2-4 成道純太のアルバイト事情
成道純太は中学時代から、部活動で汗を流す合間に叔父が経営するそば屋でアルバイトをしていた。
アルバイトというよりは、家族のお手伝いをしてお小遣いをもらっているという表現のほうが近いかもしれない。なぜならば、純太の通っていた中学ではアルバイトは禁止されていたものの、例外として親族のお手伝いということならば、許可が下りたからだ。
時刻は午後八時、夕食時も過ぎて、そば屋「麹」にお客さんの姿は見当たらなくなっていた。
こう言ってはなんだが、もともと客足の多い店ではないので、閉店まであと一時間あるが、おそらくはもうお客さんが来ることはほとんどないだろう。
暇を見つけると、懲りもせずに新メニューを開発しようとする叔父兼店長を尻目に、純太はまかないのざるそばを食し終えたところだった。
「店長、俺、ゴミ出しに行ってきます」
普段は店長のことを叔父さんと呼んでいる純太だが、バイト中だけは店長と呼ぶように言いつけられている。
「おう、頼んだぜ。純太」
店長はこちらを振り返ることなく、だみがかった声で返事をした。どうやら新作メニューの味見をしようとしているところで、そちらに集中しているようだった。
「クソッ、カレーそばがイケルんだったら、シチューそばもイケルと思ったんだがな……」
本日も新メニューの開発には失敗したらしく、悔しそうに呻いている。
このまま留まっていれば試食に付き合わされそうなので、純太は急いでゴミ袋を両手に裏口から外に出た。
裏口から外に出ると、そこは建物と建物の間の狭い路地で、人間二人がどうにか横に並べるくらいの幅しかない。天を仰いでも、建物が邪魔をして夜空がほんの一部分しか窺えない。
春になって大分暖かくなってはきたものの、やはり夜の風はまだまだ肌寒い。街灯の明かりもこんな狭い路地裏まで照らすこともなく、周囲を照らすのはしがないそば屋から漏れる頼りない明かりだけだった。
「……ん、なんだこれ?」
足元が薄暗いせいで、最初はそこに何かが転がっているということにしか気づかなかったが、目を凝らして見ると、それは人の形をしていた。
一見すると、精巧な人形のようにも思えたが、少し目を凝らして見ると、どうやら本物の人間のようだった。
「女の子、だよな……?」
暗い中でも輝くような金色のショートカットの髪に、紺色のスラックスに、白いシャツという格好の人間だった。
その子は、ぱっと見ると男に見えないこともないが、その子が女の子であると、純太の直感が告げていた。
どうやら息はしているようだが、目を瞑ったままでぴくりとも動かない。
中性的な顔立ちで、美少年と形容してもおかしくないような容姿。
年齢は純太と同じくらいだろうか、だけどその横顔からは女の子らしい色気のようなものが窺えて、その華麗さに思わずドキッとしてしまう。自分なんかが触れてよいものなのかと恐れ多くなってしまうほどに、彼女の纏う雰囲気に神秘的なものに感じた。
そもそも、この子はどうしてこんなところで寝ているのだろうか。
とてもじゃないが、こんな辛気くさい裏路地で生活しているような人間には見えない。ここは彼女には相応しくない場所だ。
彼女は全身が埃まみれで、その綺麗な顔には小さな切り傷がいくつも刻まれている。
(まさか、上から振ってきたとか……?)
