3.最悪の根源
〈3〉最悪の根源
今日で何回目だろうか。
首を突っ込めば、厄介事に巻き込まれることはよく分かっている。でも避けられない。話だけでも聞いておきたい。そうでないと、後悔するような気がするのだ。とても、後悔するような気がする。だから、衝動に逆らえない。
でも、わたしが覚悟を決めた時、グロウリーは言った。
「石玉の原因を探って欲しい」
願わなかった。頼んだだけだった。わたしは思わず訊ね返した。信じられなかった。わたしが願えることを知っているのに、どうしてこの人は願わないの?
「石玉を無くして、じゃないの?」
グロウリーは首をゆっくり横に振り、わたしを見つめた。気高い目。美しい色合いの狼の目。誇り高いその心が、目を通してわたしにも薄っすらと見えたような気がした。
「お前はすでにたくさんの者の願いを叶えたのだろう? 身を削ってまで、たくさんの者の想いを担ったのだろう? だから俺は願わない。願う事は出来ない。代わりに、探って欲しい。分からなければ、分からないでいい。でも、何処かにあるはずだ。原因となる、何かが。だから、知恵を貸してほしい。願いはいらない。お前の知恵を借りたいんだ」
グロウリーは淡々と言った。
頼まれた。頼んできた。願われたのでは無く、頼まれたのだ。この違いは大きい。責任こそ同じであれ、わたしの身に降りかかってくる負担が、違いすぎる。
(願わないの? どうして?)
わたしの耳に、溜め息混じりの声が聞こえてきた。誰のかなんて、考えるまでもない。
グロウリーはじっとわたしの目を見たまま、唸る様に静かな声で言った。
「俺は精霊や魔法使いのように魔力はないが、力はある。だから俺はお前を見守り続ける。この先には石玉の蔓延している地帯。必ず何処かに手がかりが潜んでいるはずだ。でも、俺だけでは分からない。頼む」
「ボディガードをしてくれるってこと?」
「大変な時だけは。多くは魔女が見守ってくれているだろうけれども、彼女の手に届かない事が起こった時、俺はお前の味方をする。だから、知恵を貸してくれ」
わたしは沈黙した。一刻も早く此処を抜け出したいというのが、わたしの第一の目標だ。それは、単に洗濯だとか疲れただとかの問題ではなくなってきている。そもそもこの場所に居てはいけないから。わたしは、この場所に入り込んではいけなかった。それが段々と分かってきたからだ。
だから、ヴィアはわたしを引き止めた。《彼ら》が潜んでいるから。《彼ら》がこっちを見ているから。
「俺には力しかない。だが、鼻も効く。お前が恐れている者達の匂いも全て分かる」
このような状況下で、グロウリーの売り込みは十二分に魅力的だった。少しばかり帰りは遅くなるかもしれないけれども、安全でさえあれば、その位大したことない。アプリコットは少しくらい心配してくれるかしら。いずれにせよ、この気高くて哀れな狼を助けたい気持ちが、わたしの中には存在した。
(石玉の原因探りかい?)
(いやな予感がする)
ヴィアとシュマの声が聞こえたが、グロウリーとエイプスの様子からすると、彼らには聞こえていないらしい。わたしの耳にだけ届いている。どうするべきか、わたしは考えた。
(決めるのはお前さ。私は私の自由でお前を守っているに過ぎない)
ヴィアの言葉がわたしの体に沁み込んでくる。気兼ねなく、自分の意思で決める事。それがこんなに難しいこととは思わなかった。グロウリーを助けたい気持ちと、願いの力の報酬とはいえ、ヴィアとシュマを現在まで巻き込んでしまいかねないことが、わたしの心の中で絡み合い、反発し合っていた。
わたしはグロウリーを見た。
初めて願いではなく、依頼をしてくれた彼。
大切な人を失った彼。
この樹。エイプスの母親と同じ病気が、彼の大切な人を奪っていった。
(願えばいいじゃない)
そんなとき、可愛らしい声が響いた。頭の中で? 耳の中で? いや、体の底から響いてくる。さっきの溜め息混じりの声よりも、もっと近くで聞こえてくる。どういう事だろう? 願い蝶が、すぐ後ろに、すぐ横に、いや、もしかしたら、わたしの体内にいる気さえもした。
(あっという間に解決するわ。ここ等の生き物も病から解放されて、もうこの病に苦しむ人が増えなくて済むのよ。魅力的じゃない)
願えば一瞬だ。願えば、あっという間に解決する。グロウリーのような悲しむ人を増やさないで済む。わたしの得られた力を使えば、石玉という病を無くす事すらも可能だと願い蝶が言っているのだから。
(そう。だから、願うの。石玉が無くなるように、ほら!)
