序章 別れと出会いの季節
桜が咲き誇る三月末、それは別れの季節と同時に出会いの季節でもある。
とはいえ、すぐそこに待つ新たな出会いへの準備をするために、まずは別れを経験することになる。
綿谷翔斗は中学の卒業式を終え、中学の仲間との別れを終えたところで、学校から少し歩いたところにある、桜が咲く並木道を歩いていた。
駅からはちょうど反対方向にあたるため、こちら側に流れる生徒は少なく、周囲に自分と同じ学生服を身に纏った生徒の姿はほとんど見当たらない。
爽やかな春風は翔斗の門出を祝うかのように爽やかに吹いていた。
(もうこの道を通ることもないんだよな……)
この並木道は小学校の時からずっと通っていたため、九年間も行き来していたことになる。
雨の日も風の日も、雪の日も、台風の日だって、すべての四季の移り変わりをこの並木道を通じて九回も体験したのだ。
四月から通う高校も、家から通える距離にはあるので実家から通うことにはなるが、それでもこの道を通って通学することはなくなる。
そう思うと、少し寂しい気持ちも沸いてくる。
(いや、台風の時は休校になるから、台風の時は通ってないか……)
自分が感傷に浸るようなタイプではないことは自覚しているが、今日ばかりはこの景色を目に焼き付けようと、地面を踏みしめるようにゆっくりと歩いていた。
人通りが少ないおかげもあって、景色を堪能する翔斗を遮る影もなかった。
「…………」
そのとき、突然翔斗の脚が止まったのは、何も感極まったからではない。
居並ぶ桜の木の幹の一つにそっと手を触れて、上を見上げる一人の少女に目を奪われたからだ。
彼女を視界で捉えた瞬間から、すでに景色は彼女を映えさせるための、文字通り背景と成り代わっていた。桜並木に浸っていた感傷も、彼女を視界で捉えた感動に比べればちっぽけなものに思える。
年の頃は翔斗と同じくらいだろうか、肩の下辺りまで伸びている茶色い髪が、春風になびかれてさらさらと揺れられている。清楚な感じの白いワンピースは彼女がいいところのお嬢さまなのだろうという、想像を掻き立てた。
翔斗が立っている角度からは彼女の横顔しか窺えないが、それでも顔の造形が驚くほどに整っているのがよくわかる。
美少女という形容はどこか陳腐に聞こえるかもしれないが、彼女に関しては美少女という形容しか思い浮かばなかった。あるいは、美少女という形容自体が彼女のために存在している言葉だったのかもしれない。
木の葉を見つめる彼女の瞳は真っ赤で、灼熱の炎のようであった。気を抜けば、その瞳に吸い込まれるのではないかと錯覚してしまうほどに、彼女の瞳はどこまでも澄んでいた。
(外国の人かな……?)
すらりと伸びている四肢にその瞳の色、彼女は明らかに日本人離れした容姿をしていた。
枝葉の隙間から漏れる陽光が彼女を照らしており、それがスポットライトのように彼女という存在の神秘性を際立たせている。
疾しい気持ちとかはなくて、芸術品を見るような気持ちで、翔斗は彼女をただただ美しいと思った。
そんな彼女を目にしていると、自分までも絵画やアニメの世界に脚を突っ込んでしまったかのような錯覚に陥る。
不審者のように立ち止まったまま、翔斗が彼女に視線を浴びせていると、そんな無粋な視線に気がついた彼女はゆっくりと顔をこちらに向けた。
「…………っ!」
その綺麗な瞳で捉えられた瞬間、翔斗は正気に戻り、いたずらがばれてしまった子どものようなぎこちない動作で、思わず彼女から目を逸らした。
そんな翔斗を見て、彼女は形のよい唇に手を当ててくすっと笑った。
視界の隅で、いたずらっぽい彼女の表情を見た瞬間、血液が逆流したかのように鼓動が一気に早くなる。
「あ、あの――」
ちっぽけな勇気を絞り出して、翔斗が声をかけようとした瞬間、一陣の風が吹き、桜の花びらが舞い散った。
「――――――」
鼻腔をくすぐった甘い香りは、果たして彼女の香りなのか、それとも桜の花の香りなのか。
それはわからない。
視界を覆うほどの勢いだったので、翔斗は手でひさしを作って風と桜の花びらをやりすごした。
――やがて風が止み、翔斗が顔を上げると、
「えっ――」
ほんの一瞬、風が吹いている間、彼女から目を離した隙に彼女の姿は翔斗の視界から消え去っていた。
まるで彼女の存在が夢であったと言わんばかりに。
あたりを見渡してみるが、彼女の姿はどこにも見当たらない。
残っているのは、翔斗の網膜に焼き付いた彼女の姿と、彼女と出会ったことによって生じた翔斗の鼓動の早さだけだった。
翔斗はその場に立ち尽くして、彼女が立っていた空間を眺めながら、彼女の残り香のようなものを感じることしかできなかった。
それは、桜が咲き誇る頃に起こった、綿谷翔斗の運命の出会い。
――翔斗は別れの日と出会いの日をいっぺんに経験したのであった。