そんな想像を巡らせて、純太は天を仰いだが、すぐに馬鹿馬鹿しい想像だと打ち切って、とりあえず彼女をどうするべきだろうか、と考えて彼女の様子を窺うことにした。
「ぐっ……、ぐ、ここは……?」
意識を失っていた彼女だが、ようやく苦しそうに呻きながら身じろぎした。
「だ、大丈夫?」
遠慮がちにだが、純太が彼女に触れると、やはりその四肢の細さから女の子であることを実感した。
「触るな」
「ゴ、ゴメン」
鋭い声で一蹴され、純太は彼素早く女から手を離した。
「えーっと、ここは寂れたそば屋の裏口なんだけれど、キミはこんなところで何をしていたの?」
寂れたそば屋、というのはひどい紹介かもしれないが、そもそも店長自身も自分の店が寂れていることは重々承知した上で、しょっちゅうネタにしているので、何も問題はないだろう。
しかし彼女は純太の言葉を無視して、その場から立ち上がって口元の血を拭った。
「クソッ、まさかこの僕が遅れをとるとは……」
悔しそうに呻いて、彼女は純太が持ってきたゴミ袋を蹴っ飛ばした。
「ああもう、何してんのさ。ここを散らかしたら俺が怒られるんだから」
幸いゴミ袋に穴は開かなかったものの、追撃をしようと、足を振り上げている彼女を慌てて止めた。
「ふんっ、僕に関わるな。貴様も不幸になるぞ」
「いやいや、ここでゴミを散らかしたら、俺はもっと不幸になるんだよ」
純太の説得が実ったのか、彼女は攻撃動作に入っていた右足を地面に下ろした。
――その時だった。
路地裏という小さな空間に、くう~、という可愛らしくて小さな音が鳴った。とても小さな音だったが、二人しかいない狭い空間だったために、その音ははっきりと純太の耳まで届いた。
「それじゃあ、僕はもう行く。くれぐれも今日のこと、そして僕のことは忘れるんだな」
ハラペコ少女は、自分のお腹の音を誤魔化すように、できる限りクールを装いながら、純太に背中を向けた。
「あ、ちょっと待って」
彼女の細い手首を掴んで、純太は彼女を呼び止めた。
「むっ……」
振り向いた彼女は不機嫌さを隠そうともしない無愛想な表情をしている。
「よかったらご飯でも食べてく? さっきも言ったけど、ここってそば屋なんだ。それになんか身体もボロボロだし、少し休んでいった方がいいよ」
年ごろの女の子相手に、その発言はある意味でナンパをしているように思われたかもしれないが、当然純太にそんな下心はない。
ただそれは相手の受け取り方で決まるものであり、純太が決めることではないので、ここで断られたとしても、それはしょうがないことかもしれない。けれど、純太は彼女を放っておくことがどうしてもできなかった。
「くどいぞ。僕は構うなと言っているんだ」
引き下がらない彼女だが、食欲とは本能に忠実なモノで、もう一度彼女のお腹から可愛らしい音が鳴った。
「ち、違うっ! これは違うんだ。いいか? 貴様は何も気にする必要はない。だからさっさと手を離せ」
顔を真っ赤にしながら、彼女は純太に人差し指を突き立ててまくし立ててくる。
(あ、ひょっとして、持ち合わせがないのかな? 格好もボロボロだし……)
「持ち合わせならなら心配しなくていいよ。もうお客さんもほとんどいないし、女の子のキミならきっと店長さんがサービスしてくれるから」
「は? 僕が女?」
不機嫌そうに眉を潜める彼女。
「もしかして、俺、間違ってた?」
不安そうな瞳で純太が訊ね返すと、
「いや、間違ってない……。いちおう僕は女だ」
彼女は言いにくそうに唇を尖らせている。
「なんで、僕が女の子だとわかったんだ……? こんな格好をしているのに……」
「ん? なんか言った?」
ごにょごにょと消え入りそうな声で呟いている彼女の声は純太の耳まで届かなかった。
「いや、なんでもないんだ。わかった。そこまで言うのなら仕方がない。その言葉に甘えるとしよう」
「うん、じゃあおいで」
純太は、通りのゴミ置き場にゴミ袋を置いてから、彼女の手を引っ張って裏口から店に戻った。
しおらしく俯きながらついてくる彼女が、その凜とした見た目とは裏腹になんだか小動物みたいに可愛らく思えた。
