終章-1 約束
ユリアがこの世界から消えて、二週間近くが経った。
ユリアがいなくても――ユリアに関する記録が消え去っても、世界は何事もなく、通常通りに回っている。今日もいつも通りに午前中の授業が終了し、昼休みを迎えたところだった。
その中でも、翔斗は――翔斗だけは、「絶対大丈夫だよ」というユリアの言葉通り、この世界からいなくなったユリアのことを忘れることなく、覚え続けることができていた。
以前、魔力を有している翔斗だけが結界に取り込まれたように、魔力を有している翔斗だけが、ユリアの記憶消去の影響を受けなかったのかもしれない。それとも、単純にユリアの配慮によって、翔斗の記憶だけを奪わないでいてくれたのかもしれない。
(もしくは、このペアリングのおかげとかかもな……)
あの日、ユリアと一緒に買ったペアリング。
それは今でも肌身離さず身につけている。
翔斗だけが、こうしてユリアの存在を覚えている理由として、考えられる線はいくつかあるが、本人から聞かない限りはその考えが確信に至ることは未来永劫ないだろう。
「翔斗、昼食にしよう」
純太が翔斗の前の座席に腰掛けて話しかけてくる。その席は二週間までユリアが座って授業を受けていた席なのだが、今は所有者がおらずに空席のまま放置されていた。
だが、空席であるということに疑問を抱くクラスメイトは不自然なほどに誰もいない。この世界の誰もがユリアという存在を忘れているからだ。
「ところでさ、なんで俺の前の席って空席なのに、そのまま放置されてるんだろうな」
どんな反応が返ってくるかと思いながら、翔斗がすっとぼけた調子で純太に聞いてみた。
「言われてみればそうだね。なんでだろ……? 邪魔なんだったら、あとで先生に言ってみれば? 撤去してくれると思うよ」
「いや、これはこのままでいいんだ。ちょっと聞いてみただけだよ」
「…………? 翔斗がそう言うならいいんだけど。俺としては、こうやって翔斗の席で昼食を食うときは便利だしね」
(むしろ撤去されたらほうが、こっちとしては困るんだけどな)
授業中にウトウトした時なんかは、ふとその席に座っているアイツの幻を見ることもある。その度にギョッとして目を覚ましてしまうわけだが、その空席こそがユリアがこの世界にいたことに対する証のようなものなのだ。簡単に撤去など出来るわけがない。
「綿谷、綿谷翔斗はいるかー!!」
叫びながら、唐突に無遠慮に教室のドアを開けてやって来たのは、中学からの先輩である山岸だった。その豪快な声にクラスメイトたちがギョッとしながら、何事かと一斉に入り口に視線を向ける。
山岸は教室中のそんな視線を意に介さず、大股でずかずかとこちらにやって来た。
「あっ、山岸さん、こんにちは。俺になんか用ですか?」
翔斗が山岸に会釈すると、純太も「どうもです」と言って、頭を下げた。山岸も翔斗と純太の挨拶を受けて、小さく右手を上げて応えた。
こうして山岸が教室にやってくるのは、ユリアとともに勧誘を受けた日以来だった。
「用など決まっているだろうが。いつまで経ってもおまえが野球部に顔を出さないから、こうしてわざわざ教室に迎えに来たのだ」
ユリアとの仕事を済ませたことで、暇な時間を持て余していた翔斗だったが、その時間を利用して何かをするという気も起きずに、しばらく帰宅部を貫いていた。
「わざわざすんません。でも、今はちょっと待ってもらえませんか。少しばかり考える時間を下さい」
「そうか。ならば仕方がないな。それじゃあ、日を改めるとするか」
「あれ……? 山岸先輩。なんだかずいぶんあっさりと引き下がるんですね」
純太がそうやって不審に思うのももっともなことで、普段強引な山岸からは考えられないような引き際の潔さだった。
「いや、それなんだがな……。綿谷を強引に勧誘したいのは山々なのだが、なぜか強引に勧誘してはいけない気がするのだ。上手くは言えないのだが、そのような約束を、以前に誰かとしたような――って、綿谷、おまえはどうしてニヤニヤと笑っているのだ?」
(くくっ、そういえば、この人、ユリアとそんな約束をしてたっけな……)
ユリアは自分に関する記録を抹消したと言っていたが、こうして時折、ユリアの残り香のようなものを感じ取ることがある。すると、それだけで翔斗は、ついついだらしなく口元を緩ませてしまう。
「いや、なんでもないっす。そのうち顔出しますんで、今日のところは申し訳ないっす」
「おお、それじゃあな。野球部で待ってるからな」
そう言って、本当にあっさりと山岸は教室から出て行ってしまった。山岸の性格を知っている純太は、信じられないものを見るような目でポカンと口を開けていた。
これは、いつもとはちょっと違ったことが起きた、それでいて日常的な昼休みの話。
「約束……か」
誰にも聞こえないように呟いた翔斗の囁きは、誰にも聞かれることなく空気の中に消えてしまった。




