰囲気だけでここら辺の人間でないことは分かった。二人して周囲を見回してから、入り口横のベンチに座ってスマートフォンを構い始めた。地図でも見ているのか、あるいはタクシーでも呼ぶつもりなのか。
四人目は若い女性だった。こちらは僕よりも年下であろう。明るい茶髪や服装からして大学生か。彼女も周囲を見回した後に、夫婦から離れた場所で暴風から身を守るように柱にもたれた。
それ以上駅から出てくる人物はいなかった。僕はなにを考えるでもなくただフロントガラスから見える縁取られた景色を眺めていた。助手席側のサイドミラーに、自転車に乗って駅を出ていく男性の姿が映った。その数分後に今度は若い夫婦が連れ立って歩いていく。
そろそろ行こうかと眼鏡を掛けた。ブレーキを踏みながらサイドブレーキを下ろしてセレクトレバーをDに入れる。ほぼ無意識のうちに周囲確認をした瞬間、心臓が跳ね上がった。いつの間にか、すぐ横に大学生風の女性が立っていた。その目は明らかにガラス越しに僕を見ている。
普段ならすぐにでもアクセルを踏んで逃げるところだが、通常の状態とは言い難い今の僕は気付けば窓を開けていた。近くで見た女性は真面目そうな顔立ちをしていた。
「メガネさん?」と彼女は言った。
特徴のない顔をしている自覚はあるものの流石に失礼ではないかと呆気に取られた後、唐突に理解した。
メガネさんとはニックネームで、彼女は待ち合わせをしている。おそらく、ネットで知り合ったであろう誰かと。そしてこんな時間の待ち合わせだ。出会い系。援交。どうしてもそういったイメージが強くなる。真面目そうなのに。人は見かけによらない。
「いえ、違います」
目を逸らしながらそう言った。物珍しさからまじまじと見てしまったが、僕は本来人と視線を合わせるのが苦手だ。異性相手だと、特に。
「今晩泊めてもらえない?」
耳を疑った。そして視線は再び彼女へ。
「だから、僕はそのメガネさんじゃ――」
「泊めてくれるなら」と彼女は薄く笑いながら言う。その先を想像して情けなくも身体が熱を帯びて脈が速くなったが、彼女の口から出た言葉は予想もしていないものだった。
「誰か一人、消してあげる」
こうして僕は彼女と出会った。
自分自身を消してしまおうと、そう思っていた夜に。