裏口に手を掛けたところで、純太はまだ自分が名乗っていないことに気づいた。
「そうだ。俺は成道純太。キミは……?」
彼女は純太の目を見つめたまま、名乗るか名乗るまいか逡巡した後に、
「クリス・シェールだ……」
結局、囁くような声で名乗ったのであった。
「クリスさんか、よろしくね」
「ああ……」
彼女は純太から目を背けて、ぶっきらぼうに答える。
ゴミ袋を捨てに行ったはずの純太が新たな持ち物を連れて戻ると、店長は懲りずに厨房で創作料理に精を出しているしているようだった。
さっきのシチューそばに、今度はソースをぶち込んでいた。
(オーソソドックスな料理の腕前は文句ないんだけどなあ……。ただそれで我慢できるのなら、叔父さんじゃなくなるか……)
それでもゲテモノ料理を食わされるのは勘弁して欲しいなと思いながらも、純太はその大きな背中に声を掛けた。
「店長、ちょっと相談があるんですけど、いいですか?」
「お、なんだ?」
こちらを振り返ることもなく答えた店長は、火をかけている鍋を凝視していた。
クリスは、どこか不安そうな瞳で、品定めするように純太と店長を交互に見比べている。その瞳が怯える小動物のようで愛らしさに満ちていた。
なんというか、無条件で守ってあげたくなるような、そんな表情だった。
「ちょっとばかりややこしい話なんだけれど、火を止めてもらっていいですか?」
「ったく、なんだってんだ。この料理のでき次第でこの店の未来が決まるかも知れねえってのによ」
(たぶん、その料理が失敗した方がこの店は上手くいくんだろうな……)
純太がそんなことを考えていると、店長は渋々と火を止めてこちらに向き直った。
「って、おいおい純太、お客さんを厨房に連れてきちゃいかんだろ」
「いや、お客さんはお客さんに違いないですけど、ちょっと事情があって――」
「ところで、そちらは外国人さんか?」
純太の話を聞きもせずに勝手に進めてしまうのはいつも通りだ。純太もその空気には慣れているので、対応もすぐにできる。
「そう……なのかな……? 見た目と名前で勝手に判断してたけど、クリスさんは外国の方ってことでいいの?」
「ああ、まあ一応そうなるかな。クリス・シャールだ」
クリスは少し考えたのちに、なぜか曖昧にそう答えた。
クリスが発した「一応」という言葉に、純太は若干違和感を覚えたものの、話を脱線させるのも面倒なので黙っておくことにした。
「なるほどな。そんで、実際にそばを打つところを見たかったちゅうわけだな。よしっ、せっかくはるばる日本まで来てくれたんだ。しっかりとその目に焼き付けてもらおうじゃねえか」
腕まくりをして調理に取りかかろうとする店長だが、とりあえず事情をちゃんと説明するために、純太が止めに入った。
「違うんですよ、店長。クリスさんは荷物をなくしちゃったみたいで、裏口のところで路頭に迷って困ってたみたいだから、とりあえず連れてきたんですよ」
クリスの境遇を聞いたわけではないし、それは純太の想像でしかないのだが、彼女の格好を見る限り、それほど的外れな妄言ではないと思う。
「それに――」
さらに詳しい事情を説明しようとした瞬間、タイミング良くクリスのお腹が鳴った。
「――っ!」
彼女は恥ずかしそうに顔を朱色に染めてお腹を押さえていたが、それは店長が事情を察するには余りある説明だったようだ。
「なんだ、兄ちゃん。文無しなんかい?」
「いやいや、クリスさんは女の子なんだから、兄ちゃんなんて言い方は失礼ですよ」
純太が言うと、店長は目をぱちくりとさせて、顎に手を当てながらまじまじとクリスの顔をのぞき込んだ。
「う~ん、言われてみればそんな気がしてくるような気もするんだが、クリスさんだっけ? こういう言い方は失礼なのを承知で聞くが、あんた、女なのかい?」
「あ、ああ、よく間違われるというか、あえて間違われるような格好をしているのだから気にする必要はない。とにかく、僕は生物学上は女ということになっている」
クリスは恥ずかしそうに俯いたまま答えた。
「しっかし、純太、おめえよく気がついたな。こう言っちゃなんだが、本人の言がなければ、絶対に男だと勘違いするぞ。こりゃあ……」