(聞いちゃ駄目! その娘は欲しいだけだよ!)
シュマの声が耳に響いた。
欲しいだけ。その言葉が、わたしの頭に食い込んだ。
シュマの言うとおりだ。当たり前のことを彼女は言っただけなのかもしれない。でも、今の瞬間、わたしはその当り前の事が分からなくなっていた。願い蝶は私に願わせたいだけ。願わせれば、私の約束した物が願い蝶の手元に舞い込む。そうなっては、彼らに出会ってしまうのとあまり変わりない結果になってしまう。そんな簡単なことも、分からなくなってしまう程、わたしの意識は願い蝶に翻弄されていた。わたしはシュマに感謝した。あと少しで、本当に願いそうになったのだから。夢の中で約束したわたしの大切な物は、もう半分以上、願い蝶に握られているのかもしれない。
わたしは、一人では、ここを抜け出せない。
でも……。
「わたしに手伝えるの? その、つまり、わたしなんかに。人間の真似事をしているだけの、わたしなんかに手伝えるものかしら?」
わたしはとても疑問に思った。この森へ来たばかりの、人間かぶれのわたしが本当に役にたつのだろうか。願い蝶に貰った願いの力以外には、何の取り柄もないわたし。本物の人間の様な知恵もわたしに期待しない方がいいような気もする。
「手伝える」
グロウリーは即答した。力強く。確信をもって。まるで、この先の事が全て見えているかのように、彼はしっかりと頷いた。どうしてこんなに自信を持てるのか、疑問に思うくらい。
「お前なら手伝える。俺には分かる。お前のような者だからこそ」
わたしのような者だからこそ。
わたしはよく理解出来なかった。わたしのような者に、何が出来ると言うのだろう。でも、彼がそう断言するのだから、断るわけにもいかない。救いたいという思いは、わたしの中には確かに存在するのだから。わたしはそう思い、「それなら」と、ひとつふたつ頷いた。
「わたしに出来るのなら、手伝う」
その途端、わたしとグロウリーの間に、何かが、とてもしっかりした何かが、結ばれた気がした。それがどういうものなのか、どうしてそう思ったのか、は分からなかったが、それでも一つだけはっきりとした。わたしとグロウリーの間に、関係が出来た。例えれば、絆のようなしっかりとした関係。
「石玉の原因探り……無事を祈るよ」
エイプスが言った。そして、幼い顔に小さく笑みをつくり、軽く子ギツネの毛皮を撫でると、続けてわたしとグロウリーに言った。
「きっと、君達なら探れると思う。でも、気をつけて。彼らと、そして、その原因には」
エイプスはそう言うと、すっと風に吹かれる様に、消えていった。助かったばかりの母親に吸い込まれるように、そこに今さっきまで彼がいたこと自体がウソのように、エイプスの姿はもう見えなかった。
(やれやれ、まだまだお前は冷や冷やさせる気だね)
ヴィアの声が聞こえた。いやならもう見離せばいいのに。
(それはしないよ。私は決めたのだからね。シュマのためにも)
「これは誰の声だ?」
グロウリーが口を挟んだ。はっと、わたしは彼を凝視した。彼にも聞こえている? さっきまで聞こえなかったのに? グロウリーはわたしをじっと見つめ、返答を待っていた。
「聞こえたの?」
わたしが確認すると、彼はおずおずと頷いた。
(狼よ。お前も私の声が聞こえるか。それならばきっと、絆のなせる力だ。お前はすでに人間に飼われる犬さながら、絆でその娘に繋がれている。それが為、私が娘に話しかけようとすれば、お前にも伝わるのであろう)
グロウリーは、何も無い空を見上げた。
「その声、聞き覚えがある。偉大なる大蛇魔女の声。……ルーヴィレディア!」
