2.癒せる者
〈2〉癒せる者
(石玉の元が崩壊した……?)
ヴィアの声が聞こえた。
わたしはじっと黒い風の去った方向を見つめていた。不思議な感覚だった。生き物の中から生き物でない何かが抜け、去っていくその様子。不思議な感覚に包まれた。
わたしの触れる樹の中にはもう、黒い塊なんてなかった。
「石玉だったんだ。本当に……」
エイプスは黒い風の去った方向を見つめながら呆然と言うと、思い出したように母である樹を抱きしめた。そして、はっとわたしの顔を見つめ、目を細めた。
「ありがとう。……本当に、ありがとう!」
言ってすぐに、彼の表情は崩れた。ずっと我慢していたのだろうか、どっと涙を流してわたしを見上げてきた。今までの不安。不安による孤独感。恐怖。それらがたった今訪れた安堵により弾け、彼の目から溢れている。何度も礼を呟いていたが、もはや言葉になっていない。でも、わたしには届いた。彼の気持ちが、痛いほど届いた。暫くエイプスは黙り、涙を出るままに出していった。そして、一旦落ち着くと、改めてわたしを見上げた。
「ねえ、君には言っておくけどね」
エイプスは何処か不安そうに口を開き、軽く自分の持つメイプルの毛皮を撫でて、まだ潤っている目でわたしをじっと見上げた。
「僕、この仔の命を無下にしたつもりはなかったんだ。この仔には感謝してる。僕の命を守ってくれてるから。きっと、あのユニコーンの仔が、いつも食べている草に対して思っているように、僕もこの仔の事を大切に思っているよ。この仔が生きてきた思い出も、心もそうだ。だから、いつかあのユニコーンの仔に会えたら、この仔の言葉を伝えて欲しいの」
「言葉?」
わたしが訊ね返すと、エイプスは深く頷いた。真剣な顔で、涙を拭い、彼は一言一言しっかりと口に出した。
「『君との思い出は、最高だったよ。僕はちっとも気にしてなんかない。今までありがとう、マフィン』……僕だと、あの仔には伝えられない。あの仔、きっと、一生僕の事を許さないから」
わたしは頷き、しっかりと心の中にその言葉を仕舞った。メイプルの最後の言葉だ。彼の本当の気持ちなんだ。短いけれど、精一杯の気持ちなんだ。マフィンがわたしの話を聞いてくれるか分からないけれど、聞いた以上は、責任を持って、わたしの心の中にとどめておかなくては。
心?
わたしはふと、その言葉に気を取られた。何だろう、心という言葉が、妙に引っかかる。その言葉を呟くと、得体の知れない焦りが生まれ、わたしの体を揺さ振ってくる。でも、何で? どうして? わたしにはまだ分からなかった。
「それにしても、どうして母さんが石玉になっちゃったんだろ」
エイプスが目を擦りながら樹を見上げた。
(確かに、その樹が罹るなんておかしいね)
今度の声は、シュマの声だった。ヴィアと共に見ているのだろう。
(その樹なら、普通は罹らないのに)
普通なら? どういう事だろう。
(シュマは春風の精。だから、分かるんだ。同じ精霊の事ならね)
(それって、精霊は罹らない病気なんだよ?)
ヴィアとシュマの言葉に、わたしは首を傾げた。
石玉がどういう病気かなんてわからない。この樹からすれば、内部に悪いものが巣食い、石のように動けなくなってしまう病なのだろう。
エイプスの母親が精霊の類である事は、一目で分かった。誰が見ても、例え、人間が見ても分かるだろう。
自然に起きた病? 精霊が罹らない病気なのに?
自然の用意した定め、それを壊そうとしている者。
願い蝶はそう言っていなかったか。
(お前、余計な事に首を突っ込む気じゃないだろうね)
わたしの心を透視したのか、ヴィアがそう言った。
(自分の立場をきちんとわきまえなさい)
ヴィアの言葉は、わたしの胸に大きく圧し掛かった。そうだわたしは、本当はとても非力なのだ。今でこそ願いの力があるけれども、これがなければ誰かの糧になる以外、何の役にも立たない。もちろん、誰かの糧になんてなりたくないので、わたしはいつも家に籠りがちの日々を送っている。そんな臆病なわたしが、何が起こっているか知った所で、何を出来る訳でもない。願いの力がなければ尚更。
――願いの力。
わたしはふと思いなおした。
願いの力があったら。もしかして。
(妖精さん、駄目よ)
シュマが言った。
(願い蝶に捕まっちゃう)
「ねえ、どうしたの?」
シュマの声に被さるように、エイプスが覗き込んできた。
わたしは我に返った。見上げてみて、わたしは息が止まりそうになった。エイプスの母親は、会った時とはまるで違う神々しさに包まれていたのだ。もちろん、会った時がそうでないという訳ではない。会った時から、彼女はただならぬ者の気配を醸していた。だが、今はそのレベルが全く違う。なんて、美しいのだろう。なんて、神々しいのだろう。精霊の一種と訊いて、疑問に思ったりしない。それどころか、女神の様だった。
エイプスは母親を見上げると、わたしの裾を掴み、にこやかに笑んだ。
「母さんが、ありがとうって言っているよ」
エイプスの言葉に、わたしは身体の奥が揺さぶられた。どうしてだろう。とても重たくて、とても沁み込んでくる言葉だった。今まで沢山ありがとうと言われたけれど、エイプスの伝えてくれた言葉は、一際重かった。
わたしは気付けば、エイプスの母親にもたれ、その雰囲気を感じ取っていた。美しい音色と、涼しげな気が、わたしを包み込む。
この辺りの命の源。
それらがわたしに伝えてきた。
ありがとう、と。
「ふうん、素晴らしい力だ」
突如、低い声がして、わたしもエイプスも驚愕した。慌てて声の方向を見やると、そこには、狼がいた。わたしは、その狼をまじまじと見つめ、あっと声を上げた。
見覚えがあった。その逞しく雄々しい姿には。
「グロウリー!」
エイプスが声を上げた。
グロウリー。それが彼の名前なのだろうか。彼は目を細め、太く短い尾をゆらゆらと揺らし、わたしを見つめて来ていた。その顔には幾つか傷が残り、厳つい雰囲気を作り出している。
わたしは彼を知っている。
さっき見知ったばかりなのだが、間違いない。マフィンを諦めた、あの狼だ。
「お前のような願い蝶が早く来てくれたらよかったのにねえ」
グロウリーは低い声で言い、肩を落とした。その様子からは、マフィンを狙っていた時の様な荒々しい様子は感じられなかった。何処か、寂しげな、切ない雰囲気を醸していた。ふと、エイプスが彼に近づき、その肩を軽く叩いた。
「ラステラさんの事を思い出しているんだね?」
エイプスの言葉に、グロウリーの表情がますます曇った。それを自ら払うように、グロウリーはエイプスの母親を見上げる。その様子をじっと見つめ続けて、わたしはやっと分かった。かつて、グロウリーの身近な人も、エイプスの母親と同じ病に罹ったのだ。そして、きっと、その人は……。
イメージの渦が、わたしの思考の中で溢れかえっていく。きっと、きっと、このグロウリーという狼は、わたしに願うだろう。
(そう。そして、あなたはそれを叶えるの)
聞くのも心地よくなってきた声。願い蝶はくすくす笑っていた。
グロウリーは軽く息を吐き、寂しく笑んだ。
「ラステラの最後の表情が、苦しい表情じゃなかったのは救いだよ」
グロウリーはそう言い、わたしを見やった。
「なあ、願い蝶。頼みがある」