「さあ、なんででしょうね……。俺もよくわかんないっす」
直感にいちいち説明を付けることはできないので、純太自身もクリスの本当の性別がどうしてわかったのかを説明するのは難しい。
「そ、その……、あ、あんまりジロジロ見ないでほしいのだが……」
二人の無遠慮な視線を浴びせられて、たまらずクリスが消え入るような声で呟いた。
「ご、ごめん……」「おっと、わりいな嬢ちゃん」
慌てて身を引く二人。
気を取り直し、店長がコホンと咳払いして、ドンと胸を叩いた。
「とにかくだ。そういうことなら、最初からそう言ってくれりゃあよかったのに。女の子に自分の料理を食べてもらいてえってのは、男がどれだけ年を取っても消えない欲望よ。というわけで、特別に俺の手作りそばをごちそうしてやるぜ。クリスちゃんはテーブルで待ってな。すぐに熱々のそばを持っていってやるからよ」
「あの、その……、ありがとう」
クリスは俯きながら恥ずかしそうに答えた。
「それじゃあ、一名様、ご案内しますので、俺についてきて下さい」
レストランのウェイターになったつもりで、純太はクリスをカウンター席に案内する。当然のことながら、普段ならばこんなに丁寧に接客することはない。
寂れたそば屋でレストランのような接客というのは、逆にその場にそぐわないからだ。今回は相手がクリスだったからこそ、純太は少し気合いを入れての接客態度だ。
叔父が経営するそば処「麹」は、カウンター席が十席、四人がけのテーブルが三つ、というこじんまりとした店だった。
とはいえ、開店中は客席がすべて埋まることはほとんどないどころか、純太が手伝いをしているこの三年間で、満席になる状況を一度も見たことがないくらいだった。
普段は中年のおっさんや主婦層がメインのお客さんであるため、カウンターにちょこんと座る金髪美少女という光景に、純太は妙な違和感を覚えた。
「それじゃあ、すぐできるから、そのまま待っててね」
緊張したように身体を縮めているクリスは、唇を尖らせながら小さく頷いた。
話しかけて場を和ませようかとも考えたが、話題が見当たらなかったというのもあるし、彼女を黙って眺めていたいと思ったので、純太は黙って店長の料理を待っていた。
「ほい、クリスちゃん、出来たぜ」
しばらくして、オーソドックスな天ぷらそばが完成した。
店長は厨房からカウンターに乗り出して、クリスの眼前に熱々の湯気が舞う天ぷらそばを差し出した。出汁の香りがよく利いており、先ほど夕食を済ましたばかりである純太ですら、食欲が刺激されるような匂いが立っている。
それに対して、クリスは差し出された天ぷらそばを見つめたまま固まっている。
そんな彼女の姿を見て、餌を目の前にして「待て」と命じられた犬のようで可愛らしいなあ、と思ったが、あまりにも失礼すぎる例えなので、その感想は純太の心の中だけで留めておいた。
「遠慮しなくていいよ。召し上がれ」
純太が言うと、クリスは純太を見上げる。
「それじゃあ……」
遠慮がちに言うと、クリスは天ぷらそばに目を瞑って祈るように両手を合わせた。
格好こそ男っぽくて、しかもあちこち埃まみれだけれど、その姿は祈りを捧げるシスターのように見えた。
そのまま姿勢で少し経ってから、クリスはゆっくりと目を開けて割り箸を割った。
二人に見られていたら、クリスが食事をしにくくなるだろうな、ということはわかっていても、他にやることがない純太と店長はついつい彼女の食事を凝視してしまう。
しかしクリスは、それを意識する様子はなく、箸で麺を掴むとそれを冷まそうと、二人に気づかれないように、ふーふー、と小さく息を吹きかけていた。
もちろん純太は彼女の仕草には気づいており、凜とした容姿をしている彼女とのギャップに、不覚にも胸がときめいてしまった。
その後もクリスは、二人に見守られながら黙々と食事を続けた。
かなり失礼な表現になるが、一心不乱にもぐもぐとそばを啜る彼女の姿が、ペッドに餌付けをしているような、そんなイケナイ気分にさせられた。