(もしもお前たちロ・ヴォル一族が、春風を捕らえし陰陽の魔女をそう呼ぶのならば、その問い、肯定してやろう)
グロウリーは耳をぴんと真っ直ぐ立てて、再びわたしをじっと見つめた。
「ロ・ヴォルってあなたのこと?」
「そうだ。正確には群れの事だが……今はそんなことどうでもいい、それよりも、お前はあの魔女とどういう関係なのだ? よもや彼女の使い魔ではあるまい?」
「それは違うわ」と、わたしは即答した。でも、確かに、最初に会った時、若しもそのまま帰らずに彼女達について行ったら、そうなっていたかも知れない。そうでなくとも、前に居た土地では、友達と別れ際によく言いあったものだ。くれぐれも、魔法使いには気をつけて、と。自分を失わないように。また会った時に、楽しく遊べるように。
(私のシュマを助けてくれたのだよ)
そこはヴィアが説明をした。
グロウリーはその話を聞き、目を丸くしつつ、ふっと睨むような眼つきになって、遥か遠くのヴィアへと問いかけた。
「お前は全て知って居ながら、こいつに願わせたのか?」
(一度だけならば何の影響もない筈だった。溺れかけた私は、目の前の藁に反応せざるを得なかったのだよ。いかに周りから畏敬の念を抱かれようと、私にもアキレス腱はある。シュマだけは。私からシュマだけは取り上げないで欲しかったのさ)
いろいろ突っ込みたいことがあった――わたしは藁でしかないわけ? とか、蛇の癖にアキレス腱? とか――けれども、彼女がシュマをいとおしんでいる事はもう既によく分かっていたし、言っても仕方ない事だって分かっていたので黙っておくことにした。そういえば、ヴィアも人間のような姿になれるんだっけ、わたしが藁なのはともかくとして。せめて浮き袋ぐらいは役に立ったと思うのだけど。
「なるほど、まあ、確かに、お前が春風を失って狂乱してしまうよりもいい結果になっただろう。だが、しかし、お前はこれを予想しなかったのか? 皆が願いの力に群がるこの様を」
(だから私は引きとめたのだ。そうでなくとも、この森には《奴等》がいる。私はその娘の安全を考えた。我慢できなかった苦し紛れの償いだ。私には責任がある。でも、彼女自身が此処を去りたいと言った。だから、帰り道を教え、私は見守る事にしたのだ。助けてもらったシュマと共に)
グロウリーはしばらく黙りこんだ。そうしていると、何だか耽っているようでかっこいい。そんな他人事みたいな考えていると、グロウリーは空に向って吠えるように言った。
「分かった。この話は止めよう。これから俺はお前達の協力者だ。俺には力しかない。力で敵わない所は、助けてくれ」
(いいだろう。私だってそちらへ行ける訳ではないからね。くれぐれも頼んだよ)
ヴィアの言葉は其処で途切れた。
何だかうまくまとまったらしい。これでわたしの目的は変わった。つまり、このままただ森を抜けるのでは無くて、石玉の原因を探る事。本当にわたしが役に立つのか、いまだに疑問に思っていたけれども、グロウリーがそう言うのだから出来る限りの事はしたい。わたしはよく分からないなりに意気込んだ。
「さて、願い蝶よ、お前はどう進むのだ?」
グロウリーに問われ、わたしは答えた。
「真っ直ぐよ。このまま真っ直ぐ」
感だった。しかし、妙に揺ぎ無い感だった。
グロウリーは小さく苦笑し、頷いた。
「よし。なら俺も真っ直ぐ行こう。だが、気をつけろ。道中、罠にかからぬよう」
グロウリーの言葉が、わたしの体に深く染み込んだ。この先、この先は、今まで以上に不吉でも会った。石玉が蔓延しているからだけではないだろう。とても、不吉な予感が、わたしの胸の中を過っていった。