何度もお腹が鳴っていたことから、相当腹が減っていたであろうことは容易に想像ができたが、今日一日で初めて食事をしたのではないかというくらいのがっつき具合だった。
あっという間に汁まで飲み干したクリスは、食べ始めと同じように両手を合わせた。
「おいしかった……」
「そりゃあ、何よりだ。作ってる側にとって、それ以上の賛辞はないからな。食い足りないんだったら、お代わりも用意するがいらないかい?」
「いや、そこまでしてもらうわけには……」
凜とした無表情を貫いているクリスだが、その顔には明らかに食い足りないという文字が刻まれていた。
「はっはっは、食べ盛りなんだから、女の子であろうといっぱい食わなきゃいけねえよ。すぐに用意するから待ってな。純太、おまえはいつまでもその子を眺めてないで、トイレ掃除とレジのチェックでもやっとけ。どうせ、今日はもう客は来ねえんだからよ」
「了解ですよ。店長」
もう少し彼女の食事風景を眺めていたいところだったが、この場において自分よりも権力の高い店長に言われてしまったのだから、その命令には逆らいようがない。
純太は仕方なく掃除道具を抱えてトイレへと向かった。トイレに入るまえにカウンターを振り返ると、クリスは自分が飲み干した天ぷらそばの器を凝視したまま、姿勢よく固まっていた。
トイレ掃除とレジ点検を終えて戻ると、彼女の目の前には二つの空のどんぶりが積まれており、さらに三つ目を完食したところだった。
「おいしかった……」
同じように両手を合わせた後にぽつりと呟いた彼女は、表情こそ何ら変化がないものの、満たされたような、そんな顔になっていた。
「かかっ、いやあ、いい食べっぷりだった。こっちも作っていて楽しかったよ」
店長は白い歯を見せて豪快に笑った。
「ごちそうになった。今は持ち合わせがないので、返す手がないが、いずれなんらかの手段であなたたちには恩を返したいと思う」
クリスは椅子から立ち上がって、仰々しく胸に手を当てた。
「はっはっは、気にすんな。天ぷらそば三杯は、純太のバイト代からさっ引いておくからよ」
純太にとっては寝耳に水だったが、クリスの可愛らしい食べっぷりを見られたのだから、この程度の出費は安いものだと思う。
「ま、俺が無理矢理連れてきたみたいな感じだったし、クリスさんは気にしなくていいよ」
「だが、それでは納得ができない。恩を返せずにいるなんてのは、シェール家の名折れだ。いつか必ず恩を返すから待っていてくれ」
そう言って、純太の肩に手をかけるクリスは、必死というか使命感に溢れた表情で真っ直ぐ純太を見据えていた。
何が彼女をここまで突き動かしているのか定かではないが、この場においてそんな問題は些細なことだった。
(ち、近い……)
息がかかるような距離に恐ろしいほどに整った彼女の顔があって、自然と純太の動悸が速くなる。
クリスはそんなことを意識していないのか、純太の返事を待つ間、一切視線を逸らそうとしない。
「わ、わかった。うん、待ってる。うん、だから、一旦離れようか」
「わかればよいのだ。このシェールの名に誓って、必ずやその恩は返させてもらう」
クリスは満足したように頷くと、ようやく純太から離れたのだった。
取って食われるという状況でもなかったのに、純太は生きた心地がしなかった。
そんな若者二人のやりとりを、「若いねえ」と呟きながら、店長はニヤニヤと眺めている。
「ところでよ、クリスちゃん。あんた、今夜の寝床は大丈夫なのかい? 文無しだって言うくらいなんだから、宿の確保もままならないんじゃないのか? いくら男の格好をしていたって、年ごろの女の子が野宿なんてのは、いろいろとマズいだろ?」
「それについては心配ない。寝床はすでに確保している」
腕を組んで自信満々に言い切って見せるクリスだが、純太はその様子に不安を覚えた。
「まさか、その寝床って、どっかの廃墟とか使われなくなったビルとかじゃないだろうな? ダメだぜ。空き家だって、ちゃんと所有者がいるんだからな。そこで勝手に寝泊まりするってのは、不法侵入と同じことになるんだぜ」
問題はそこではないような気がするのだが、それでも店長の言葉は正論であり、クリスの動揺を誘ったようだった。
「くっ、それは――」
(くくっ、クリスさん、なんてわかりやすいんだろう……)
ポーカーフェイスを貫いているが故に、本来ならば表情からは感情の情報を読み取りにくいはずなのに、クリスの表情は人並み以上に自分の感情を現していた。
店長は、決してクリスの寝床が空き家であると、最初から見抜いていたわけではないだろう。要するに、店長はただカマをかけただけであり、彼女はまんまとそれに引っかかったのだ。
「かっはっは、わかりやすい嬢ちゃんだなあ。心配すんな。ここまで面倒を見たんだ。寝床くらいこっちで用意してやるよ」
「先ほどから何度も言っているが、僕は持ち合わせがないのだ。それに、あなたたちにそこまでしてもらう義理はない。ここまで貸しを作ってしまっては、シェール家の名折れだ」
きっぱりと拒否の意を示すクリスだが、一度やると決めた店長相手にそんなものが通用するはずもない。意地の張り合いにかけては、店長の右に出るものなんて中々いないのだから。
「なあに乗りかかった船だ。それでも何かを返したいって言うんなら、クリスちゃんは店を手伝ってくれればいい。俺にとっちゃあ、それが一番有り難い。それに、今でこそ、俺はこんなしがないそば屋の店主なんてやってるが、昔は世界中を駆け回って、じゃかじゃかと稼いでたんだぜ。金の心配もする必要はない」
その話は純太もしゅっちゅう耳にするが、本当のことはわからない。実際、店長の弟、つまりは純太の父によると、中学を卒業すると同時に、店長は単身でふらっと外国に旅立ったことは確からしい。
お金を持っているのも確かなことで、経営が成り立っているのか微妙なそば屋で、こうして純太を雇ってくれているのだから、この店も金持ちの道楽という言葉がぴったりだろう。
それでもそばの味のほうは確からしく、常連には評判もよくて、じわじわと客足が増えてきているのも事実だ。
この店が入っている三階建ての雑居ビルも、実は店長が所有しているものであるのだが、二階と三階はテナントが入っていないどころか、テナントの募集すらしていない。
「それでも……」
なおも店長の提案を断ろうと思案していたクリスだったが、店長は退きそうにもないので、見かねた純太が口を挟んだ。
「クリスさん、事情があるのはわかるけれど、こうなった以上は、店長の意向に甘えればいいと思うよ。さっき会ったばっかりで、俺らのことを信頼できないかもしれないけれど、野宿するよりはずっとマシだと思う。だから、変な連中に捕まったと諦める方が無難だよ」
純太が諭すと、クリスはようやく断り切れないことを悟ったのか、諦めたように小さく息を吐いた。
「ふっ、それにしても、なぜ施しを受ける立場であるはずの僕が、こうやって諭されているのだろうな……。あなたたちは実に不思議な人種だ。僕が今まで出会った人間の中でも屈指なくらいに、おかしな人間だ」
ともすれば、見落としてしまうくらいの小さな変化だが、クリスはほんのわずかに口元を綻ばせた。
初めて見せる彼女の笑顔に、純太は楔のような何かが心臓に刺さるのを感じた。
「かははっ、そりゃあ俺たちにとっちゃあ褒め言葉に他ならないぜ。クリスちゃん」
豪快に笑う店長の声が、店内にこだました。
「それじゃあ、今日はもう店じまいだ。クリスちゃん、ここの建物の三階を使いな。二階でもいいんだけれど、あそこは物置になってるからな。家に帰るのが面倒なときとか、そこで寝泊まりしてたりするから布団くらいなら常備してある。シャワー室もあるし、お湯も出るようになっているから、勝手に使えばいい。ほれ、こいつは三階の鍵だ」
そう言って、店長はポケットから鍵を取りだしてクリスに放り投げると、クリスは片手で簡単にそれを受け取った。
とにもかくにも、こうしてクリスと接点をつなぎ止められたことが、純太にとっては何よりも喜ばしいことだった。
いつか、純太に恩を返してくれると彼女は言うが、ここで別れてしまえばもう一度彼女と会える保証はなかったのだ。まだ会って僅かしか経っていないが、純太はすでにクリスという少女の持つ、不思議な魅力に惹かれていた。